坐禅・活元運動の会 2018.5.26

今日は坐禅・活元会でした。

いつも通り坐骨・骨盤の用法と意識の関係性いついてご説明してから、2炷坐りました。

そのあと本日はイレギュラーに足指廻しと股割り、腰割りで股関節を刺戟して、自律神経を整える動作を行いました。

活元運動も平常通り。

毎度、何でもないようなことなんだけど、深いリラックス状態にもっていくにはとても有効なカリキュラムだと自負しております。

来月の予定は近日公開いたします。

志ある方はご参加ください。

呼吸

少し前に禅と瞑想関連の本が多いという記事を書いたが、調べてみると呼吸法の本も昔からたくさん出ている。

長い息で長生きというシャレもなかなか古いが、ある意味真理なのだろう。

しかし世界中に現存する呼吸法を一個一個実践していったら、人生がいくつあっても足らない。

個人的には活元運動の邪気の吐出法と、合気道の故・藤平光一さんが考案された気の呼吸法の2つが最もしっくりいった。

このいづれかを一ヵ月間、まじめに続ければ慢性疾患の半分はなくなると思っている。

しかしすべての健康法について言えるのは、信じて、続けることが鍵なのだ。

一番の難関は続けられるかどうかで、実はここが根の深いところである。

つまり習慣が変わるということは、心が変わる、変わったということで、これは革命的なことであって容易ではない。

試しに、瞑想でも呼吸法でも体操でもなんでもいい。今日はじめて、一年後もやっているものがあったらそれはかなり見事である。

見事というか、もしかしたらそういう努力は逆に変なところにヒズミがでているかもしれない。

どんな些細なことでも毎日毎日「何かをやり続ける」ということは、大変な精神力が要るものである。

そう考えると活元運動を月に一回程度、訓練として行なうというのは老若男女、人を選ばず有効だと思う。

活元運動はどんなにはげしい運動が出ても呼吸が乱れない、というのが大きな特徴である。

それだけ「自然」ということに近い、というか「自然そのもの」なのだろう。

意識的に呼吸を整えること以上に、無意識に呼吸が整う動作や身体性の実現を図る方が上質なのではないだろうか。

息吹き

この2週間ばかり昔習った空手の呼吸を毎日やっている。

「息吹き」という強圧の呼吸法なのでパッと見整体らしからぬ、という気もするけれど実は野口整体にも気合法という呼吸鍛錬法が伝承されいる。

これらの強式呼吸のたぐいは一様にして下腹、いわゆる丹田を中心に横隔膜による強力な圧がかかる。そのため肝臓や脾臓に滞留した血液が一呼吸ごとに全身を駆け巡ることになるのだ。

これにより血中酸素が増して、脳の活性化に伴い意識が刷新される。その結果それまでの混濁した現実認識も正される。これは仏教の八正道でいうところの正見だろう。

質の高い呼吸は瞬時に世界を変える力があるのだ。

もとより全身の余分な力が抜ければ体は整うのだが、こうした鍛錬はまた別次元として行なう価値がある。

整体指導を受けられる方にもお教えしたいけれども、なかなか指導の中だけで時間が取れないこともあるし、効果についても確証がないため今一つ踏み切れないでいる。

また、やり方を誤ればかえって体を毀すかもしれない。

前段階として先ずどなたにも安全に奨められるのは、活元運動の訓練で行なう「邪気の吐出法」を丁寧にやっていただくことだろう。

これなら初心の人も簡単に無理なく行えるし、血流の改善という点でも息吹きや気合法と同等かそれ以上の効果を望める。

兎にも角にも、行き詰りとは息詰まりなのである。深い呼吸を取り戻せば、世界はその場で変わるのだ。

坐禅・活元運動の会 2018.5.10

今日は坐禅・活元会でした。

いつもと変わらず、脊髄行氣10分、坐禅45分2炷、活元運動45分、仕上げにもう一度脊髄行氣の流れです。

活元運動をする人は老いて死ぬ時にも寝込まない、苦しまないといいます。

自分が活元運動をはじめた青年期には何とも消極的な健康法だと思ったものですが、不惑の年になってみたらこんな素晴らしい修養法はないだろうと認識を改めた。

死ぬ時にジタバタしない、ということはそれだけ「よく生きた」ということ。

今生でやり残しがないということ、自分の全部を使い尽くした、とそういうことです。

そのために無意識の扉を開き、裡の要求を明らめるための坐禅と活元運動を行なっています。

整体とは生活の中に〈たましい〉が現れるようにと祈る、生に対する敬虔な態度である。

人はふとした時に日常の惰性に流され、生命に対する礼を忘れてしまう。

そんな時に意識の活動水準をさげて無意識に耳を傾けることで、生命に対する畏れの念を思い出す。

〈いのち〉に畏れを抱く人は、今日を慎ましく丁寧に生きる。

今日を丁寧に生きる人は、きっと豊かな死を迎える、と思う。

整体とは〈いのち〉に対する学びである。

坐禅・活元会 2018.4.28

今日は坐禅・活元会でした。

坐禅は安楽の法門と言われています。

坐禅をして「悟ったら」楽になる、という話ではなくて「禅」というものが既に全人類を救っている、という意味です。

自分がこれに気づくための方便が「修行」です。

そして「坐」という修行法が多くの方にとって親しみやすい形なので現代まで残ってきた、ということでしょう。

ただし、坐禅だけでは身体がコチコチになってしまう人がいます。

またもともと凝りのひどい人や関節の堅い方などは苦しいものがあります。

ですからうちでは坐りの形にはそこまで固執しません。

無理なくピタッとできる自然な坐相を取っていただければそれで結構です。

今日は45分の坐禅を2回、それから活元運動を行ないました。

生きているとなかなか悩みはつきないものですが、考え方を離れて事実に触れるときっと楽になるはずです。

来月は下の日程で2回行なう予定です。

5月10日(木)10:00-13:00

5月26日(土)10:00-13:00

ご参加を希望される方は各開催日の前々日までに、メールフォームよりお申し込みください。

不安定という安定性

生きている人間というのは絶えずゆれているものである

この、いわゆる「ゆらぎ」によって生命の平衡は保たれている

健康指導や精神論などを説く際に、ともすればその微妙なゆれによって安定が保たれているという事実を忘れがちになるので気を付けねばらない

例えば整体操法を施した後でも、重心が定まり気持ちが一定に纏まる感覚は大切なのだが、相手の中にある「ゆらぎ」を完全に奪ってはならないと思う

「個性化」という、自己のアイデンティティを日々新たにして行くプロセスは、不安や不満という見えない心の炎に炙られることで蒸留され活性化していくものである

ともすれば世の中の「強力な指導者」というのはこうした「ゆれ」をピタリと止めてしまう力があるために、個性化の自然な流れを止めてしまいかねないのである

ヒトラーの演説を聴いているドイツ国民などはその典型だと思うが、そこまで烈しいものでなくても俗にいう「カリスマ」的な人に就き従いたくなる裏には自己変革に伴う不安定さ、という見えない苦痛から忌避したい要求が隠れている

つまり「ゆれ」の不安に耐えられない人ほど、特定の団体やドグマの中に自己を没却し、一過性に心の安定を図ろうとしやすい

しかし、このとき自己は「固定的」になっているのであって、これは言葉の響きとしては「安定的」と似ているようだが実際は異なる状態である

整体指導という技術はこの「ゆらぎ」を止めるものではなく、身体を整えることで自分を取り巻いているゆれのレベルを明瞭にすることを目的としている

例えば船旅の最中に海が時化(シケ)になった場合、先ず船体に破損なく、船長を中心に乗組員の意識がしっかりしていなければならない

この時に、風向きやその強さ、海の荒れ具合に加え、時刻や現在地が正確に捉えられるので各々適切な対処ができるのである

整体と言うのは、この船体を正常に保ち、船員をノーマルな意識に導いていく行為といえる

この時に自分の置かれている「状況」と言うのが非常によく見えるからだ

体が整うことで精神が落ち着き、「不安定である」という現象に対する漠然とした恐れや焦燥が消え、その不安定さを逆に有効利用して「安定的」な状況を生み出すことができる

こうして考えてみると安定的と言うのは、先ほどの固定的というあり方とは対極に位置することが判るはずだ

人間が身心ともに安定するためには不安定さを内包しなければならない、といういわゆるパラドックスだが、このような視点を持つことで自身の不安やゆれに対して、一定の関心とある種の歓迎的な態度を持てるのではないだろうか

動的平衡とか動中の静などという言葉は、こうした逆説の妙を上手く言い表した古語であると言えよう

いかにも東洋的な思想だがこれを具現化した状態の一例が野口整体の活元運動である

まさにゆらぎの中に安定を見出すためには秀逸な方法と言えるだろう

愉気と活元

先日の活元会は教材(レジュメ)なしの、実践重視で行こうと思ったけど、いつもの癖で結局「お話」が長引いてしまった。

そもそも治療というのは「思想の共有」が前提で、これがないと行えない。

だから巷で「野口整体」と呼ばれているものが一体「どんなことを考えているのか」をある程度わかってやっていただかないと、愉気(気の手当て)とか活元運動(自然の運動)とかを一生懸命やろうと思ってもやがては行き詰ってしまう。

ともかく〔いのち〕がどれくらいシッカリと、完璧に機能しているか、ということを自覚したうえで、その絶対性がそのまま発現するようにもっていくのが整体の基本理念だ。

だから愉気も活元運動もこちらからは「何もしないことで、すべてが整っていく」ということの、具体的な方法論である。

この二つを体得しておけば、まあおそらく他の健康法はいらない。もちろん好きならば食事療法も、体操法も、何でも取り入れてやったらいい。きっと相乗的に良い効果があがるはずだ。

それでも人間が考えたものは、枠と限度がつきまとう。ところが本能とか野生とか直観というものは、思想を乗り越えていつも超然としている。大体において、そっちでいった方がずっとラクだし、確かなのだ。

健康法に時間を割くのも、本来ならもったいない。本当は「野口整体」なんかすっかり忘れて、バンバン生きるのが一番いいだろう。

と言ってまた自分で矛盾を生んでしまったけど、愉気も活元も「覚えて→忘れる」ところまでがワンセット。そういうところは、サトリと一緒かもしれない。

一応の「ひと区切り」、というところはあるので、そこまでは一息でやってしまうと面白い。わかった後はそれこそ気ままに、仏道の方では「聖胎長養」っていう言葉があるけど、とにかく「何にもしないで健康」なのがなによりだ。

実践していくといつか必ずわかる、というそういう話。〔いのち〕というのは知っても知らなくても、最初から救われている。でも知ってみると、やっぱり安定感が違うかな。そんな気がする。

1月 活元会のお知らせ

1月の活元運動の会を下記の日程で行います。

■日程

1/4(木)10:00-12:30

1/13 (土)10:00-12:30

1/18(木)10:00-12:30

1/27(土)10:00-12:30

※12:30-13:00頃まで茶話会

■内容

前半は野口整体やユング心理学の資料を使っての心と体の勉強会です。後半は活元運動を丁寧に実習いたします。

終了後はお茶の時間があります。(13:00くらいまでの自由参加です)

■参加費

2,000円

■その他のご案内

着衣は天然素材で白系の落ち着いたものが適しています(色柄も可です)。お部屋は暖めておきますが、冬場ですので羽織るものなどお持ちになるとよいかもしれません。

ご参加を希望される方は前々日までにメールフォームよりお申し込みください。

活元会 2017.12.23:意識以前の心の育て方2

12月23日活元会は前回に引きつづき野口晴哉著『潜在意識教育』全生社 を使いました。

どんな自分をつくらせるか

子どもの心の中にどういう自分をつくらせるかということは、空想を方向づけることによって可能である。お前は嘘つきだ、お前は悪い子だ、お前は強情だ、そんな風に不用意に言った親の言葉が、自分というイメージを歪めているかもしれない。或いは「そうじゃない」という反撥する心を起こしているかもしれない。しっかりしろと言うとがっかりするように、弱虫だと言われたことによって、強くあろうとする心が起こっているかもしれない。けれども、方向づけるために行っているのではないのだから、歪める度合は普通より大きい。不用意に言った親の言葉というものは、意外な結果を招くもので、親自身が心の中でどういうことに一番抵抗があったか、それを考えてみれば分かる。不親切だと言われたために、人に親切にすることが何となく晴れがましくて、親切にしたいと思いながら親切ができない。往来に倒れている人を見ても、他の人が助けてやるのなら親切だと思えるのに、自分がやろうとすると何か晴れがましくてできない。そういうことが、子供の時分に不用意に言われた不親切だとか、或いは親切だとか言われたそういう言葉のために、或いはその言葉に抵抗があったためにできないということがよくある。たいていの人は気がつかないで通っているけれども、子供の行為が率直にサッと出ない時には、何らかのそういう心の中に起こった観念というものが邪魔をしている。(前掲書 pp.86-87 太字は引用者)

 

ちなみに前回が今年最後の活元会です。

気がついたら下半期の座学は、無意識や潜在意識関連の教材を野口整体・ユング心理学という2つの畑から持ってきての勉強会になっていました。

21世紀は「こころの時代」と言われていたものの、フタを開けてみれば「身体」の時代になっています。或いは、もしかしたら「たましい」の時代なのかもしれません。

なんにせよ呼び方が違うだけでその意味するところ、求めているところは同じではないかと思います。

つまり一人ひとりが独自の「生き方を考える」ことが求められていて、自分だけの「神話」とか「宗教観」を作り上げなければならないのが現代の日本である、と言えそうです。

例えば大型の書店に入ると「自己啓発コーナー」のようなものがあって、潜在意識をコントロールしようという切り口のものが沢山出ています。

良書もけっこうありそうですが、人は本を1冊2冊読んだくらいではなかなか変われないのも実状です。人間の心をほんのわずかでも「変える」ということはなかなか大変なことです。

親は子供を「教育する」という目的で、物心がつく前からいろいろな観念を入れていきます。入れていくけれども、それがなかなか思ったようには功を奏さないで、大抵は親が「こうしよう」と目論んだ場合、健全な子供ほどその反対の方向にむかって走る。

あらぬ方向に走るから「非行」と呼んだりするけれども、これは心の平衡要求というもので、いわばバランス作用です。正常な、体力のある子どもなら「右に行くな」と強く言われるほど、どうしたってもそちらに行きたくなる。

こういう単純な仕組みからはじまって、これに加えて心理学の「影」とか「投影」といった心や感受性の仕組みを理解する人が少しずつでも増えていくことによって、人と人との関係性をいくらかでも上質なものに変わっていけるかもしれない。

その結果、家庭や教育の現場でも子どもの心をできるだけノーマルに保って、世の中から余分ないざこざを減らすことになるのではないか。

私見ですけれども、野口先生の、特に晩年の活動にはこういった願いがあったのではないかと思うのです。

心をいかに育てるか、心と体の関係をどのようにして良好に保つか、という学びは今後もますます需要が高まる分野でしょう。そうしたことも踏まえて、来年以降も活元会はしばらく現行の形で続けていこうと思っています。

活元会の日程はこちら

活元会 2017.12.14:意識以前の心の育て方

12月14日の活元会では野口晴哉著『潜在意識教育』全生社 を資料に座学を行ないました。(以下資料より抜粋)

…親は子供をよりよく育てるとかで、自分の理想を托したり、自分に都合のよいようなことを上手に押しつけたりしてそれを教育だと言うが、子供の方は教育の必要を感じていないばかりか、植木や盆栽みたいに親の勝手な形に整えられることは迷惑である。それ故中には反感を抱き反対の方向へ走る要求すら持つようになる。それが実現できなければ、反抗として他のいろいろのことに逆らうことが生じ、時にその実現の衝動に駆られることさえある。だから教育熱心な親の子供ほどそういうようになることが多いのは、心の生理的現象といっても差支えないことである。お互いに選べない、選りどれないという宿命のためである。どちらの罪でもない。それ故教育の専門家でない私が教育のことを語るのである。選べない、選りどれないその宿命の中で楽しく生くる道を見つける方法として、意識以前の心の在り方や方向を教育する方法を考えようというのである。

私は四十数年に亘る指導ということの経験から、同じような教育を受けながらみな異なったことを考えたりするのは、教育を受け入れる意識以前の心の方向によるのであり、人間は意識で考えているようには行えず、咄嗟の際に本当のことがヒョッコリ出てしまうのは、意識以前の心によって為されるからであるということを知っている。そこで教育ということを、意識以前の心の在り方を方向づける方法として筋道をつけたいと思って、整体協会の本部道場に「潜在意識教育法講座」を設け、語ったことを記録したのがこの書である。同志の人を得れば幸せと思う。 昭和四十一年十二月(前掲書「序」より pp.3-4 太字は引用者)

ここでは親子関係の問題が焦点になっていますが、この『潜在意識教育』の中にはこうした家庭内での人間関係論のみならず、人が病気になったり、またその病気が自然に治っていくという動きの根本にも意識以前の心の在り方ということが密接にかかわっている、ということが綴られています。

最近ではこのような潜在意識関連の情報が少しずつ一般化しているようですが、この本が出版された昭和30年、40年といった時期に、「意識以前の教育法を講義していた」ということはかなり前衛的だったと思われます。

さて、改めて人間の体の健全さということを考えたときに、どうしてもその人の心の在り方という問題にぶつかることになります。

現在のような体になるのにどのような心の状態があったのか、そしてその心はどのような経緯で形成されたのか、ということをずっと辿っていくと必ず胎教までを含めた「成育歴」が深くかかわっている、ということがわかるのです。

ここまでは多くの臨床家が比較的早い段階で辿り着く結論ですが、そういう成育歴、平たく言えば「生まれや育ち」というものからくる現在への影響をいかにして作り変えていくか、ということになるとこれは非常にむずかしい面があります。

同じような心のクセからくる悩みでも比較的容易に解消できる問題もあれば、解消するまでに3年、5年、ときには10年以上かかるようなものもあるわけです。

そもそも人間の心というのは外部からの刺激によってたえず変性していくものですが、例えばカウンセリング(対話精神療法)ならば主に言語(話す・聴く)による刺戟を主体に治療を進めていきます。

整体法の場合はというと、一般には身体の刺戟(触覚)がメインあろうと思われがちですが、実際はやはり「言葉」も同じくらい重要なのです。

その方法はといえば意識ではなく意識以前、とか無意識などと呼ばれる沈潜化した心の領域にはたらきかけるように語りかける、と

説明するとこのようなことになりますが、これを実地で行なうとなると相当な勘と豊かな経験が要求されるわけです。

ところが家庭においては「お母さん」という立場の人ははじめから子どもたちに対する影響力がとてもつよいのです。なのにこういう心の構造などよく知らないまま「お母さん」になってしまうのだから親も子もお互いにいろいろ悩むことが出てくるのは必然だと思います。

この問題は本当にどちらが悪いということではないだけに(一見して「親が悪い」という風にみえがちですが…)、改めてこういう心と体のつながりや心の深層部の動きについて勉強する場が必要であろうと考えられた、ということですね。

ユング派の治療者などは心を勉強するにはまず何を置いても、自分の心を知ることからはじめます。そうすることで人間の「心」というものがどれくらい「わからない」ものかということがだんだんとわかります。ここがまずスタート地点です。

せい氣院の活元会は座学と活元運動の実習を通じて、みなさんがそれぞれのペースで自分の身体を通じて心の在り方を探求していける場になれば、と思っています。

今年は次回12月22日(土)で最後です