影をなくした男

シャミッソー作『影をなくした男』を読んだ。

wikiによるあらすじはこちら

物語の主人公シュレミールが自分の影を大金(無限に金貨が出てくる袋)と引き換えに悪魔に売り渡したことからさまざまな出会いと別れ、そして深い自己内省の後に開かれる第三の道。

まさしく個人の人生の縮図として象徴化された物語といえる。そこで、シュレミールが手放してしまった「自分の影」とは一体何を象徴しているのか?という深読みが他の本やネット上でよくなされている。

心理学的に読もうとするならば、まず「影」といった場合それは「心の中に潜在する上手く生きられていない自分」を指す。

例えば非常に誠実で一般社会の価値観を遵守して生きているような人にとっては、反社会的な(暴力や盗みのような)行為をやってのけるような人格が「影」になっているのだ。

つまり「善人としてしか生きられない私(自我)」を育ててきた人にとっては、それに反する行為はすべて理性によって抑圧され、心の中の影の領域に押し込まれてしまう。

このような人に対して一般的には「善人で何が悪いのか」と考えられがちだが、人間といのは悪に偏るのは無論よくないが善に偏るのもまた「病気」なのである。

「人格が円やかに発達、成熟する」といった場合、それは自分の裡から出てくる情動をすべて一度は受け入れて、社会的に支障のない形に変性させてつつ行動に移し、一つ一つの要求を実現していく必要がある。

仮に例えるなら「月」だと思ったらいい。

「影」は現在においての自分に「欠けた部分」であり、これから満ちて完全になっていく際の可能性であり伸びしろである。

主人公シュレミールは、その大事な影を、財貨と引き換えに悪魔に手渡してしまった。

するとどうなるであろうか。

それまでとはまるで事態が一変する、主人公の周りから人が去っていく。

しかし物語の中で「影がない」という事実がこれほど猟奇的に見られるのがちょっと共感しがたいのだが、まあリアルで考えたら確かにとんでもないことではあるか‥。

そこで頃合いを見計らってまた悪魔が現れて今度はその影を返す代わりに死後の魂を引き渡すように持ちかける。かなりギリギリの取り引きを迫られたところで悪魔を一喝し、影も財産もその悪魔に叩きかえして追い払う。

その後、たまたま古道具市で買った靴が「一歩で七里すすむ魔法の靴」であったことに気づき、そこから人生の新たな扉が開ける。かねてから興味のあった自然研究家となって世界中を飛び回りながら躍動する人生を生きる、という筋になっている。

シュレミールは影を切り捨てることで一度は富を得たが、それと引き換えに社会とのつながりを失った。その後何度も現れては魂を引き渡すように誘惑する悪魔の要求に屈せず、ついに影の対価として手に入れた財をも打ち捨てたところで新たな道が拓いたのである。

これが人格の変容・成長に伴って起こる苦しみと、何かを手放すという決断、そして突破した後の解放感を表現しているようにみえる。スランプとか閉塞感に悩まされている時に読むと痛快でもあり、その先の漠とした希望を感じさせるかもしれない。

少し話はずれるが、この表紙にもなっている挿絵の主人公シュレミールの特徴は前後型五種そのものであるのが面白い。こまかく見ていくと、まず首が前について顎が突き出ている。そして膝から下が長く前に大きく駈け出している。

利害得失に敏感で、且つ変わったもの新しいものに飛びつきやすい五種なら金貨と引き換えに影を売り渡すという動きにも納得できる。

もしこれが上下型の一種だったら影がなくなるような変わった人生になることをまず嫌がるだろうし、開閉型九種だったらこの灰色の外套を着た男(悪魔)が誰なのか、どこからきて、何の目的で自分の影を欲しがるのか、そういう理由を全部調べ挙げて納得するまでは絶対に取り引きしないだろう。

まあ挿絵と作者の意図がどれだけ関連しているのかはわからないけれども、人間の内的な成長とそれに伴う艱難辛苦をファンタジックに書き綴った読み物としては面白い。

もちろん物理的に影をなくした人なんていない訳だが、心の中から影を切り離して生きている人と向き合うのは職業上の常とも言える。いや人の影の心配よりも、自分の影の点検をしっかりやるべきなのだが。「影」とはいのちの次に大切なもう一人の自分であり、自分自身の影の受容を済ませた分だけ他者に対して教え導くことができる。

こういう学術的な考察以前から、日本語の場合は「苦労人」という一語に集約されるのかもしれない。病気が身体を整え、葛藤が心を成長させるのである。苦しい時は自分なりの耐え方を覚えて、成長を待つのが上策だ。待てば海路の日和ありで、ひたすら「整えて待つ」ことさえきちんとできれば、シュレミールの如く開花の「時」は必ずやってくるだろう。