愉気について

この数日、愉気についてまた改めて考えていた。実際は「考えさせられた」という体なのだが。最終的に「ピタッとする」という、これに尽きる。これ以外の何ものでもない。それは「静止」ということでもあり、それと同時に「適合」ということも意味する。

ここで「同調する」などというと、なにやら解ったような気にさせられるから自分としては肯えない。そういうテクニカルな気配が残っていてはだめだ。

「無心にやる」などとい言うのもあやしい。無心などあったとすれば、それはもう「無心」ではないではないか。もっと自身の内奥の命がそのまま出てくる感覚だ。

一方で「やさしい、やわらかい」気であるということは必要条件である。最終的に人格から滲み出る深い愛情のちからが育ってこないことには話にならないだろう。

毎日仕事で行っているのだから中にはうまくいくこともあろうが、「うまくいった」と思ったらそれもまた邪魔だ。兎に角、淡々と静を養うことだけがそれを可能とする。

愉気は整体の基本であり根元でもある。どんな人にも、はじめたその日からできるし、一方でいわゆる「熟練者」でも力を失うことがある。経験の積み重ねによって気が研ぎ澄まされたり、逆に経験故にナマクラにもなるのだから妙なものだ。

一切の努力も汗も放擲して「そのまま」やるというところに、東洋人が好む「無」の本質があるようだ。この価値観に触れられるまで自分は十年を要した。

ただし掴みどころのないものに掴むところができた時は注意が要るのだ。直ちに手放して、からっぽにしておきたい。余計なものをみんな打ち捨てた時に、また最初のまっさらのスタート地点に立ち戻る。「普通」とか「今」とか言われるものがそれだが、もう一つ無理やり表現しようとすれば「黙」の一字になるだろうか。

結局のところ万言はたった一つの黙を表すためにあるのかもしれない。そして「何もない」ということを表現するにはやはりこれしかないのか。無と有は同じ事象の別称なのである。そのどちらのスパッとない、そういう有りもしないものが厳然として在ることが判ると、自身に最初から与えられている本来の自由性に気づく。全くよくできているものだと思う。