言語化の壁

以前に比べて最近はめっきり「整体」を語らなくなった。実際に人を前にすると整体についていろいろしゃべれるけれど、不特定多数に向けての文字化にはとまどうし躊躇する。誤解をおそれるのかも。だから語らないというよりは「綴らない」の方が表現としては正確かも知れない。

どっちにしても言語化したものからは「核心」が抜け落ちてしまうと思う。老子には「知るものは語らず、語るものは知らず」という言葉があるけど、ちょうどそんな感じだ。言葉は「核心」の周りをぐるぐる回遊する衛生みたいだ。

でもその衛星たちは「核心の水ぎわ」までは親切に連れて行ってくれる。その親切が最後の最後で壁を突き破る時にはジャマになるのだから面白い。

整体は聞いて理解するものではなくて、体験して得るもの。「体験してみたいな」という気になってもらうためには言葉は有効なのだから、もっと言葉の勉強が必要なのかも。言語化の壁というよりは自分の表現能力の壁なんだね。