ドンスィンク ジャスツフィール

ホームページに「ココロとカラダ」と表記しているので、来院される方はある程度心の準備をして個人指導に臨まれる。ところがお会いしてみると、「心の定義」は個人個人みなバラバラなのだということをいつもいつも思い知らされるのだ。

特に、心理療法やカウンセリング、ヒーリング・セッションなどを受けてから来院される方は、ある程度「自分で自分の分析は済んでいる」と思っていることが多い。ところが〔身体〕を媒体としてやり取りしていくと、自分のことを「考え」ては来たけれども、「感じる」方はサッパリなのだ。つまり「分析」といったって遊びみたいなもので、何にもなっていないのである。

誤解のないように補足するが、心理療法や精神分析を否定する気は全くない。しかし実際にカウンセラーがこれらの技術をプロのレベルまで身に付けるには多くの時間と体験を必要とし、またクライエントにとっても大変な心的エネルギーを要するものであることを知っている。それだけに、そう簡単に「解りました、治りました」などといったものの大半は「にわか」なのである。

話を戻すと、「心」というのはおおまかには「理性」と「感情」に大別されるが、実際の心にはそういう境目がないから厄介だ。例えば、「ごはんが旨いか不味いか」、というのは本人が主観的に「感じる」働きだ。ところが「不味い」と感じても、直後にその栄養価とか、値段の高い安い、あるいは会食の席であるとか、そういう理由から合理的に「考えて」食べ出すと、最初に不味いと感じたモノがぼやけてくる。

つまり、この場合は理性が感覚を磨滅させたのだ。ではそれによってすっかり感覚上の問題が解決したのかというと、最初に感じた不快(不味い)というのはやはり心のどこかで生きている。そして身体上には、その感じた方が現れるようにできているのだ。疾患や怪我というものは、みんなそういう系統の現象といえる。

仮に「泣こう」ということをいくら考えても、泣きたくなるような情動が起こらなければ、本物の涙は出ない。このように「考え(理性)」というものの生理機能に対する影響力というのはほとんど0(ゼロ)なのだ。

だから整体指導で取り組むべき「心」というのは、常に感情を中心とした精神の動きである。全般に身体の調子がすぐれない、という方は理性に偏り過ぎて、感性の方が眠っている。いくら「心、心、」と謳っても、その定義が正確に共有されなければ一向に仕事が始まらないのだ。

最初に「感じる」という出発点があって、そこから思い、考えることが出てくる。感じることを主体として生きる手段というのは、分析ではなく、内観であり、言葉ではなく、沈黙である。ただし、その内観とか沈黙に誘うために「言葉」は有効な手段として使われるべきなのだ。

つまり「考えないで、感じよう」、と。それをさらに雄弁にしようとするとやっぱり、「黙」になるんだけどね。