自分の力でよくなっていく

野口整体とユング派の心理カウンセリングの治癒過程は、見ていくとよく似たところがあると思います。

それは一言でいえば「無為を上手に使う」ということ。もっと身近に表現すると「そのままでいる」とか、「自然治癒」とか、「何もかもお任せ」みたいな言葉でも良いかもしれない。

これは偶然ではなくて、ユングが東洋思想のタオイズムからいろいろ学んだことと、野口先生が子供の頃から老荘思想に親しんだことに起因します。それぞれ出典が近いので「似ている」のは当然といえば当然なのですけど。

その共通の観点に着目していると「成り行きに対する信頼」とでもいうような、世界と自分を貫く大きな流れ(自然界の秩序)に対する畏敬の念のようなものが「どしん」と、意識のずっと底の方にあって、治療者と患者はその上で一緒に遊んでいるような感覚すら覚えることがあります。

体の問題でも心の問題でも、程度の軽いうちは「何かする」ということでだいぶん解消できます。冷やしたり、温めたりして治るものなら多分やったほうがいいだろうし、話し合いや議論、説教で解決する程度の問題ならお互いに腑落ちするまでどんどんやったらいい。

こういうものは絶対にいけない、ということはないのでいろいろ納得いくところまでやったほうがそれこそ心の面で解決は着きやすい。

それでも、体の問題だとどれだけ薬を使っても、切ったり張ったりしてもどうにもならないという根の深い問題があるし(深そうに見えて浅い場合もありますが)、心の問題ならどんなにいい話を聞いても、説教でも、気分転換をはかっても、解決しない時はしません。

整体指導、心理カウンセリングは大抵「そこからはじまる」、といっていい。

つまり、打つ手は全部打った、万策すでに尽きたりと、という時にはじまる最後の砦と思ってもいいくらいです。

それまでは「何かする」ということでずっと対応してきたものが、ことごとく効果がなくて全部つぶされていく。そうやってその人はどんどん追い詰められていって、とうとう切羽詰って、もう何もできないという所までいくわけです。

そうするとどうなるかというと、最後に「無為(こちらから何もしない)」という方法が残されている。

ただし、本当に何もしないんだったらそこに他人が関わる余地はないし、どんな問題があってもそのまま「ただ生きて、ただ死ぬだけじゃないか」と言いたくもなるわけで、そこをもう一つ進めて考えなければいけない。

指導者とかカウンセラーという人間がそこに関わることで、事態がどうなっていくのか。

それは、一つはクライエントの中で失われかけた「自分に対する信頼」、というのが回復してくということが挙げられると思います。

つまり「相手(自分)の力でよくなっていく」、「その人が自分の力で立ち上がってくる」という、最後の可能性が動き出して来るわけです。

自分の知恵と体力で立ち直ってくるならこれほど良いことはないのであって、そんな方法があるなら最初からやってます、と言いたくもなるけれど、実際一人ではそれができなかった。

そこへふらっともう一人、見守るというか、一緒にその問題を眺める人が傍らに出てくることによって何か変わったことが起こってくる、というのが「人間」の面白いところです。

カウンセリングの場合は、そういう状況にある相手の話を「一生懸命に聴く」という方法でいくわけです。整体だったら、やはり「そこに一緒にいる」、とか何かするにしても「手を当てる(愉気)」というような非常にやさしいというか、ゆるやかな「待ちの態度」で望むことが主になります。

こういう関わり方というのは、他ではあまりありません。一見すると頼りない感じもするし、そこにそんなすごい力があるとは気づかれないことが多い。ところがこういう方法がきちんと最後に残されているというのは、人間にとってすごく有り難いことだと私は思います。これがなかったら、最後の最後のところで人類はみんな救われないとすら思うこともあります。

改めて言葉にすると「無為を体得する」とか、そういうことです。いわゆる自然体、心においても、浮かんで来たことはそのまま、感じたこともそのまま、「受け入れる」ということも余分なくらいに手を着けないでいる。整体というのは、そういう意味で非常に平坦な、安楽の道なんだけれど、それと同時に険しさというか難しさもある。人によってはそれこそラクダが針の穴を通るよりも難しいかもわかりません。

だけれども、「自分の力でよくなっていく」というものが誰の中にもあるのは間違いありません。何パーセントかはわかりませんが、やっぱり万策尽きて、自分で解決していくよりないところまで追いつめられる人は一定数おられます。野口整体もユングのカウンセリングも(名前がないだけで、知らないだけで他にもいろいろあると思いますが)、そういう人にとっては非常に頼りがいのある方法だと思えるのです。