活元運動のコツ「天心について」:ポカンとできない、ポカンってどういうこと?2

きのうの活元会の話のつづきになるけれど、野口整体の本には「ポカンとする」という表現がしょっちゅう出てくる。

それで最近気がついたことがあって、その「ポカン」という言葉の印象がつよいらしく、何か本当に頭が空っぽになってまったく念が浮かんでこないことを期待するひとがけっこういるのだ。

俗にいう「無心」とか「無念無想」とかいう言葉のイメージが先行して、自分がきちんと目が覚めて活動しているときでも「頭のなかに何にもでてこない」、そういうことが本当にあるように思われるらしい。

当然のことながらいくら「ポカン」といったって、そんな状態などありはしない。

あるワケがない。

少しこれに因んで仏道のほうから言葉を借りると、「目耳鼻舌身意(げん・に・び・ぜつ・しん・い)」というのがあるけれど、

これらは「六根」といっていわゆる「五官(五感)」、プラス「意」。意というのは、まあ心とかイメージのことを指している。

人間として生きて活動しているかぎり、この六つの感覚器官はつねに付随する、ということだ。

目が開いていれば必ず何かしら景色が見えるように、生きていれば頭の中にはいろいろな言葉やイメージがいつも去来しているのが正常なのである。

健全というのはこの正常さがそのまま現れていることで、それ以上のことを期待するのは誤り、というか欲ばり?

ところが「瞑想」とか「精神統一」なんて作り事をやろうとすると、この正常なはたらきであるはずの意識の活動を邪魔に感じるようになってくる。

俗にいう「雑念」とか「妄念」という取り扱いをして、とかく浮いてくるイメージをどうにかこうにか押しとどめようとするのだが、これは全くおかしなことではないか。

このあたりについて野口整体の『健康生活の原理』という本に「天心について」という見出しから始まる一文があるので、下に引用することにする。

天心ということ

活元運動も相互運動も、行うときに一番大切なことは、やり方ではありません。「天心」であること、が根本です。

天心で欲のない、相手に何ら求めることもなく、恩を着せることもなく、ただ自然の動きに動く、そういう心の状態でやらなくてはならない。

親切にしてやろうとか、やってあげる、受けているというような心があったり、自分の技術を誇るとかいう心でしてはならない。

…<中略>…

「心を空っぽにすることは難しい、無心になろうとすると、あとからあとから雑念がわいてくるのですが…」と質問した人がありました。けれども雑念があとからあとから沸いてくる時は無心なのです。

心が澄んできたから、雑念があとからあとから出ては消えるのがわかるようになったといえる。或る雑念が心から離れないで、次の雑念を生み出すようだといけないのです。

だから浮かんでは消える雑念のまま手を当てていれば動き出してくるし、動き出せばひとりでに雑念がなくなって、統一状態になります。(野口晴哉著『健康生活の原理ー活元運動のすすめー』全生社 pp.124-125 太字、改行は引用者)

このように、つねに何か浮いては消えていくのが生きているこころの実相といえる。

そのために、からだを静止して自分の念の動きにフォーカスしてみると、いろいろなイメージが流れていることにはじめて気がつくのだ。

ところがそういう中に、他人を悪く思ったり、欲心めいたことが浮かぶとすぐそれを「雑念だ」、という人がいる。

わたしに言わせれば、そういう風にただ浮かんできたことを追っかけて、これは良いとか悪いとかいうこと自体に不自然さがある。

むしろそういう行為こそが人間的な欲心ではないかとすら思うのだ。

例えば雑草なんていう言葉もあるけれど、もともとはこの世界に雑草という草はない。

ところが庭の手入れなんかしていて、この花はのこそう、この草はむしろう、そうやって分別心を起こすから「雑草という取り扱い」が出てくる。

別にそのこと自体、人間の生活を邪魔しているということはめったにないのだが、そこに好悪の情を持ち出すから障りになるのである。

「雑念」というものもこれと同じだ。

頭のなかに出てきたものは、別になんにも邪魔にはなっていない。

悪心といったって欲心といったって、そんなものはそれを相手にしているわずかな時間だけが問題になるのであって、一日の生活全体を見渡してみれば、風呂に入ったりお茶を飲んだりして、そのことがすっかり消えている時間もいっぱいある。もとより人畜無害のものである。

そんなものをいちいち振り払おうとしてみたり、呼吸に集中するだの、数を数えるだのいろいろやって、それでも「気がつくと考えちゃってます」なんてやっているのは、徒労以外の何ものでもない。いわんや自分の念を怯えて逃げ回っているなど滑稽の極みではないか。

もっともっと、自然の、あたりまえの在り方について目をつけるつもりでいたらいいじゃあないか。

訓練してようやくそうなるような話ではなく、普段の一日の生活のなかにだって「ポカン」としている時間はいくらでもある。

おそらくは今朝だって「無心・無念無想」で靴を履き、出かけていったひとがほどんどだろう。

そういう時にはいっさい気にならないものが、ちょいと「集中」とか「精神修養」めいたことをやろう、なんていうともうそれが気になってぐしゃぐしゃになってしまう。そんな人が存外多い。

ただ、そのまんまにしておいたらいい。

放っておけば出てきたものは即座に消えていくことに気づくはずだ。

瞑想だって活元運動だって教える人が「きちっ」としていれば、そういうこともおいおいわかってくるはずなんだけど。

むしろ一つの「雑念」を三日も四日も、ずーっと取って置こうと思ったらそっちの方が大変ではないか。

消そう、流そうなんて思わなくたって、こころに浮かんだものはいつだって自然に流れていってひとつも跡を残していない。なんだ、みんな最初っから無心だったんじゃあないか。

それに気がついたらもう作り事はやめてその最初のところに帰ればいい。いや、実際ポカンてなったら帰ることすら忘れるんだけど。ポカーン‥。

丈夫に育てるには自分の力で(病気を)経過させる:整体は自分がやるものである

病気させないのがいいのではなくて、病気をしても、それを子供自身の力で経過させるということが正当な育児法です。病気になっても、それを自分の力で経過し、全うするのでなければ意味がない。それを、治さなくては治らないのだと決めている。怪我をしたところで、その人の自然に繋がる体の働きがあって、その働きで繋がるのでなくては治らないのです。傷口を縫っても貼っても、それは早く繋がるように仕向けることであり、それで早く治るかどうかも判らないのです。けれども縫ったり貼ったりしただけでは治ったのではないのです。自分の体の力で治った時に、治ったと言えるのです。

麻疹がうつるといっても、その体がうつる時期でなければ、一緒にいてもうつらない。そして麻疹を予防しようとすると肺炎をつくってしまう。今年も肺炎になりかけた麻疹が随分ありました。予防注射でも、その体に適った時期にきちんとすればいい。しかし体が自然と発疹するのは、ちゃんと体が時期を選んでいるのです。だから一緒にしておいてもうつらないのに、幼稚園に一日行っただけでうつって来たというようなことがざらにあります。だから体に任せて経過を乱さないで通れば、あとは丈夫になるのです。(野口晴哉著『健康生活の原理』全生社 pp.39-40 太字は引用者)

整体指導を行うということは、病気を治すとか、病気を予防するとかそういうことは本来の目的ではない。

自分の体の力で経過させて、その力を自覚させることが根本理念である。

先日の予防接種の記事の流れで、つらつら書いてきているのだが本当に今の子供は肉体的にも精神的にも薬漬けだ。

大人の薬物中毒の問題もにぎやかだが、こちらは表面化しているのだからいわば陽性の問題である。つまりその罪は重いが根は浅い。

これに対して子供たちの薬まみれは陰性化している分、根は深いのだ。予防接種は表の顔としては良いこと、善いこと、として推進されてきたものだがこの世の中に100%良いことなどありはしない。

守り、庇えば、そのときはいいかも知れないが、相手の立ち直る力を奪いとることにもなりかねない。

さらには「副作用」に関する情報はほとんど表面化していない。つまり良いことばかりに目がいって、それ以外の反応には目を光らせない。もしくは目をつぶる。だから見えないのだ。

科学の目というのは本来、客観性や平等性が必須なのだが「人間」が行なう以上は真の客観性が発揮されるということは大変に困難なのである。

大抵は個人の利害や嗜好が大いに反映されて、見たい結果だけが見えることは決して珍しくない。

もう少し咀嚼していえば、副作用らしき反応が見えてもそれを認めまいと思えば「エビデンスがない」と言い放っていくらでも潰せるのだ。

余程の公平性をそなえた人間でないかぎり、真実の追求よりも個人的利害の方が先立つのがこの世の常、人情というものである。

個人的には予防接種を打った子どもをみると、妙におとなしいと感ずる。病気にさえならなければ平和だと考えるのだから、養殖人間みたいなものが増えるのではないだろうか。

こういう態度こそ見たいように見るわたしの「主観」なのだが、これは整体特有の人間観ともいえる。科学的医療の検査と整体的観察の違いを突き詰めれば、人間をできる限り数値化して測るか、感性で捉えるかの違いなのである。

これはなにも医療を全面的に批判する話ではなく、実際に平均寿命は延びているのだから一般医療の努力とその功績は当然認められてしかるものである。

ところがわたしはその医療の仕事に従事されている方々から、その限界性についてお話を伺うことが少なくない。医療のプロの方が西洋医療のゆく先にはもう答えはないとおっしゃる。

その反面、野口整体という世界に可能性を感じておられる方もいらっしゃるということだ。

この構図を整理して表現すると、「人間を知る」というプロセスを定量化から定性化へとシフトようというのである。

西洋医療が数値化の精度を高める客観性を第一として進化してきたのに対して、整体流に感性の質を高めた上での主観性を見なおして、相補的に「生きた人間」を捉えていこうという分岐に立っているのが現代である。

その第一歩が病気の自然経過を体験し、自分の真の体力に気づくことだとわたしは思う。

これによって今まで無自覚に封殺されていた「自分の生命感覚」を目覚めさせるのだ。体が整う、整っていくというのはいつでも「自分の感じ」というものが出発点である。

現代日本人の多くは子供の頃からそうした自然経過の機会を奪われているのだから、こうした生命の感覚を取り戻すのは実は大変な作業なのである。

そのために意識を静めて、雑音を排除し、徹底して自身の身体になりきる時間が欲しい。

整体指導というのはそういう自分の生命に対する最大級の礼を具現化したものと思ったらいいだろう。

そうした心身の「沈黙の時」がいのちを養うのである。

病症の自然経過というのは野口整体の看板文句の一つともなっているが、ただぼやーっと放っておくことではない。

もう一つ積極的に静けさを養うという、真摯な態度があってはじめて可能なのだ。自分の健康は自分で保つ、丈夫になる、ということは「やってもらう」ことではない。

自分で取り組んでいる人がどうしてもわからないところ、手の届かないところを指導者が手伝うというのが本来の形である。

健康というのはまぎれもなく自身の心の生活の積み重ねなのだ。整体というのは自分がやるもの。指導者の力を活かすのも自分、活かしきれなければそれも自分の裁量なのである。

病気が身体を丈夫にし、大人の身体を育てていく

体に起こるいろいろな変動も、いろいろなコースを経て抵抗力がでてきます。熱が出たり、汗が出たり、その他いろいろなコースを通って経過する。それを中断したらどうなるか。人間が病気になるという意味が解らないで、なるべく罹らないようにしようとしていますが、小さな児から大きくなるのには、いろいろな黴菌や、何かに対する抵抗力をつけて、何処ででも働ける大人になっていかなければならない。だから、病気にさえしなければいいんだといったような育児法は、温室の中に囲っておくのと同じで、子供の将来を弱くするのです。病気を途中で中断してしまえば、子供が将来、途中でバタッと倒れるような、あるいは力を発揮出来るものも出来ないような、そういう体に育ててしまうのです。(野口晴哉著『健康生活の原理』全生社 pp.38-39 太字は引用者)

整体の基礎、基本の話である。そして基本は極意である。

まずここがわからなければ、という所であると同時にここさえわかれば完成なのだ。

実際問題、野口整体の本を読んでくる人は多いが病気に対する理解とか、死生観まで共感してくる人は意外と少ないことが最近やっとわかってきた。こちらもうかつだったものだ。

予防接種のことを書いた記事のフィードバックからもわかったが、やっぱり病気を漠然と怖がっている段階から脱していないのだ。

いや病気は怖い。

それは間違いではないのだが。

処置を誤ればいのちを落とす、そういう危険性はまちがいなくある。

だから、野口先生はこれを「火」に例えたわけだ。

火は非常に怖い。

扱いを間違えば人命もうばうし、家屋でも山でもみんな燃やして灰にしてしまう。

ところがその火の性質がよく理解できてくると、寒い時には暖を取って、またいろいろなものを煮炊きすることで地球上に食材を開拓してきた。

いま世界中に人間がいるのは、そういう進化の途中で火を使えるようになったことが非常に大きい。

それは火を大きくしたり小さくしたりするための知識や技術を修めているからである。

その結果、

人間だけが火を「使える」。

病気も同じである。

「これってどういうものなの?」っていうことをまず考えなければ、といっている。性質がよくわかれば「使える」、有効利用できる可能性が生まれるのだから。

ところが世間全般に「病気をどうやったて治すか?」という角度からしかアタマを使っていない。

つまり、

スタート地点がもうずれているわけだ。

病気は悪、っていう価値観が最初にあって、その上で「さあどうしようか」と踊ってるのである。

これは人類が「火は熱い、怖い、」というところでずーっと止まっているのと一緒です。

それで、こうやったら消えます、いや、こうすればもっと楽に消せます。そもそもこうすれば出火しません(予防医学)。ってことをもうずーっとやってるのである。

整体はまず、

「そうじゃあない」

と言っている。

病気っていうのは身体がマトモに還るためのプロセスである。

とまず最初に直感した。

だからその性質をよーく理解して、上手ーく使えば身体を丈夫にすることができる、って言い始めたのである。

そういう革命的見方が最初にバキッと入らないことには始まらない世界なのだ。きれいなコペルニクス的転回である。

「何いってるんだ?」と思う人は整体やらないでいいわけで、

縁の無い人なのだ。

「常識を疑え」というのもトレンド化してるが、今さら常識がどうとかじゃなくって、もっと自分の全身を使って「考える」習慣を持とうという話でもある。

いま私はどうなってるのか?を自分で感じて判断する、「主観」が重要な世界なのだ。

病気っていうのは基本苦しいものだが、経過していく過程に快感もある。治っていく、丈夫になっていくという、秩序に向かって行く快感がある。

そういうところにピッとアンテナが反応して、そうだ!と思う人をわたしはマトモだと思う。非常に少数派ではあるが。

そして真実に気づいた少数派はたいてい苦労する。

昔からそういうものなのだ。

でも知った以上は、嘘はわかってしまう。

そういうことで、整体という生き方をしようと思ったらもっと徹底的に勉強しなきゃあならない。自分の身体、日々の些細な変化、そういうものが逐一わかるようになるまで身体感覚を研いでいかなければ、あぶなくて「自然」なんて生き方はとてもできないのである。

自分の身体で勉強するしかない。

ちょっと古めの言葉を転用すると、「自存自衛」のための身体学である。

それには「覚悟」みたいなものがいるのだ。

わたしはそういうところが「禅門」に似てると思っている。

禅で悟りたいんです、救われたいんです、といってさらっと門をくぐって入ろうとしたら大抵は和尚さんにぶっ叩かれるのだ。

わたしは誰が何と言おうと、自分で自分のいのちを見極める。

そうい気概がやっぱり必要である。

そうすると、整体はものすごく楽しい。

自分が世界の価値観を握るわけだから。

病気もおのずと消えるし、不幸も消えていく。

そういう自由性をだれもが握っているんだが、開花させるかどうかは本人次第なのだ。

まずは「理解」から。それも直感がないとはじまらないんだが。

人が整体を選ぶのか、整体が人を選ぶのか。

わからないけれども、まずは「そういう生き方をしよう」と思うことが第一関門である。

直感と理解だ。

それが縁を生む、そう考えると整体をやるには素質や資質も重要だ。

活元運動の好転反応とは

前回の活元会で、活元運動の反応についてご質問があったのでこちらでもお応えいたします。

活元運動は身体のバランスをとる機能を活性化して、自分の力で健康を保てる人を育てるために行います。その結果として、もともとの体力が活発になるので早く病気になり、早く病気を経過する身体になっていきます。

そのために、活元運動をはじめた人は身体が敏感になり、元気になってきたという証明として「反応」があらわれるのです。

反応はさまざまですが、おおよそ次の三つの段階を踏んで経過していきます。

1.弛緩反応 最初におこる反応は眠くなったり、だるかったりという弛緩反応(第一反応期)です。どーっと疲れた感じがしていて、食欲も落ちますが、それでいて快いのです。またこの時期はいくらでも眠れます。非常に気持ちいい感覚で過ごせるのがこの弛緩期です。

この弛緩反応の経過のコツは眠ければ眠る、だるければ横になるなどしてとにかく心身をゆるめることです。また身体が無防備になっていますから冷たい風に当てたりして、ふいに身体を冷やすことのないないように気をつけましょう。

2.過敏反応 皮膚の下層に水が通るような、涼しい感じがします。人によっては強い寒気も感じることもあります。これが次の過敏反応(第二反応期)のはじまりです。最初の弛緩反応期が非常に気持ちよかったのに対して、過敏とあるように熱が出たり、古い打撲のあとが痛んだりすることもあります。あるいは、目が腫れた、歯が腫れて痛んだ、など急性病にも似た反応が出る人もいます。次の反応である「排泄」に備えて身体がたかぶっている時期と思ったらいいでしょう。

3.排泄反応 上の二つの反応期を経過すると排泄反応という第三反応期に入ります。体内の老廃物や毒素などが排泄される、いわゆるデトックスの時期です。ここまでくると反応の経過はもう一息です。湿疹がでたり、うす皮がむけたりなど、皮膚にいろいろな変動が出る人もいます。また下痢などの大小便が大量に出たり、目ヤニや鼻水がたくさん出るなど、いろいろなものが身体の外へ排泄されます。あとは女性の場合、生理の時に血の塊が出たという話を何度か聞いたことがあります。

この活元運動の反応については『整体入門』に面白い記述がありますので、引用しておきます。

反応の経過で注意すべきこと

反応中は肌着は汚れるし、爪は伸びやすくなるし、ふけは多くなるし、傍へ行くと臭い。中には体内で石をつくっている人などはその溜めている石を、胆石でも、腎臓結石でも、膀胱結石でも、どんどん出してしまう。ただこのような反応期に石が出る場合には、固まりにならないで、臭い尿になることが多いが、ときどき気忙しい人がいて、胆石でも、あるいは膀胱の石まで、固まりのまま出すことがある。膀胱から大豆大の石が出たという人も、胆石で三十六個も出たという人もいました。またバケツに三杯ぐらい下痢をしたとか、鼻水が洗面器に一杯出たとかいろいろありますが、ともかく排泄反応まで来れば、もうよくなると安心できるのです。(野口晴哉著『整体入門』ちくま文庫 pp.65-66)

というように、にわかに信じがたい症例もありますが当院に通われている人の中でも一時的にだるくなる、それから風邪を引きやすくなる(38度以上の熱が出る)、という反応はよく見られます。わたしの経験では、活元運動(野口整体)をはじめて3年くらい経ったときに黄色い水の便がいきおいよく出たことがあります。そのときは本当に黄色のインクみたいな液体だったのですが、それと同時に顔がしゅーっと縮んで顔面の巾が半分くらいになったような感覚におそわれました。もちろん本当にそんなふうにはなっていませんが‥。

ですから活元運動を病気を治す、というような目的でやられるとびっくりされるかもしれません。身体を丈夫にするというのは病気をさせないことではないのです。病気を利用して積極的に身体を整えていくことができるように、潜在体力をゆすぶり起こすことが本来の目的です。

さて、反応についてだいぶ注意点をあげましたが、ここまで説明すると「反応が出ない人」からも疑問を呈されることがあります。「わたしは反応がでないのですが、活元運動がちゃんと出ていないのでしょうか?」ということです。実際は先の3つの反応がすべて出るかというと身体がそこまで極端に鈍っていなければ、知らない間に経過していくという例もよくあります。なんとなく眠かったり、少し熱っぽいという様な程度で済んでしまうこともめずらしくありません。

活元運動は人それぞれ千差万別ですから、ともかく反応が出ている人は心身の変化のときですからは無理はよくありません。落ち着いて休養を取るように心がけしましょう。

今月の活元会のお知らせ

7月 活元会と野口整体の勉強会のお知らせ

7月の活元運動の教室は下記の日程で行います。

また、今月は第四週日曜日(7/23)の午後に、野口整体をもう少し深く学ぶための座談会(修養会)も行います。

■日程

○7/9 (日)9:45-12:15 座学・活元会

○7/13(木)9:45-12:15 座学・活元会

○7/23(日)9:45-12:15 座学・活元会

○7/23(日)12:30-14:00 修養会(野口整体を学ぶ座談会)

○7/27(木)9:45-12:15 座学・活元会

■内容

○活元会 脊髄行気(瞑想)・座学(教材の素読・音読)・活元運動の実習

○修養会 野口先生の「潜在意識教育」と中国の古典「老荘思想」を主な題材とし、整体を実生活に応用して活かすための勉強会

■参加費

各会ごとに2,000円

※7/23の午前(活元会)と午後(修養会)の両方にご参加の場合は3,000円

■その他のご案内

服装は白系の落ち着いたものが適しています(色柄可です)。サイズはお腹を締め付けないゆったりとしたものをご用意ください。

今月は途中参加・退出可とします(事前にお申し出ください)。

■初めての方へ

いずれも「整体という生き方」を学ぶための実践の会です(初心者でも無理なく始められる内容です)。

ご参加を希望される方は前々日までにメールフォームにてお申し込みください。

※最近初心の方からのメールにおいて「記入もれ」が多くなっています。またホームページ、ブログをほとんど読まずにお申し込みされる方もいますが、当院が公開している情報は取得しているものとして進行します。限られた時間内での実習となりますので、よくよくお心得の上ご参加くださいますようお願いいたします。

鎧化する身体

アレクサンダー・ローウェンの記事を読まれた方からご質問をいただいた。鎧化した身体という表現について実際に「どのような状態なのか」とのことであった。実は以前にも同様の問い合わせがあったのだが、表現が独特なので気になられるのかもしれない。元を明かせば「アーマリング」の日本語訳である。平たく言えば慢性肩こりもその一例だ。

改めて『引き裂かれた心と体ー身体の背信』を読み返してみると、整体指導の目的と核心を同じくしていることが伺える。全文を取り上げたいくらいなのだが、心療内科の創始者 池見酉次郎氏による本書紹介文「はじめに」の項目だけでも身心が癒えるためのプロセスがよく理解できるので、抑うつ傾向などで悩まれる方にはおすすめしたい。

整体では「治癒」の本質を「敏感な身体を育てる」と表現し、ローエンのセラピーによれば「自我と切り離された身体(≒感情)を再び自我に取り込むプロセス」となる。

もう少し簡略にすると「身体感覚の再建」であり、そこからの「身心一如・自他一如の自覚」である。池見氏は他の著書において「体を通して心に至る東洋的行法」をすすめ、その精髄の一つとして禅を挙げている。禅寺で坐禅と並行して修行される「作務」などはいわゆるグラウンディングに通じるもので、肉体を善用し、積極的に現実にふれていくことで〔今〕という絶対感覚を色濃く養っていくのである。

ローウェンは「人が自分の体を感じることを、とても恐れている」ということを強調する。多くの人は硬直した筋肉が抑圧された感情の倉庫であるということを無意識的に感じているために、その倉庫の扉が開かないように意識の光によって固く施錠しているのだ。だから心が癒えていくためには一旦意識の運転を停め、身体を徐々にゆるめつつ自分が無意識層に抑えてきた感情達と一つひとつ出会っていく作業に最終的に突き当たる。

しかしこの作業の難渋さに気づいた時点で、あまりの大変にやめてしまう例も少なくない。感情を浮かび揚がらせながら自身を癒し成長するという道を中断して、また元の硬直した身体とこれまで通りの生活に立ち返ってしまうのである。こんな風に「治る」という動きは苦しさを伴う。一般にセラピストと言う仕事はこの大変な心的エネルギーを要する仕事をクライアントと一緒に取り組んでいく役割を担うものである。

ところで心理療法のカウンセリングが対話を主体とし、またフォーカシングなども主にクライエントの内側で行われる心の作業であるのに対して、ローウェンのバイオエナジェティクスや野口整体の整体操法は身体(および気)を媒体とする所がその特徴である。これはライヒによって提唱された、「人間に対峙するには身心相即的に相対しなければならない」という原理に通じているものだ。

本来やわらかいはずの筋肉を硬直させていくのは、主に対人関係の緊張である。しかしその硬直し鎧化した身体を再び融かしていくのもまた人の心なのである。今の身心の有りようをそのまま受けとられることで、はじめてゆるむ動きが出てくるのだ。しかしこれは徐々に行われることが望ましい。凍傷の治療に似て、急激な温度差は激痛を伴うばかりが、逆に身体を壊しかねないからである。

硬化した範囲と度合によって治癒に要する期間はまちまちだが、この道程を踏まずして身心の全体性を回復することは困難を極める。畢竟自分で自分の心の深層を明らかにするということだけが真の治癒に至るための根本原理である。このことに気づき、心の準備が出来たときからはじめて治りはじめる。これはまさしく啐啄同時で、機が熟す時に何処からともなく何もしなくてもそうなってしまう。まさしく生命の「妙」である。

時に啐啄というと雛が孵るその瞬間に注意が集まりがちだが、それまで親鳥がじっと温めて待ち続けたプロセスを無視することはできない。クライアントとカウンセラー、患者と治療者、どちらか一方の力で治る訳ではない。気を集め、心の全体を動員して力を尽くすことはお互いの生命に対する礼として弁えたいところでもある。

平温以下の時が風邪の経過の急所

平温以下の時が経過の急所

風邪というのはたいてい自然に治るもので、風邪自体すでに治っていくはたらきですから、あまりいろいろなことをしないでいいのです。ただ大切なのは熱が出て発汗した場合で、風邪で発熱する場合にはかなり上がることがあります。三十八度の人もあれば、三十九度の人もあれば四十度を越すこともある。しかし熱が出たから慌てて冷やすなどということは滑稽である。むしろ後頭部を四十分感、温めるのがいいのです。そうすると発汗して、風邪が抜けると一緒に熱が下がります。下がり出すと三十六度五分から七分という平温の基準線より、もっと下がるのです。五度台になったり、六度になったり、五度五分になったり、一時、こういう平温以下になる時があって、それから平穏に戻るのです。

…ともかく脈なり体温なりで平温以下の時が判るが、この平温以下の時期が風邪の経過の急所なのです。この時期に暴れて冷やしたりしてしまうと二次的な異常を起こす。風邪の中でも耳下腺炎といって、耳の下が腫れるお多福風邪などは、この平温以下の間にちょっと飛んだり跳ねたりすると、女なら寝小便をするか卵巣炎を起こし、男なら脱腸、睾丸炎を起こすなど、とんでもない処に余病を起こす。まあ耳下腺炎に限らず、平温以下の時期に動くと余病を起こし、この経過のやり損いが、成長してからの発育不全とか月経異常とかに関連してくるのだから気をつけなくてはならない。また大人でも、この時期に冷やすと小便が急に出なくなるとか、急に下痢が続いて止まらなくなるとか、体の方々が痛んでくるといような第二次的病気が発生する原因になる。

…今までは皆、熱のある時だけは病気だと思って懸命にいろいろなことをやり、熱がなくなると慌てて動き出していた。それではせっかく風邪を引いても丈夫になるわけがない。丈夫になるように風邪を経過するには、平温以下の時に身心を弛めることと、その時の愉気が大切である。(野口晴哉著 『風邪の効用』 ちくま文庫 pp.67-73)

子供の通う保育園でもぼつぼつ風邪が流行ってきた。肺炎を起こした子もいたようで、斯様に風邪は処置を誤ると危ない。我が家もご多分に漏れず、息子を筆頭に順番に罹患した。息子は一旦40℃まで熱が上がったから、やはり若いということは体力の塊であることを再認識したものだ。

子供の風邪の経過がやや長引いてしまったのだが、今回はまさしく平温以下の時の過ごし方がよくなかった。治りかけの時に活発に動いてしまうと、がくんと調子が変わる。一般的には「ぶり返し」などと呼ばれる現象だろう。詳細は上に引用した通りだが、風邪の処置は熱が下がった時の対応が急所である。一般的には多くの方が油断される所ではないだろうか。

引用部を読めば一通りわかる話であるが、こういうことはいくら知識をため込んでもしょうがない。病気の対応などというのは、平素からよく感覚を磨き、その身体から滲み出てこそ価値がある。「本に書いてないからわからなかった」というのでは実人生の役には立たない。形骸化とは斯くの如しである。

しかしながら数多の治療術や健康法への依頼心を退け、自らの自然生命に信を置くにはそれなりの「裏付け」がいるはずだ。そのためには活元運動を修めることが何より親切である。一つの問題に百も千も策を労するのは愚かなことだ。一を以て万に当る。実際問題これさえ出来れば後はいらない。

整体法は40年前に既に完成を見ているのだ。以来いつ何時、誰に対しても通用する真理と供に超然としている。後は個人の資質に依拠するのみ。願わくは天上の月を貪り見て、掌中の珠を失すること勿れ。健康は常に生命と供にあるのだから。

『風邪の効用』までだいたい3年くらい

息子が風邪をひいた。だいたい一ヵ月ぶりくらいだろうか。「野口整体」といえば『風邪の効用』だが、今から11年前に自分が整体生活をはじめた頃は風邪を引くたびにこの『風邪の効用』を読んでいた。そうやっては逐一症状の経過を楽しんでいたのを思い出す。

一言でいえば「風邪は身体の自然良能」ということで、風邪をひいて熱がでると、その体温の変化によって身心がゆるむ。それによって、自身の潜在体力が煥発され自然に元気になるという話だ。だから咳をしても熱が出ても静かに経過を見守るような方法を取るのである。

ところがそこから拡大解釈が生じて、「風邪はいくらでも引けばいいのか」と思われることもあるが、そこはちょっと慎重に考えたい。

たしかに本を読めば風邪を上手に経過させる方法は沢山紹介されている。ところが発症してから手を打つようではちょっと遅いのだ。本来は常に身心の平衡が保たれていて、風邪が要らないような生活者であることが最善である。

簡単に言えば「心・体」の両方にしこりがなくていつでも柔らかい状態を目指したい。それには平素における身体感覚の練磨が要求される。整体は「身体の感受性を高度にする」ことが真の目標なのだ。

もう一つ、子供は大人よりも体力があり丈夫だ、・・けれどもそれでいて脆い。風邪の経過でも処置を誤ると、本当に命が危険にさらされる。そういう観点から、安易に「野口整体のやり方で・・」とやろうとすると、無自覚なリスクにさらされることがある。これは誰しもやってみると追々わかる・・。

病症経過を的確に促すには、「身体が読める」ということが大前提で、何事も生兵法はこわいものだ。整体という生き方を実現するには、まず頭の理解に3年、身体ができるのにも、(個人指導や活元運動を続けながら)どんなに早くても3年くらいは見積もった方がいいだろう。

努力してやっとできるようになる、というよりも好きなら自然と続くものだ。好きこそものの上手なれで、やってみたい人はやっぱり先ずは本から入るのがやさしい。何回読んでも記憶から内容が漏れていたり、実体験に照らし合わせてみて「ああそうか」とようやく解ることも出てくる。

ともかく風邪を一度もひかずに死ぬ人などまずいないのだから、誰の手元にも1冊置きたい珍書であり、良書だと思うのだ。実は好みの問題が大きいのだが、一読して損はない一冊だろう。

病症が身心を治している

今日は2才の息子が保育園から早退してきた。昼食、お昼寝のあとで蕁麻疹が出たと連絡があったのだ。保育士さんからは「お昼に食べた物(が原因)ですかね?」と聞かれたけど、どうもそういう感じでもない。念のため脈をみる・・、とやっぱり中庸、というか普通だ。

もしかしたら一昨日、散歩でかなり歩いたからその疲れが出たのかもしれないし、原因は今のところちょっと判らない。ただ一息四脈ならそれでいいではないか。こういう時にはいつも「整体」の見方と一般の方が見た時との「病気観の違い」を痛感するものだ。

野口先生が整体を勧めていくのに取り分け苦心された、というか難儀したと言われているのが「常識」という壁だったと言われている。「常識」というのはそれだけ手ごわいのだ。

多くの場合は病症が出たときだけが「病気」と考えられて、その時を「異常」と診る。ところが整体をやっていくと、そうは観えなくなって来る。「病症が出た時にはもう治った時」と、こういう風に感じる。治り始めの僅かな動きを察知して、その時に「調子が悪い」と感じ、その後症状が出た時にはもうほとんど経過は終わったのだと、こういうことになる。

「その前」に必ず何か調子を乱すショックがあったのだ。それが身体を緊張させて病気の必要性を生んだ。病気のほとんどはそうした未消化のショックやストレス体験を処理するための弛み現象である。病気そのものが治る働きといわれる所以だ。

極論を言えば、何を正常と見て何を異常と見るかという、「正常・異常のライン」をどこにひっぱるかの違いなのかもしれない。

常識的には「病気がなくなることが健康だ」、こういうことになっているが本当に病気をしない人間などいたら薄気味わるいのだ。そもそも風邪だって黴菌が入ったからそれをやっつけるために熱が出るのだから。でもその一方で、「解熱剤」という薬があることを考えると、薬は黴菌に加勢していることになる。そうすると「薬」というのは「毒」ではないか。

こういう風に考えていくと、病気を治そうとしていろいろと手を加えていることの意義自体が疑わしくなってくると思うのだが。ここまで理詰めて考えても「そうは思わない」という人はごくごく「常識的」なのだ。そういう人はそのまま常識というお守り札を持って生きていけばいい。

ところがそういうお守り自体、もともとは人間が作ったものであって、それを握って安心を得ようというのは本来可笑しなことである。

%e5%a4%a9%e5%8b%95%e8%aa%ac「常識」というものは一日でひっくり返ることがある。これに対して真理は不変なものだ。真理と供にあることを選ぶ人は、何もしないで身体の感覚に委ねて生きはじめる。そうやって世の中を見渡してみると、いろいろなところに遍満する「常識の矛盾」に気がつくはずなのだが。

常識は人間が考え造りだしたもの。真理はその人間を生み出したもの。どちらでも選べる自由性を誰にも等しく与えられているのだ。どう生きればいいかなど最初から分かっている、自分の身体感覚に訊ねればそれでいい。

来談者中心療法を考える

去年の今頃はカール・ロジャーズを読んでいた。彼の「来談者中心療法」という手法に感心をもって、整体に反映できないものかと模索したのだった。現在に至ってどの程度仕事に活かされているかはちょっとわからないけど。

技術的なものは何でも勉強したてのホヤホヤでしっくり馴染んでいないもの、またそれが「技」として目に見えている間は使えていないことが多い。学んで、飲み込んで、消化して、すっかり忘れてしまった頃になって初めて身に付いたと言えるだろう。

さて、来談者中心療法とは何かというと基本的態度としては「無条件の肯定的関心」と「共感的理解」を説かれていて、一貫して相手を受容する融和的な姿勢を重視する。

なんでこれが治療になるのかというと、人は無条件に肯定、賛同されるとそれだけでにわかに力が抜けてゆるんでしまうからだ。全ての力は抵抗してくる対象物があってはじめて存在できるもので、相手が対立するほど強くなるが、受容されると消えてしまう。壁だと思って押したら暖簾だったというようニュアンスだろうか。

だからカウンセラーが自分を立てず、また相手の存在も素通りして、どこにも主体を置かないような態度に徹する時、お互いの世界が全一的に融けてしまう。

治療者やカウンセラーの力量というものは知識や肩書ではなく、最終的には良質のコミュニケーションを確立する能力だといって相違ない。これはもはや「人間性」という範疇のものであってテクニックではないだろう。

外からどんな技術を施してみても最終的に治る力は来談者(クライエント)の中にしか存在しない。そのクライエントの力があってはじめて治療者の力も使えるのであって、よくよくそこを考えてみるとどちらの力とも言い難いのだ。

結局のところ他人がいくら気張っても、当人が治る時にならないと治らない。

治る時が来るまでは「ざる」なのだ。どんなに有益なものを目にし、耳にしても、みんな本人の身体を通過してしまう。

逆に言えば、治る時が来たらあらゆる力を自分のものにして治ってしまう。

そう考えると余人ができることは、「その時の波」を乱さないように何もしないで「待つ」こと以外になくなってしまう。東洋思想でいう所の「無為」というものはこれをよく言い現したものだと思う。

ヒーラー、治療者、指導者など、他者をリードする立場にある人は、「自分は相手に一体何ができるのか?」ということを常々考えつづけるものだ。「治療」ということは「何かする」ということと、「何もしない」ということの間にある。

ここでふと思い出して、野口晴哉の『治療の書』を開いたら次の一節が目に止まった。

我治めて治療あり 我慎しみて治療あり。
我 我無くしてのみ治療あり。
治療といへること 我が行うに非ず。人に施すことに非ず 治すことにも非ざる也。
たゞ我 我無くして靖らかなる為也。宇宙の靖らかなる為也。(全生社 p.131)

自分の整体探求もだいぶ遠くまで来たと思ったら、依然としてお釈迦様の掌の上だったという話だった。自らを修めて、他を治める。一体「何」が「何」をしているのかわからない。「治る、治らない」とは如何なることなのか。ここ辺りの問いが整体指導の急所だと思う。