アレルギー症も活元運動をやっているだけでよいのか:それ以前に整体の生命観を理解することが大切

質問〕 アレルギー症も活元運動をやっているだけでよろしいのでしょうか。

 アレルギーというのは敏感な、感じすぎるという状態です。

活元運動をやっていると、一時はその過敏が強調されるが、すぐに正常な状態に還ります。

鈍いのよりはいいです。

アレルギー症には、体のアレルギーと頭のアレルギーの二つの場合があります。

頭で空想すると、ちょうどレモンを見ると唾が出易くなるように、空想すると体に過敏に作用しやすいというようなのが頭のアレルギーです。

活元運動をして良くなるのがは体のアレルギーの方です。体のアレルギーの人が活元運動をすると、一時過敏が濃くなります。

それから良くなります。(野口晴哉著『健康生活の原理ー活元運動のすすめー』全生社 pp.144-145 一部の改行・太字は引用者)

この『健康生活の原理』が出版された昭和51年から比較すると、アレルギーを持っている人は格段に増えている。

全般に体の過敏反応を呈する人が多くなってきているのだ。

個人的にはアレルギーと聞いてまず浮かべるのは花粉症とアトピーなのだが、活元運動をやっていってこれらが劇的に解消するかというと、なかなかそう単純なものではない。

わたし自身花粉症とアレルギー性鼻炎を持ち合わせているけれども、野口整体をやってからどうなったかというと、そんなには変わっていないのである。

ただし野口整体流の病症観を知ったことによって、同じアレルギーが出るにしても対応の仕方はまるでちがう。

整体流のそれというのは兎にも角にも「まかせる」というもので、体を整えることで本来のはたらきを高め、その邪魔をしないことなのだ(※ただ放っておくことではない)。

これについて畑は異なるが、精神科医の神田橋條治氏が述べる精神療法についての説明が非常に的を射ているのでここに少し引用する。

精神療法とは、自然治癒力と自助の活動とを活性化し活用することである。その方針をコトバでまとめると、「引き出す」「妨げない」「障害を取り除く」となる。(神田橋條治著『精神療法面接のコツ』岩崎学術出版社 p.32 太字は引用者)

このように整体指導、精神療法のいずれにしても、原則的には「クライエントが自分で治る」という「可能性」に着眼し、これを暗に助勢する行為なのである。

つまりは「生命」というのは「狂うこともなければ、冒されることもない、全きもの」、という信念が先ず真ん中にあって、治療者はそれをただ「みている」だけという構図に集約されていく。

だからアレルギー反応についても「出るものは出るにまかせて、どんどん出してしまう」という、そういう態度に徹しきってしまうのだ。

事実そのように考え行動していけば、体に対する背きがないぶんだけ経過はなめらかになるのは当然である。

また妻を例に挙げると、産後アトピー性の皮膚炎がだいぶ出たのだが、とにかく「何もしない」で経過を見ていくこと1年、2年、3年、‥ようやく最近肌の感覚がふつーに戻ってきたというではないか。

これが果たして「活元運動をやっていたから」なのかどうかは実証できないけれども、ともかく炎症を薬で抑えない、外から保湿もしない、落屑(らくせつ:肌のぽろぽろ)もなるだけ手をつけない、そういう手法でずっとやっていって、中庸の速度で治る方向にずっと動いてきているのは事実である。

わたしのところには野口整体を標榜していることで「アレルギー」にかぎらず、実際にはいろいろなことを頼まれるけれども、最初の関門はこの「思想」に関する理解と共感である。

これがないと整体指導も行えず、活元運動もお教えすることはできない。こちらがいくら教えようとしても相手の「判断」の壁にはじかれてしまう。

本当なら「指導」というのはそうした教育までが含まれるのかもしれないのだが、一方では「憤せざれば啓せず」というもので「教育」というのは指導力と理解力(と求める力)の乗算で成果が出るものだ。

とりわけ生まれてから長いあいだアレルギーに悩まされてきた人にとっては、価値観の転換こそが大きな障壁であると同時に、可能性を開く鍵になる。

言いかえると野口整体の本質を見抜く直観力と継続力、これによって体質改善の扉は開かれると思う。