「科学的」であるために

息子(6歳)が保育園で友達とケンカしたという。6歳児ならケンカぐらい毎日するだろうと思ったが、問題の焦点は石鹸で手を洗うかべきか否かだったそうで、これでは先生も報告せざるを得ない。

息子が「ばい菌はちょっと残しといたほうが(体のバランスとして)いいから石鹸は使わない」というのに対して、相手のAクン(仮)は「ばい菌はキタナイから石鹸でしっかり洗い落とさなければならない」と言う。

そのまま互い譲らずワー!となったそうだが、先生が間に入って「いろいろな考えの人がいていいんだよ」と収められたそうである。

後で息子には「うちの考え方は少数派なのだ、(ばい菌を)怖がっている人たちの前では石鹸を使うという気遣いも必要なんだよ」と釈明したが、時節がら私がもう少し配慮しなければならなかった。

さて、この話を取り上げたのは「どちらが正しいか」を後から追求するためではなく、別な角度からこのやり取りが気になったからである。

それは「科学的」という視点についてである。「科学的に正しい」ということは言うまでもなく現代においては錦の御旗である。

一般にはAクンの主張は「科学的に正しい」とみなされがちである。免疫学による人体の抵抗作用の考え方よりも細菌学の感染症恐怖の主張が優勢なためにぱっと見正論に見えるのだ。

しかし事実に即して考えるなら、洗わない手でお菓子のつまみ食いをした人たちが毎回お腹が痛くなるわけでもなく、またほとんどの病気にもかからない。

石鹸で手を洗うのは人間の中でも一部で、それ以外の人間やもっと「不衛生な」環境下にいるネズミとかゴキブリがいつの世もあふれているのは野生が衛生知識に勝ることの実証であり、生命の恒常性(錐体外路系)の力を認めざるを得ない。

だからといって息子の態度がより「科学的である」という考えには当然至らない。

そもそもこれだけ科学の大好きな先進文明国の人間が、「科学的とは何か?」ということをどれだけ明確に答えられるかとなると、だいぶ怪しいように思われる。

「科学的」ということの定義をどんどん科学的に突き詰めていくと最後は大分あいまいになるそうだが、私流に言わせれば「それは本当だろうか?」ということになる。

おそらくだが息子もAクンも「ばい菌」など肉眼でも顕微鏡でも見たことはないのだ。

息子は親の言葉を鵜吞みにし、Aクンにも世間一般の論理に対する鵜呑みがある。

お互いが「人がこう言っているからこうなのだ」という考え方を持ち寄り、それを比較してお互いの非を突っ突き合う。人間の争いのひな型がここにある。俗人の神学論争、宗教戦争といえどこの域を出ない。

もしAクンにジェンナーの種痘の話を聞かせて、「予防接種の注射器の中身にはばい菌も使うんだ」と教えたらどうなるだろうか。「鵜呑み」という態度の問題点に気づき、人の話を聞くときにもっと慎重になるかもしれない。

「毒をもって毒を制する」というのは古人の観念論ではなく、毒も薬も同じ物質の二つの側面であることを感覚的に掴んでいたことを匂わせる。

生活に直結しない知識の押し売りよりも、自発的に沸いた興味を丁寧に見つめ「事実に学ぶ」という意欲を育てることはもっと重要ではないだろうか。

息子にもコッホやパスツールの細菌学の話をしたら、ばい菌の怖しい面を理解するだろう。

一人の人間の身体には数えきれない微生物が共存しているが、その数はそれぞれが拮抗し、均衡を保ち、お互いの個体生命の全うに向かって動いている。

このはたらきがなくなったらいくら全身を消毒液で洗おうとも、予防接種を毎日打っても追いつかない。亡くなった人を一週間も放置した姿を思い浮かべればそれは明白である。

生きている間はその個体を腐乱させない「何か」がある。しかし腐乱と言ってもその腐って乱れている中にもやはり「いのち」は在る。

だから一つの微生物を取り上げればやはりそこにも生滅があり、個々が生まれたり死んだりしながら「全体が生きている」という事実が、我々には絶えず死角になりやすい。

これを禅の方では「万法一に帰す(ばんぽういちにきす)」と言ったりするが、その帰る「一(イチ)」というのが私であったりなかったりするから、結局この世は捉え処が無いということになる。

果せるかな、ばい菌を生かすもよし、殺すもよしということになろうか。ばい菌を自らの免疫活性の糧とするか、これを過剰繁殖せしめて死に至るかは宿主の「勢い」ということにかかっている。

畢竟いまの衛生観は人間からこの勢いを削ぐようにも見えるが、確かに先行きの不安に怯え委縮する人もあるかと思えば、苦境に負けないよう自分を鼓舞して働く人もある。またストレスを感じておらぬ人もある。

氷雨に濡れて風邪をひく人、冷水をかぶって丈夫になろうとする人、何もせずに平気に生きる人の違いはここにもあると見え、社会情勢がどうであろうと人間の傾向は変わらない。

「意欲」と「勢い」、この二つは依然として科学で取り扱うまでに至っていない。

結局この世界はよくわからないものがいつも無限の活動をしているだけである。科学はその中から一個を取り上げて、分析により理解させてくれる貴重な道具だが、その道具の使い手は何なのかを一人一人が自覚する必要があるのではないか。

その答えを「外に求めてはならぬ」といった臨済は、一体人々の目をどこに向けさせようとしたのか。頭が大きくなり過ぎた現代の人間こそ、この事を本当に見極めねば自分で自分の始末がつかない、納得がいかないということになりはしまいか。

出だしから話しの論点が大分ずれてきたが、科学を好む好まざるにかかわらず、現代人と呼ばれる我々は自然科学を基盤に思考していることをもっと意識する必要性を感じる。

科学的であるために科学の性質(利点と限界、問題点)を理解し、そのうえで活用すれば、やはり便利なものだのだ。このような冷静かつ公平な態度は次代を生きる子どもたちの思考態度をより上質に導くはずである。

人間の進歩とは、膨大な知識の上にさらに知識を積み上げていくことではなく、自己に対する信頼を代々分厚くして、惑わされない人間を作る術を磨くことにある。

これは「本当にそうだろうか?」という自分自身の眼で真理を求める本当の科学的態度と矛盾しない。人間のものの見方は依然としてさらなる進歩が要求されている。

最初に戻って子供の問題行動と呼ばれるものを丁寧に観ていくと、それが大人の世界の不自然さや不均衡を代弁していることが多い。大人はうっかり見落としがちだが、よくある「子供のケンカ」と看過してはならに面はいろいろな所にある。

子供の無智を大人の無知と混同してはならない。子供の自然を守ることは次代の自然保護に直結する。真の冷静さや客観性が人間を愛する情熱によって支えられることも矛盾しないのだ。

冷たい試験管の中で展開される科学の世界に、温かい人間の血を通わせることも可能だろう。そうすれば真理を求める意欲はいよいよ増し、巷に横行するにわか科学でも、より科学的になるべく錬磨されていくのではないだろうか。