名前はない

愉気って何だという質問だが、人間の気力を対象に集注する方法だ、と考えたら良かろう。人間の精神集注は、その密度が濃くなると、いろいろと、意識では妙だと思われることが実現する。穏やかな太陽の光でも、集注すると物を焼く。光はレンズで捉えられるのだが、気は精神集注によってちからとなる。それ故、愉気するには高度な精神集注の行えること、恨みや嫉妬で思いつめるような心ではない、雲のない空のような天心が必要である。(野口晴哉著『健康の自然法』より)

ときどき愉気はレイキヒーリングとどのように違うのですか?と訊ねられるが、そもそもレイキのことをよく知らない

と思ったら、よく考えると愉気が何だかもわかっていないではないか

しかしもう一つ踏み込んで考えてみると人間が生きていること自体が、何がどうなって生きているのか解ってやっている人などいないのだ

特にこういう生命原理に近いようなものは、探ったり追っかけたりしているうちはそれらしい理屈に掴まるだけで実態そのものに突き当たることは無い

ただ、手を当てると何かが起こるのであって、それに名前を付けたのは人間である

そしてどう使うかを決めるのも人間なのだ

流派や方法論、名称は気になるところだが核心はそこにはない

人間の位(くらい)というのがちからの根源であり、その上で精神の平衡を保つことが全て

名前はどうでもいい

健康の自然法とは流石言い得て妙である

愉気と活元

先日の活元会は教材(レジュメ)なしの、実践重視で行こうと思ったけど、いつもの癖で結局「お話」が長引いてしまった。

そもそも治療というのは「思想の共有」が前提で、これがないと行えない。

だから巷で「野口整体」と呼ばれているものが一体「どんなことを考えているのか」をある程度わかってやっていただかないと、愉気(気の手当て)とか活元運動(自然の運動)とかを一生懸命やろうと思ってもやがては行き詰ってしまう。

ともかく〔いのち〕がどれくらいシッカリと、完璧に機能しているか、ということを自覚したうえで、その絶対性がそのまま発現するようにもっていくのが整体の基本理念だ。

だから愉気も活元運動もこちらからは「何もしないことで、すべてが整っていく」ということの、具体的な方法論である。

この二つを体得しておけば、まあおそらく他の健康法はいらない。もちろん好きならば食事療法も、体操法も、何でも取り入れてやったらいい。きっと相乗的に良い効果があがるはずだ。

それでも人間が考えたものは、枠と限度がつきまとう。ところが本能とか野生とか直観というものは、思想を乗り越えていつも超然としている。大体において、そっちでいった方がずっとラクだし、確かなのだ。

健康法に時間を割くのも、本来ならもったいない。本当は「野口整体」なんかすっかり忘れて、バンバン生きるのが一番いいだろう。

と言ってまた自分で矛盾を生んでしまったけど、愉気も活元も「覚えて→忘れる」ところまでがワンセット。そういうところは、サトリと一緒かもしれない。

一応の「ひと区切り」、というところはあるので、そこまでは一息でやってしまうと面白い。わかった後はそれこそ気ままに、仏道の方では「聖胎長養」っていう言葉があるけど、とにかく「何にもしないで健康」なのがなによりだ。

実践していくといつか必ずわかる、というそういう話。〔いのち〕というのは知っても知らなくても、最初から救われている。でも知ってみると、やっぱり安定感が違うかな。そんな気がする。

愉気について

この数日、愉気についてまた改めて考えていた。実際は「考えさせられた」という体なのだが。最終的に「ピタッとする」という、これに尽きる。これ以外の何ものでもない。それは「静止」ということでもあり、それと同時に「適合」ということも意味する。

ここで「同調する」などというと、なにやら解ったような気にさせられるから自分としては肯えない。そういうテクニカルな気配が残っていてはだめだ。

「無心にやる」などとい言うのもあやしい。無心などあったとすれば、それはもう「無心」ではないではないか。もっと自身の内奥の命がそのまま出てくる感覚だ。

一方で「やさしい、やわらかい」気であるということは必要条件である。最終的に人格から滲み出る深い愛情のちからが育ってこないことには話にならないだろう。

毎日仕事で行っているのだから中にはうまくいくこともあろうが、「うまくいった」と思ったらそれもまた邪魔だ。兎に角、淡々と静を養うことだけがそれを可能とする。

愉気は整体の基本であり根元でもある。どんな人にも、はじめたその日からできるし、一方でいわゆる「熟練者」でも力を失うことがある。経験の積み重ねによって気が研ぎ澄まされたり、逆に経験故にナマクラにもなるのだから妙なものだ。

一切の努力も汗も放擲して「そのまま」やるというところに、東洋人が好む「無」の本質があるようだ。この価値観に触れられるまで自分は十年を要した。

ただし掴みどころのないものに掴むところができた時は注意が要るのだ。直ちに手放して、からっぽにしておきたい。余計なものをみんな打ち捨てた時に、また最初のまっさらのスタート地点に立ち戻る。「普通」とか「今」とか言われるものがそれだが、もう一つ無理やり表現しようとすれば「黙」の一字になるだろうか。

結局のところ万言はたった一つの黙を表すためにあるのかもしれない。そして「何もない」ということを表現するにはやはりこれしかないのか。無と有は同じ事象の別称なのである。そのどちらのスパッとない、そういう有りもしないものが厳然として在ることが判ると、自身に最初から与えられている本来の自由性に気づく。全くよくできているものだと思う。

やさしい気持ちで

今日は坐禅と活元運動の日でした。参加者がお一人だったので、マンツーマン指導です。

坐禅会は全国いたるところにありますが、せい氣院は整体院ですから坐相(坐る時の姿勢)をその方に合わせて無理なく作れるように心掛けています。坐禅は苦行ではありませんから、リラックスがとても大切なのです。

なぜかはわかりませんが、坐禅につづいて活元運動を行うとやさしい気持ちになります 。坐る前と坐った後、外の世界は何も変わらないのですから不思議なものです。

禅修行はお一人でも基本的に問題ありませんが、やっぱり2、3名はいらした方が「場」が作りやすいかも、ですね。そういえば今月はブログ告知を忘れていました。Σ(・_・)あかん!

%e8%a6%aa%e5%ad%90%e3%83%8d%e3%82%b3今月は月末にもう一度活元会があります。9月24日(土)10時-13時 次回は活元運動・愉気(手当て)の教室です。先月同様に「つながり」と「関係性」をテーマにした手当ての実習を考えています。

ご参加希望の方は前々日までにメールをお送りください。それでは。

8月 活元運動の会

8月の活元会についてご案内いたします。

■日程
8/14(日)  14:00-17:00(坐禅・活元)
8/27(土)  10:00-13:00(活元・愉気)

■場所
横浜反町 せい氣院

■料金
各回3,000円
※当月・前月に当院の個人指導を受けられた方は2,000円

■服装
白系の柔らかい服装をご用意ください(インナー着用可)。

■内容
8/14は活元運動の前に静坐して禅を組みます。意識の鎮静を味わうために、ゆっくり息を吐いて、全身のゆるみと腰の自然な伸びを創ります。

8/27は活元運動の後に愉気(手当て)の実習を行います。統一した身心と柔らかい手で触れる感覚を訓練いたします。

初めてご参加を希望される方は、一週間前までに「予約・お問い合わせページ」のメールフォームよりお申し込みください。その他の方は前々日までにご参加の旨をご連絡ください。

以上、宜しくお願い申し上げます。

野口整体 せい氣院
朝比奈洋介

魂の点火者

「人生二度なし」を説いた教育者 森信三氏は「魂の点火者」と呼ばれていた。

魂に火がつけば、あとは心も体も勝手に燃えていく。

指導者というのは皆、心を動かすことが仕事の根幹だ。

本来、医も仁術である。

心の温度を使うものなのだ。

当然だが、あちらに火を灯すには、こちらが燃えていなければいけない。

もとより人間は赤々と燃えているのだから。

いのちを高められるは、いのち以外にない。

愉気とはそういうものだ。

人間がいる限り、人間はつながりあっていく。

つながりを見失いかけたら、背骨を感じ、手を当て合って、活元運動をしよう。

人間がいる限り、人間はつながりあっていく。

このことはずっと変わらない。

燃え移るものがある限り、光はつながっていく。

それだけで、ずっと大丈夫なのだ。

パラダイムシフト

病気を全うする

すべて調和というのは、一つ違っても調和ではないのです。そういうことは体が知っている。

私は、初めは病気を治すつもりで治療ということをやっておりました。そのうちに、人間が病気になるということは全く無駄なことだろうか、と思うようになりました。そう思って観ると、病気をする人は、病気しないといけない状態になっている。そして病気して経過すると、今までの疲れが抜ける。眠っている力が出てくる。ひょっとしたら、病気はそういう居眠りしている力を喚び起すためになるのではないだろうか。

…前屈みの人は、ある状態以上に屈んでくると風邪を引く。それを通ると腰が伸びてシャンとしてくる。そこで、風邪や下痢は体を調整するための働きではないか、それなら人間が病気になるということは、無意味なことではないと思いました。とすれば病気を治すよりは、病気の経過を全うした方がいい。そう思って観ていますと、大部分の人は病気のあと元気になります。けれども、その経過の中でちょっと気が乱れたり、不安な気があったり、臆病な気があったりすると、病気になって却って体が弱る。それは焦るからなのです。

病気を全うするということを考え出したのは、病気を自分の体力で経過した人が、その後みんな元気になるということをみたからです。顔色を見てもスーッと透き通って、濁りがなくなっているのです。

…それを経過の途中で止めたり、抑えたりした人は、病気をやっていよいよ弱くなってくるし、病気をやったあとも濁った顔になっている。そしてまた病気をするのです。本当は病気をやっているうちは蒼くとも、経過し終えたならばスッキリと透き通って、綺麗になってこなくてはならない。働いても疲れない体になっていなくてはならない。それがそうならないというのは、経過を全うさせなかったからです。(野口晴哉著『愉気法 1』全生社 pp.36-38)

以前は慢性病・難病系統の方が一定の割合で来られていたが、最近の方をみていると姿勢の問題や肩・背中・腰周辺の痛みや違和感などを訴えられる方が多い。いわゆる「整体院」の領分という感じを受ける。ホームページの内容が少しずつ変わっているのでその影響だろうか。

身体が硬張って姿勢が偏っているような方は、いわゆる風邪など何年も引いていないということがめずらしくない。手を当てていても、はじめの内は気が通るまで何十分もかかる。ところが数回通ううちに下痢をしたり、熱を出すようになると、そこを境に姿勢が変わってくる。まるで熱で身体のこりが解けていくように、正しい位置に戻っていく。

風邪に限らず病気というのは身体の平衡を保つための調整役を担っている。その病気を「わるいもの」として駆逐していけば、身体は知らないうちに鈍り、老朽化してくる。

何年か前に、がんの治療中の人を観たら操法の数日後に肺炎を起こして入院されたことがあった。その方はそれっきりなので予後を知らないのだが、西洋医療とは身体の見方、持って行き方、理想形がほぼ真逆なのだ。我々と共有できない部分がない訳ではないが、整体によって丈夫な身体を保つ、育てると言った場合には、どこかでパラダイムシフトを要求される。

うちの整体に関して言えば、30、40代で始められる方が圧倒的に多い。このぐらいが個人の思想基盤の転換期として適しているからではないかと思っている。物事には「その人の、その時」というのがあるのは間違いないが、整体をやるには早いに越したことはない。これはこれで厳然とした事実なのだ。

ただ歳をとっても頭の柔軟な人は、腰もやわらかい。その逆も真なりで、整体の必要な人ほどその思想が受け入れられないで断念することも少なくない。指導者の力量が問われるのもこの辺りだ。理屈もさることながら、論より証拠で、生きた実物を観て「これならいい」と思っていただけるような身体を創るのも重要な仕事だ。

愉気の領分

以前書いた「内外一如」のつづき。

…けれども、愉気をする場合に、そういう外から見えない心の内側のことを頭において手を当てるのと、見える処だけに手を当てて治そうとするのでは大分違ってくる。例えば、相手のいっている言葉じりだけをつかまえて議論したら、その議論に勝ったところで相手は負けていない。くだらないことで上げ足をとられたと思っているだけです。そういうように、見えるところだけで話し合うには、人間にはもっと奥があるんです。だから、その奥にある人間に手を当てることによって、こちらの奥にあるものと交流するのか、それともこちらの手と相手の体とが接触してそこで感応するのか、この二つは似ておりますが違うのでありまして、体に手を当てるだけなら、皮膚の傷は治っても心の傷は治らないのです。人間の体の毀れている中には物理的な打身で毀れているものがたくさんありますけれど、心の打身で毀れているということの方がもっと多いのでありまして、体に手を当てることが愉気だと思っている人は、皮膚の奥になると感じないから治せないのです。

“これは木綿だろうか。御召だろうか、銘仙だろうか”なんて思って触ると、これは銘仙だ、御召だということはすぐに分かるが、その体の中は決して分からない。そうでしょ。自分の注意の集まる処だけしか分からない。それが体の中や心を感じようと思って触ると、体の中や心も感じられるのです。

ただその人の注意や、考え方、感じ方、気の集まり方で、その人の感じ方が違ってくる。だから愉気しても、気なんか感じないという人は、着物しか触らない、「あらウールだわ」と、ウールに愉気しているだけなのです。

ですから、人間に心のあることを知り、更に奥にある生命の働きというものにぶつかるつもりで愉気をして、気が集まると、そういう働きを直接感じるようになるのです。だから自分の中身が拓かれていくと、それに応じて触って分かることが違ってくる。違ってくるとその働きかける場面も違ってくるのです。(野口晴哉著 『愉気法1』 全生社 pp.103-105)

野口整体を受ける方にとっては、やっぱり愉気について関心が集まりやすいみたいだ。指導を受けている感覚を頼りに、自分の家族に手当てをされている方もいる。何故かはわからないけれども、手を当てたり当ててもらうことには本能的な快感が伴う。

古来より「手当て」というものには不思議な解釈がついてまわってきた。「薬も飲まないで、手を当てるだけで何故治るのだろうか」と思われることが多いのだが、実際にやってみるといろいろなことがわかる。まるっと「野口整体」という生き方にシフトするには何年か浸る必要があるが、やがては手を当てることが治療の原型であって、投薬などは疑似治療だと思うようになってくるものだ。

薬というのは論理性の結晶だが、手当てなどは近年になって少しその効能に科学のメスが入ったくらいで全体としては判らないことの方が多い。愉気というものはそもそもが、訳のわからないままやっているくらいの方がいいのだ。アマチュアの場合は特にそうだと思う。鰯の頭も信心からで、お守りでも、お祈りでも、念仏でも、訳がわからないから「効く」のだ。ところがプロになる過程でだんだん訳がわかってくる。この辺りがむずかしいところで、一時的に愉気の力が失われやすい。そこでもう一つやり込んでいくと、もう一度その「漠」とした何かに突き当たる。ここではじめて盲信が本覚に変わる。

そもそもが「病症」や「痛み」などは人間の奥にある生命活動が噴出したものである。表層の痛いとか痒いとかに振り回されている間は、延々と後手を踏むはめになる。できることなら頭が痛くなってから頭を抑えるような間の抜けたことはしたくない。いろいろな身体現象の奥には絶え間なく動きつづける「何か」がある。そしてその「何か」には絶対的な秩序が備わってるのだ。その「何か」がお互いにぶつかり合う様なつもりで触れていくと、純粋な感応が起こる。

不思議なことは何もない。母親が子供を抱いてあやすのと同質のものだ。体の異常を治しているわけではないし、心を癒そうなどとも思わない。ただ抱いている。何万年もそうしてきたのだから、何より事実が証明している。本来は技術とも呼べないようなものだし、当然名前も付いてない。だけれども、命を繋いできた「何か」があるのことだけは間違いない。この力を一応は愉気と呼ぶことになっている。

最初からあるものだけども、それに気づくために修行はいる。それでも修行してこれからそうなるのではない。着眼点が変われば、自分の全部が相手の或る処に集まる。自分自身をよく見てみたって、結局は何が動いているのかわからない。そのわからないもの同士がピタッと当たるようにする。今はそういう感覚で行くのが一番無理がないなと思うようになった。そう言いつつもまだまだ愉気の研鑚の途上である。これというものに執らわれないことが、進歩の秘訣だ。

子供の発熱の処置

…そういう教育は、繰り返し行われると、潜在意識の中に滲み込んでしまって、滲み込むとすぐ体を支配するのです。例えば、“四十度の熱が出たらもう駄目だ”などと思うと、すぐ元気がなくなり食欲もなくなる。けれども整体に来ている人達には、熱が出て食欲がなくなるなどという人は極めて少ない。「三十八度しか出ない」「まだ九度なんです」ときまり悪そうに言う。「なんだ、あなたの体力はそんなものですか」と言われそうで、四十度を越さないと幅が効かない。事実、四十度を越しますと、親から貰った梅毒のようなものでもなくなってしまうのです。だから子供の病気に高熱が伴ない易いということは、一面、親から遺伝してきたものに対する消毒の意味があると思うのです。だから私は、子供が高い熱を出すと、“これで安心だ”と思うのです。それがなくて大人になってから早発性痴呆になったり、脱疽になったりしたのではたまらない。ところが近頃では、熱のでることまで予防するようになってきました。ひょっとすると、もう二、三十年の内には、二十歳位になって突然気が狂うような早発性痴呆の人達が多くなるのではないか、その他にも、まだいろいろ抱えている病気の消毒が済まないまま成人していくのではないかと、その点では大変怖いと思うのです。(野口晴哉著 『整体法の基礎』 全生社 pp.22-23)

今日は“まくら”の引用文が重厚になってしまった。太郎丸の風邪の経過記事が途中になっていたので、まとめることにした。

結果から言えば発熱はおとといがピークで39.5℃まで上がった。40℃の大台も予期したが、今回はそこまで至らず、しかもデジタル体温計だったので実際はもう少し低めだったかもしれない。

野口先生の時代には「発熱は怖くない、活用すべし」と言ったら方々から非難を受けたそうな。ところが現在は西洋医療でも熱は下げない方がいい(下げるなキケン)ということが、ほぼ明らかになっているみたいだ。ただこれまで発信し続けた「常識」の手前、明言できずにお茶を濁しているというのが実情ではないだろうか。

「真理」は絶対無二だが、「常識」というのは流動的で薄弱なものだ。だがそれと同時に常識は頑迷でもある。常識に抗して地動説を唱えたガリレオはそのために処罰された。常識が覆ってからも、彼が死んでからも刑は解かれず、罪を許されたのはなんと20世紀に入ってからである。権力というのは凄まじい。今だったら天動説が非常識ということになるのだろうが、本当は天も地もはじめから動いてなどいない。発熱に対する「解釈」も似たようなものだろう。熱はただ熱として出ているだけである。

何にせよ現代に至って、それだけ野口整体と一般常識との落差が減ったのは、やりやすい反面やりがいも減じた気がする。カウンター・カルチャーが徐々にサブ・カルチャーになり、メイン・カルチャーとなった時にはその存在意義も消えてしまう。これはこれで寂しい。

少し熱の処置のセオリーを書いておくと、整体では発熱のピークに差し掛かったところで後頭部に蒸しタオルを当てることがある。本来、体力充分であるはずの1歳児ならこんなことをする必要もないのだが、今回は緊張がゆるみきらないので少し熱刺戟を使うことにした。ここからリズムが順になって、経過が良好になったうようだ。

注意したいのは、「子供が熱を出したら後頭部を温める」と覚え込むと、いま実際に、目の前で活動している〔身体〕を見失う。いわゆる自然界には「同じことは二度起こらない」という一大法則がある。その一回性の出会いに対して適合する方法は、過去の知識の堆積から見つけることは不可能だ。

〔今〕を知りたければ、〔今〕から学ぶ意外にない。整体操法とは元来、即興力の連続で構成されているのだ。そのヒントは過去の事例の中にもあるが、過去の中には答えそのものはない。記憶の蔵を漁るのをやめて、いま目の前で燃えている命の色を観ることだ。さすれば今何をすべきかは自分の命で感じ、自分の身体でわかるように出来ている。これがわからないようでは、鈍っているのだ。

他人の自然に立ち入る前に、自分の自然を守ることだ。自分の自然が表出すると、「あちら」と「こちら」の垣根は消える。それは看病、整体操法における基本であると同時に、充分条件でもある。方法論は何処まで行っても方法であり、手段でしかない。手段の奥にある理合いを感じ、そこを出発点として感じ、考える頭が欲しい。そしてその頭が消えさえすれば、愉気は無量の光となる。

中庸

今日も夕方から子供の風邪の経過を看ていた。子供が生まれてから、何度も何度も、いつもいつも、体験してきたことだけど、病症経過を見守ることに「慣れ」はない。肉親だからかもしれないけど、ときおり「もしや・・」という不安が沸いてしまう。

ともかく人為的に「何とかしよう」と焦っている人にとって、「自然経過」という速度はとってもとってもおそく感じる。だけれども、何を考えて、何をしていようと病症経過には必要なだけ時間は掛かるし、そして必要以上には絶対掛からない。

その速度も期間も、「中庸」のまんま進んでいく。ずっと昔から、「自然」とはそういうものなのだ。

例えば川の流れを思い浮かべてみてもそうだ。上流の急峻な所を流れる水は「速い」だろうか。いや、そうではなくって、やっぱりその傾斜角にそった中庸の速度で流れているはずだ。

それを急とか速いとか見るのは人間の考え方だ。その見方をはなれた時、五官を刺戟する一切のものが中庸であることがよくわかる。

中庸を自分の中に見出したら、その瞬間から大安楽の生活がはじまる。その点、自分はまだ距離がある気がするのだけど。それで人に愉気する資格があるのかと問われると、少し下を向いてしまう。

それでもわずかに気がついた以上は中庸の生活を心掛け、実践あるのみだ。健康生活の原理と言った時、意識を静めること以外に何があろう。この期に及んで、「無我、無心」すらも余計なのだ。そのままでいい。それも頭の中に思い描いた「そのまま」ではなく、ただ本当に、そのまんまのそのままだ。