離乳食に偏食はない:子供の「食べない」には理由がある

今春から太郎丸は保育園だ。事前に下見に何回か行ってるけど、やっぱり泣かない。人見知りしないのだ。幼児が知らない人をみて泣くのは、かつて「初めて会った人」でこわい思いをしたからである。

具体的には、まず産湯とか。これが熱すぎると、やっぱりこわいと感じる。だけど生まれたばかりの子は「熱い!」とは思わないで、「!っ・・」と思う。次に「これはとんでもない世界に来た」とそう思う。そうするとまず初めて触れるものに対する「警戒」が生まれるのだ。

それから「病気の予防」だといっていきなり注射を打つ。これも当人には理由がわからないから、「ビョウインはイタイ!」という連想が固着する。そうやって「事実」に触れる前の観念の方が身体につよく影響するようになってくる。「と、思い込んだ」ことは身体上に実現するのである。

それはそうと保育園のアンケートに「特に好きな食べ物」と「嫌いな食べ物」の欄があって、固まってしまった。好きなものは「その時食べる物」と書きたいところだが、それじゃあ困るのだろうし‥。でも実際はそうなのだ。

ところが大人は過去に体験したことを「そうだと決め込んで」与えるから、「はい、○○ちゃんの好きな、好きな○○よ」といって、例えばトマトを出したりする。ところが食べない。

それはこの前食べた時はおいしかったというだけの話で、今日はまた別問題である。別に「キライ」ではないのだけど、「キライになったのか」と考えたりする。こうやってるうちに大人の方がいろいろと複雑に考えるようになる。

そもそも、そうやっている大人の方は自由に食べられるはずなのに、案外自分で自分を縛っていたりする。「わたしはコレが好き」と思い込んでいると、いま腹が減ってなくても出てくるとつい食べてしまう。タイミングも量もお構いなしにそうやってしまう。そうやって「うまいか、まずいか」もわからない大人が、純粋な感覚をたよりに生きている赤ちゃんに食べさせるのだから無理がある。

ともかく子供に「偏食」はない。

いつだってからだの要求に寸分くるわず食べている。

砂糖でも塩でも、そのときからだに用があるもの(合うもの)はうまいし、からだに合わなければうまくない。身体が疲れれば甘いものが食べたくなるし、頭が疲れれば辛いものが食べたくなる。

そういうふうに感覚(この場合は味覚)は偏らない。偏るのは身体に良いとか悪いとか過去に覚え込んだ「観念」の方で、その偏った観念と並べて比較するから、「今の味覚」という正確な指標の方が歪んでいるように錯覚してしまう。

また食べないとしたら、その食べない原因には味とか量だけじゃなく、あげる速度とか、スプーンの色・形・温度とか、またその口に持っていく角度とか、あるいは天候、お母さんのキゲンの良し悪し、声のトーン、昨日の運動量などなど、いろんなものが複雑に作用して、赤ちゃんの胃袋というのは動くのである。

だから「なぜ食べないのか」を感じとる力がないうちは、前の「食べた、食べなかった」という記憶の方に踊らされるより他はない。そういうわけで子供の偏食に悩む前に、大人の感受性を見直す方が正解なのである。

身体感覚を鈍らせていては育児はできない。いや育児にかぎった話ではないが、感覚こそが真実なのである。その働きを保つために体を整えるべきなのだ。ここに至って食育以前の体育の必要性を改めて世に問いたい次第である。