傍らにいること

傍らにいること

河合 カウンセリングは、ちゃんと話を聴いて、望みを失わない限り、絶対大丈夫です。でも、例えば「先生、次は学校行きますよ」「嬉しい、良かったね」っていうやりとりが何度あっても、やっぱり行けない。それでこちらが内心望みを失うとするでしょう。そうしたらもう駄目なんです。「アカンかったわ」と言われた時に、こちらがちゃんと望みを持っていることが大事なんです。

小川 まだまだ大丈夫っていう、望み。

河合 「行けなかった」と言った時「でも行けるよ」って言うたら、行かなかった悲しみを僕は受けとめてないことになる。ごまかそうとしている。「そうか」と言って一緒に苦しんでいるんやけど、望みは失っていない。望みを失わずにピッタリ傍らにおれたら、もう完璧なんです。だけどそれがどんなに難しいか。・・・ (小川洋子 河合隼雄 『生きるとは、自分の物語をつくること』 新潮社 pp.112-113)

久しく心理療法の記事から疎遠になっていた。この辺りは以前から行ったり来たりと言うか、自分が仕事をしていて対話が中心になる時期と、反対に言葉少なくなる時期が周期的に移り変わることに最近気が付いた。整体指導と心理療法は別々の環境で育った双子のように近い関係にあるが、いずれにしても「何でもよく話す方がいい」、「あまり言葉がすぎてはいけない」という二分法で仕事の良し悪しを評価することはできない。根本的にはクライアントの心に対してカウンセラーが「ぴったり」ついていけることが理想だろう。

上の引用は『博士の愛した数式』の原作者小川洋子さんと河合先生の対談本からの一節だが、この後もクライアントと関係を育てるための内容がつづく。受ける側にせよ、行なう側にせよ何らかの形で「カウンセリング」に携る方はならば一冊精読されるといろいろな面で学びがあるのではないかと思う。

当院には様々な「荷物」を背負った方がお越しになるが、時に自分自身の共感能力の乏しさに落胆することがある。引用の末尾に「望みを失わずにピッタリ傍らにおれたら、もう完璧なんです。だけどそれがどんなに難しいか。」とあるけれども、最初にこの文章を読んだときは「あぁ、そうなんだ」とさらりと読み流していた。つまりはそんなことは「カンタンだ」と思っていたのだ。

実際は「相手と同じ臨場感で、同じ負荷を味わいながら」も望みを失わない、というのが難しい。こちらが問題の対岸にいて「それは大変そうですね」というのと、相手と同じ岸に上がって「ああ、これは確かに苦しい…」というのでは根本的に違う。だから全人格的な治療を志すならば「心のひだ」が発達しないことには何も成し得ない。この辺りは修養あるのみである。

見出しの「傍らにいる」というのは一緒にいながら、努めて「何もしない」という態度だ。この「何もしない、をする」というのが治療の元型であると思っている。相手の潜在生命力に対する絶対的信頼を根底に据えた態度といえる。

自我意識の波を鎮めて、自然生命の波が表出することで、はじめて「治まる」ものがある。総じて整体の技術が「愉気にはじまり愉気におわる」という言葉を、味わい深くかみしめるようになったのもつい最近のことだ。依然としてわからないことは多いけれども、いつだって未完成と言う形で完成されているのが現在である。

「整体」というのも到達すべき目的地ではなく、より良い理想を描きつつ変化・成長していくプロセスの只中にある。そこを生きる者同士が傍らに在ることで、お互いの生命を尊重し合い、また高めていけるのだと思う。本来治す者と治される者は別々に在るのではなく一つの活動体なのだ。礼と惻隠の心がそれを一つたらしめている。「生命に対する礼」の生命が何を意味するのか、深く考える必要があると思う。