忙中閑あり

日本の現代社会を生きている人ならまず「閑(ひま)」な人などいないだろう。

ともかく「何もしていない」人など見つけること自体、困難を極める。

電車に乗っていてもスマホを凝視、降りても凝視、あるいはパソコンを開く、テレビを観る。

頭の中をあらゆるジャンルの情報が無作為に駆け抜ける生活をされている方が圧倒的に多い。

それが「良い、悪い」ということはまったく当人の趣味嗜好だが、そのような毎日にあって「本来の自分」というものを見失わずに生活ができるのかと、心配になる。

うちにお越しになられる方も総じて「忙しい合間を縫って」来られる方は多い。

まさしく「忙中有閑(ぼうちゅうかんあり)」の故事に倣うように、忙しいさ中にあって閑(静)を求めて来られるようである。

ただしこれは何も「忙しいさ中でも時間をひねり出し、お茶の一杯でも飲もう」という話ではない。

「忙しい」といっても「ひま」といってもそれは外の現象ではないのである。

「心を亡くす」と書いて忙しい。

こういう文字の成り立ちから言っても、「忙しい」とは物質現象ではなく心理現象であることは明らかだ。

そして心理現象とは即ち身体現象なのである。

心を亡くしているのなら、その心を蘇らせればいい。

これを生理学的にいうなら、脳のはたらきを切り替えることなのだ。

身体の力の一切を抜かなければ、頭は休まらない。

そのためには身体の中に緊張を点在させている未消化の感情エネルギーを見つけだし、よろしく流してやることである。

この世界には最初から「忙」という現象などない。

よって自分自身の心の掃除、そして体の整頓こそが忙中に閑を生み出す。

まさしく自他一如。身体は世界を映し出す鏡なのだ。

鏡の曇りを取り除けば、そこにはそのまま、あるがままの現在の様子だけが映される。

その時にはもはや「忙」も無し。「閑」も無し。

そうなればこの世界を取り換える必要も無し。

自分が自分に還れば、みんな消えてしまう。

本当の閑は「今、ここ」にあり、なのだ。