風の谷のナウシカ

自粛期間中のGWにはナウシカを観よう、もしくは漫画を読んでみよう、という記事を書こうと思っていたのにずるずると間延びして、もはや緊急事態宣言も解除されてしまった。

そうは言いつつ今からでも遅くはない、興味のある方は是非ナウシカを再体験して欲しい。また、これまで体験したことのない人には原作を手に取り、読んでいただきたいと思っている。

言わずもがなだが『風の谷のナウシカ』とは宮崎駿原作の長編漫画と、そこから生まれた劇場用アニメのことである。これは宮崎アニメと呼ばれる独自の世界観が開花した最初の作品ではないだろうか。

物語の舞台となる世界の状況や時代背景は以下の引用部に簡潔にまとめられている。

ユーラシア大陸の西のはずれに発生した産業文明は

数百年のうちに全世界に広まり 巨大産業社会を形成するに至った

大地の富をうばいとり大気をけがし 生命体をも意のままに造り変える巨大産業文明は

1000年後に絶頂期に達し やがて急激な衰退をむかえることになった

「火の7日間」と呼ばれる戦争によって都市群は有毒物質をまき散らして崩壊し

複雑高度化した技術体系は失われ地表のほどんどは不毛の地と化したのである。

その後産業文明は再建されることなく 永いたそがれの時代を人類は生きることになった

近未来を舞台としたSF作品は巷に数多くあるけれども、この作品の場合「おそらくこうなるだろう」という悲観主義的な未来予想図ではない。

連載当時の社会情勢とそこに潜在するさまざまな問題(民族、国家、思想、宗教、科学技術、等々)をモチーフにして、高度産業文明の興亡を背景に「人間は如何に生きるべきか」、いやそもそも「人間とは何か」、「生命とは何かという大きな疑問を作品全体を通して投げかけてくる。

こういった人間存在につきまとう根源的な矛盾に対し正面から考察していくには、既存の学問や宗教を捏ねくりまわすよりも、無意識の淵から生まれる「物語」のほうがはるかに豊潤で自由な創造性を刺激しやすい。と、思う。

そもそも文明とは人間の暮らしを「安全」かつ「豊か」にすべく生成されるものである。

その中でも科学を基盤とする西洋文明は、自然というものをコントロールしその恩恵を効率よく利用すべく発展してきたのである。そのために文明の発展に伴って、人間を自然から分離、乖離させる結果を招いた来たのだ。

そもそもが「自然科学」というものが自然と人間との対立構造を基盤に置くキリスト教文化を祖とするために、産業文明は時間とともに自然をじりじりと圧迫し、やがては大きな反発を招きついには文明そのものに破綻の影を匂わせている。

かつて様々な産業活動から起こった「公害」はこの科学文明の構造的ひずみが具現化したものと考えていいはずである。しかし公害が発覚した時にはすでに科学産業文明はのっぴきならない域まで複雑に社会機構へと組み込まれていたために、公害に関与する部分だけを社会からていよく切除することは困難であった。

ナウシカが生きた舞台は、そのようなニッチもサッチもいかなくなった高度産業文明が勃興してから1000年以上後の衰退した世界ということになる。

当然のことながらその時代になっても人間存在につきまとう矛盾もひずみを解決されてなどいない。

いやむしろ崩壊したのちに一定の時間が経ったことにより、その構造的な不調和が発酵腐敗して、文字通り「腐海」という名の死の森まで生み出していたのである。

今回のコロナにまつわる諸問題を目の当たりにすると、『風の谷のナウシカ』で示唆されていた「人間とは何か」、「人間は如何に生きるべか」という問いかけがいよいよ肉薄してきたように思われてならない。

劇中では腐海の毒を避けるべく瘴気マスクをつけるシーンが頻繁に出てくるが、主要先進国と呼ばれる国々の人々がみなマスクを着けて歩く姿と重なって見えてくるあたり、不思議な一致である。

ただそうした外観とはうらはらに内実はだいぶ異なる。我々の現実の方は腐海のような毒はどこにも浮いてないわけで、実際は目に見えないユーレイを相手に防毒マスクを装備して闇鉄砲を乱射しているようなものだ。この滑稽さが判らないというところが疑似科学文明の喜劇性であり、また悲劇なのである。

まあとにかく、この宮崎氏の先見性と言うか、本質を見抜く目は凄まじい。ナウシカの原作を丁寧に読んでいくと、そのことがつくづくわかるのである。これに因んで思うところ考えたことが諸々あるので、次回以降に分けて書いていければと思う。