飲食男女

老荘研究のパイオニア福永光司さんと河合隼雄さんの対談本『飲食男女ー老荘思想入門』を読んだ。タイトルからして何のことか‥と思ったらどうやら人間の生命活動の根源的な動きを象徴した言葉らしい。つまりは自己保存の要求と、種族保存の要求。俗に「花より団子」という言葉もあるけれど、この世の中の活動は花と団子が生命エネルギーの根源といえる。

特定の宗教では人間における動物的な欲求を否定的に見る向きもあるけれど、実際は身体が整うと生理的欲求はノーマルになる。例えば異常食欲なども身体の自然をコントロールしようとし過ぎてしっぺ返しを食っている訳だ。身体のもともとの感覚に親しんで生きれば、終わりの見えないダイエットや過食症などとも無縁の生活になる。

さりとて「自然自然‥」としきりに言ったところで、これがなかなかに難しい。生き物の中で人間だけが自然を体現するために鍛錬が要る。鍛錬というとまた「筋トレ」みたいに人為的になりがちだけれど、これともまた違う。身体の感覚に耳を澄ませて、「感じて動く」という自然体(感動体?)を養うのが鍛錬。だから修養といった方がもう少しシックリいくかもしれない。

「無為をなせば、治まらざるなし」という老子の言葉を手繰れば、「何もしない」ということの功徳を窺い知ることが出来るものだ。「無為」と「野口整体」は共に自然と手を取り合って遊ぶ態度を現すもので、呼び名は違えど核心は同じである。どちらも人工的なものが9割以上占める現代文明の中和剤に成り得る。

福永さんの論では自然を人工的な知識で統制する文化が儒教的な馬(北)の文化で、自然に逆らわずゆだねて生きる道が道教的な船(南)の文化なのだそう。今の時代どっちも必要ですね、という河合さんのまとめによって自分の職業的立場もピタッと定まる感があった。勘とか野性を主(あるじ)として、思考はその従者であることが望ましい。活元運動で個人の身体から社会機構までバランスを取り戻そうではないか。

2002年初版の本だが、この両先生がもうこの世にいらっしゃらないのがさみしい。それも自然のならいなんだけど。