擬死再生

「修業で山に入るいうんは擬死再生やで」

数年前に関西で山岳修行をしたときに、同行した先輩修行者からいわれた言葉を思い出した。

昨日の「窮すれば…」を書いて読んでたら浮かんで来たのだけど、「擬死再生」というのは簡単に言うといっぺん死ぬということ。これはもちろん比喩として聞かないと大変です。

いっぺん死んで、それで人生はおしまいというのでは修行になりませんから。

だから「擬」死ということが本当に大事で、言いかえると「恰も死んだかの如く」という事でいいですね。

そもそもが何故こんなことを修行者に強いるかというと、その人の人生が「今までの自分」では乗り越えられない局面に差し掛かったことを想定しているのだと思うのです。

変わらなければならない、今変わらなければこれ以上は現実に適応できないというような、いわゆる窮し切った局面。昔の人はこういう時に上手い具合に山に入って、昨日までの惰性で生きてきた自分をいっぺんご破算にして、再生を願う(生命の刷新)。そういう文化が古く日本には根付いていたらしいのです。

整体指導という仕事はこの「擬死再生」を山という環境に拠らずして行なう現代式の神事と思ったらいいと思います。

つまり病気になったとか、精神が病んだという時、大変キツイことだけれども一旦はその全責任を当人に自覚してもらいます。

そうやって日常の空間でありながらも心身を疑似的に追い込んでいくという、「癒し」という表の顔とは裏腹にある所では非常に厳しい面があるわけです。

山の厳しさというのはこれとはちょっと違って、ツルッといったら本当に死んでしまう危険性もなくはありません。修行で命を落としてしまったらそれは「死行」です。もうそれ以降は行ができなくなります。

考えてみると、よく生きるために、変な死に方せんでもええようにと「行」は行うわけですから、模擬的に(それでもかなり大変になる時はありますけれども)死に親しんで、それでギリギリのところで変わっていくという方法があるならそれは理想的です。

もちろん山岳修行がわるいとか、これはそういう話ではありません。ただヘタとやると本当に危ないですから、そのためにきちっとした先達さんがいて、その人に守られ抱えられしながら、フゥフゥ言ってフラフラになりながらも安全に行ができるわけです。

むしろ言いたいのは、整体指導とかカウンセリングいうのはそういう厳しさというかキケン性もはらんでいることを自覚していないと、ある所でびっくりされることがあります。

どちらも上手な先生がやると、非常に効果があります。

よく効く薬だと思ったらいいかもしれません。

それだけ効くわけですから、当然毒性というか、心にも体にも強く作用します。

これが時として辛いんです。

本気でやっていかれた方はみなさん判ります。

ところがそうやって、やっとこ変わっていって抜けた時の爽快感も知っているから整体の指導者もカウンセラーも、そのクライエントと一緒になって耐えて忍んでついていける面があるわけです。よく考えたら山を歩く時の先達さんみたいなもんですね。

先達さんというのは何度も何度も山を登って降りてを経験している人だから、新米行者さんの何がどうツラいかもだいたい判るわけですし、どの辺から楽になるとか、行を終えた時の達成感とかも知っています。

何でもそうですが指導者というのはそうやって先に大変なところを経験して、少なくとも1回以上は大きな「山」を越えてきていることが資格というか条件になりますね。

自然の山もありますし、人生上の山もあります。谷もあるかもわかりません。

そういう所を人知れず越えて生きている人というのはやっぱり「見えない指導力」があるわけです。

そういう人がまず安全な環境を作って、そのなかでわざと苦労をさせて、その苦労を一緒になって味わいながら一緒に変わっていく。死にかけるような思いをしながらフラフラになりながら変わっていく。本当に擬死再生といったら、これほどピタッとくる言葉もないんじゃあないかと思います。

人間が治るとか変わるというのはやっぱり大変なもんだと思います。ユングは自分自身を「魂の医者」と言ったそうですが、やっぱりそこには本当にいのちが掛かっています。

そういう気持ち、畏怖のような念がない人はお山にも入れてもらえませんし、自分の身体にも門前払いを食います。まず誰よりも自分自身を甘くみたらいけない。生命に対する礼というのは易しいけれども、それに気づくには擬死再生の体験が必要なのかもしれない。