せめて、人間になる

人間と動物の違いは「腰」があるかないかだ。と、最近につくづく思うようになった。

もう一つ、精神的に人と動物の違いは何かといえば、「主体性」ということではないだろうか。ではその主体性って何だといえば、自分の意志、決断で行動していく力だ。

ともすれば「動物にはそういう主体性などないだろう」とも思われがちだが、実際は動物こそが主体性の塊だ。

 

一般に言われる「俺はこうする」、「自分はこうやる」というのは本当は主体性ではない、と私は思う。

その「俺」とか「私」が初めからないのが動物の最大の強みであり弱みである。基本的に無条件の活動体として生きているのだから完全に「自由」なのだが、その反面、運命とか成り行きというものと一体化している点では木石と同種・同類といえるかもしれない。

 

その点人間の場合はどうかと言うと、動物にはない自我という大変便利な意識がある。が、その自分で創り上げた「自我」という枷にしょっちゅう躓いてもいる。愚かと言えばそうだろうし、整体で「ポカン(頭を休める)」を説くのはそういう枷を外すためなのだ。

 

そのために必須となるのが、「腰」。

 

古来からヨーガでも禅でも静坐でも、東洋における瞑想系の修行では背骨の形態が重視され、これを地面に対して垂直に立てることが入り口でありゴールでもある。

実際こうすることで「脳」が切り替わることが最近の自然科学のほうでもかなり明らかになってきたそうである。

「腰を立てる」ことを教育の第一義に据えた哲学者の森信三氏に至っては、

「つねに腰骨をシャンと立てること―これ性根の入った人間になる極秘伝なり」

と断言している。

 

さて、整体でも「背骨」を重用するけれど、これを単に意思力で真っ直ぐにしようという訳ではない。

このあたりが同じ東洋系の行法の中でも「異質」だと言えるだろう。

 

余談だが整体は「東洋医学」の一分野だと誤解されやすい。が、それは違う。

創始者がたまたま日本人だったというだけで、これは万国共通の“人間”を解き明かした普遍の真理なのだ。

 

その縦糸の一つは生理学だと思うのだが、「背骨が真直ぐに通る」というのは元来筋力に頼るべきものではない。

むしろ身体から一切の筋緊張を排した時に、気が通り、一本の筋(智)が宿る。

それは幾何学的な「直線」とは異なる「まっすぐ」となる。

 

この時に「俺が、私が」という自我の意識が沈まり、「一体」という観に没入する。いわゆる没我とかいわれる境はこれだろうと思う。

世間全般にリラックスブーム、脱力ブームであるのも何かと気ぜわしい世相の潜在需要を物語っているのだ。

 

野口整体で奨励する活元運動はそういう脱力運動の精髄だと私は思う。

「個人個人に、その時必要なものが、適量行われる」、という点でパーフェクトなのだ。

これを専一に行っていくことでポカンの深度は漸次深まっていく。

そして「腰」が形成されていく。

 

この二足歩行の要となる腰が動物と人間を分けたものであり、この腰がぐらつくと人間は主体性を失う。

動物が元来持っている主体性を再度獲得するために、動物にはない身体意識(腰)が要るのだから面白い構図だ。

 

「人間」というのはそういう、どこまでも後天的教育を要する文化の産物だ。

整体の目的をずっと煎じ詰めていくとどうなるか。それは「ヒト」を「人間」にすることかもしれない。

人間とは何か、という問いがまたここで求められるけれども、そこには「質」の高低差も当然あるだろう。

 

つまりは先に述べた「自我」。これを上質にするために一歩一歩進んで行く意志を有した者が「人間」であると信じたい。

そういう「せめて、人間らしく」と自分を励まし歩む人にとって、整体は最良のよすがになるだろうと思っている。