世界の中心は

そのむかし蒋介石を相手にせずといった政治家がいたが、コロナの相手もそろそろ飽きてきた。

いやもとより相手にはしてないんだけど、世相が右往左往するもんだから何をするにも不便である。

余談になるけども、この状況に小さいころ雪の日に父の車で出かけた時のことを思い出す。その当時たまたま車が4WDだったので自分たちは雪の弊を受けないのだが、次第に前後の車が動けなくなり結局坂道で立ち往生したのであった。その時母が「ウチだけ四駆でも周りが動けなきゃしょうがないね‥」と言ったのが妙に印象に残っている。

これと同じ原理で誤った衛生観念が盤踞するかぎり、自分一人楽土を歩むことはゆるされないことを今更ながらに痛感した。

与えられた状況で困る困らないは依然自分の勝手なのだが、現実問題、周辺の施設は閉鎖するし、マスクと手洗いを無言で迫る風潮にもそろそろ飽きてきた。

見ているとこうした社会倫理に疑念と違和感を持つ人は少なくないようだ。その証拠に某夫人が外で会食をしたというだけで批難が殺到した。民間でも休日にあそこの公園に大勢人がいた、不謹慎だ病気が蔓延したらどうするのか、と直接言うならまだしも後でポータルサイトのコメント欄やSNSに匿名で告げ口をしあう始末である。

言わずもがなだがこれらは「私だって我慢しているのに」という不満の投影に他ならない。雨の日に閉じ込められた子供が、体力を持て余したあげく陰気になって「○○ちゃんが○○してたよ!」と告げ口をしあうのと同じ原理で、これはこれで健全な生理現象と見るべきである。

したがってそういう行為に走る個人をいちいち取り上げても益なく、非効率である。もう少し因果的な視点で問題の根幹に目を向けると、そもそもが人間をそんな卑小で陰惨な姿におとしめているのは何かということになる。それは取りも直さず、現代の誤った衛生知識じゃないか。

ではその衛生を生み出したものは何か。それは外界探求を根本的欲求に据える自然科学のパラダイムである。さらにその科学を生み出したのは西洋思想の源泉ともいえる、自他分離の観念、我と彼とを真っ二つに分ける二元論である。

俺が俺が、という我。その「我」の境界線をどこに引くか。それこそが大問題なのである。その線をちょっと引き間違えただけで、時に何万という人間を一瞬で死に至らしめる蛮行まで生ずる。まあこの話は少々長くなるのでまた機会をあらためるとして‥。

本来健康に生きる道というのは本人も周りも楽しく生きて、元気よく互いの生の発展を感じさせるもの、お互いが生きているということに快を感じさせるものでなければならないはずである。

ところが現状は真逆であり、ちりぢりに分断された個人が憤懣やるかたなく息を詰まらせている。そうして遠くからお互いの自由でありたい要求を監視し合い、にらみ合い、突つき合う始末である。屈辱だ。むろん全ての人がこうでないことはわかっているけれども、少なからずこういう不健康な衛生観念が巾をきかせるような行き方が本当に人間の進歩なのだろうかと問いたい。

誰も彼もが何か妙だ、おかしい、と無意識では今の衛生観念の欺瞞を看破しているのに、もう一つそこに信が持てないのだろう。もしくは他に良案が思い浮かばないので、仕方なく現状の在り方につき従っているのかもしれない。そこは「カガク的」という言葉の魔力である。

無論中には長いものには巻かれろ式、事なかれ主義もあるだろう。加えて全体の意向を尊重し和を乱さないようにする日本的美徳とも相まって、多くの人が「今」という自由性を見失っている。

そもそもが病菌なんて人類発生以前からいたるところにいる。それをマスクをした、手を洗った、換気をしたからどうなるというのか。今だって無数に体に付着し、鼻からも口からもどしどし侵入しているのが真実である。無菌状態なんてどこの自然界のどこにも存在しない。

それこそ団子を一つ、刺身を一切れ食べたってそこに何万という雑菌がいる。そう考えていくと煮炊きしないものをそのまま口に入れるのは恐ろしいことである。それなら煮沸・滅菌という観念に囚われて、饅頭を茶漬けにしないと食えなくなった医者に範を求めるべきではないか。

しかし真実はいつも事実に現れるもので、その雑菌だらけの中で生活しながらケロッと生きているのが人間の実態である。たとえ当人が頭の中で病菌よウィルスよと震え上がっていても、残念ながら体の方にその必要がなければ何ら発症しない。錐体外路系の働きによるものである。

よしんば発症したところで、人々が病気よ、病魔よと怖れるそのはたらきは何のことはない単なる人体の抵抗作用なのである。咳くしゃみに始まり、発熱から下痢にいたるまで、病症とはすなわち身体の偏りを正し、正常な状態に返ろうとする生体の安全弁であることをおのおのが自覚せねばならない。

この大宇宙の生命は須らく一蓮托生であり、それはある一つの合目的性を有している。身体に必要があるときに周辺の生命体と協力して、鬱滞したエネルギーを振作し抵抗作用を発症する。これが病気と呼ばれる現象の正体である。

このはたらきによって古くなった組織は破壊され、偏った骨格もその発熱によって暫時正される。のみならず、体内に残留する不要な老廃物は下痢、小便、発汗、鼻水といったもろもろの排泄作用によってみんな体外に出されてしまう。

言わばこの新陳代謝の作用によって生きた体は絶えず刷新され、生を全うする道もこのはたらきによってはじめて開かれるのである。たった今もそうやって内外の環境に適合する身心を創造しつづけているではないか。破壊と創造とは別々に存在する真逆の作用ではなく、健全に生きようとする生命現象の両側面に過ぎなかったのである。

ところが全体から分断された局所的知識に囚われると、病症は死を近づけるだけの破壊作用にしか見えなくなっていく。そうしてこれを駆逐することが人類が生き延びるための唯一の道と錯覚し、カガク者を旗手として人類はあらぬ方向に驀進してきたのである。

やがて人間を活かすために追い続けた医学の知識は、気づけば病気を地球の主人とし、人間を病気の機嫌を伺いながら息を殺して生活する召使いにしてしまった。そうして病気の隙間を見つけては、人間がこそこそ怯えて歩く世界に染まりつつある。

ある人は言う。「でも現実に病気で死ぬではないか」と。確かに人は病気で死ぬのかもしれない。なるほど癌も怖いかもしれない。風邪も肺炎も怖いものかもしれない。しかしその人は病気にならなかったら死ななかったのだろうか。

そもそも病気を乗り越える体力や気力がなかったとは言えないだろうか。もしかしたら、病気を怖れる余りもちまえの抵抗力が委縮し、その恐怖心のために死んだのではないだろうか。

あるいは病気を治そうと焦り、処置を誤ったがために自然の経過を乱し、死ななくていいものを人為的に死に至らしめたのではないと、どうして言い切れるだろうか。もしそうだとすれば、果たしてそれは「病気で死んだ」と言えるだろうか。

また別な視点で考えても、風邪をこじらせて重症化するような鈍った体を作ったのは一体誰か。癌を作るような冷たい体のまま放置して鈍重な生活を繰り返していたのは一体誰の責任であろうか。

本来病気を必要とする体というものは、甲の病気を避ければすぐさま乙の病気に罹るようにできている。そういう偏り鈍った身体を正すことをまず考えるべきではないだろうか。

生まれたときはみな敏感で弾力のある身体をしていたのである。それをせっせと50年かけて、癌を作るような冷たく固い身体を育ててしまうずさんな態度や文明の在り方をわずかでもいいから正して行く、そういう道を開拓することはできないだろうか。

またある人は「病気を怖れず人々の接触を再開させろ」という。その論は結構だが、理由を問うと経済を回すためだという。

これもやはり金が主人になって人間を生かしているようである。病菌に追われて生きているのも妙だが、金に人間が生かされているような考えもやはりおかしい。人間が活発に生きているからこそ金も金としての価値が生ずるのであって、人間に力がなくば金もただの紙切れと数字になってしまう。だからこの論にもやはり主格顛倒は否めない。

経済のためではなく人間が主体を取り戻し元気よく生きるために、ありもしない不安を生み出し流行らせる行為はもうやめよと言いたい。

生命はみな一つの宇宙秩序ともいえる合目的性に向かって共存共栄しているのである。この事実を一人一人が本当に覚らねばならない時代がもう既に近づきつつある。

そのために何をすべきか。それは先ずもってみんな自分のいのちに自信を持たなきゃいけない。自分のいのちとは何か。それをまさか5、6尺の肉体と、せいぜい7、80年の寿命をもって我が「いのち」と思ったら大間違いである。

「自分」とは皮膚の皮一枚で外界と分断され、孤立した生命体と思っては誤りである。実際その自分を保っていくためには体内に水も米も魚も野菜も通過させなければならない。いやオレは魚は食わん、肉を食ったら残酷だという者もいるかもしれないが、そんな者でも息をしなければ5分と命が持たない。

現実に自分の肉体以外のものと絶えず接触し、流通を続けなければ何も為すことができないのがこの個体生命というものである。

しかしいのちとは、そんな卑小なものではない。一体自分のいのちとはいつから始まったのか。オギャアと生まれ出た時か、それともへその緒を切ったときか、はたまた母の体に入ったときか、父の体内に精子ができたときか、いやその父母のそのまた両親の中にすでに自分のいのちはあったのか。それはカガク的な追及手段では永久に掴み得ないのである。自己の生命の本体は、自分で覚る以外に絶対に分からないのである。

そういう内なる教養を育む教えが今何よりも必要だ。本当に身体が整い、意識が静止したとき、そこに現前するいのち。それを悟らなければ眼前の不安が去ってもまた新たな材料を見つけては不安になる。その不安だ、不安だ、という意識をまず止めなきゃいけない。「妄止めば、寂生ず」である。

意識の活動水準を下げるためには頭で「意識を止めろ」といくら考えていたって埒が開かない。身体の筋という筋が全部緩まなければ、筋紡錘から絶えず脳へ信号が送られその働きを停止しないからである。そのために身体から余分な緊張を抜き去り、自ずから整うように誘い、その本来の働きに任せきって生きられるよう新たに訓練をする必要がある。

少し論に飛躍があったけれども、兎に角一人一人が意志をもって、自分というものがこの世界の中心であることを自覚すれば、その生命に対する信は今この瞬間から強固なものとなる。

この信を得ればいたずらに恐病の風潮に惑わされることもなく、世間に横行するあまたの世迷い事にももはや流されない、万難不屈の大丈夫に至る道もかくて開かれるのである。

答えはいつも我が身の内に在り、である。一人一人がそういう幸運に恵まれていることを自覚し、たゆまず参究すればやがて必ず流れ着く処がある。そこが世界の中心だ。

臨在は「赤肉団上に一無位の真人あり」と言い、永嘉は「絶学無為の閑道人」と言った。またトルストイは物質現象以前の存在、未来永劫に失われない内なる霊を悟り、その不滅を説いた。

どれも言葉が違うだけで意味する所は同じである。物質の世界がどう変化しようとも不滅の健全さと共にある自分、いや歪みようのない、侵されようのない自分というものが本来の自己である。

なるほど誰も彼もがひょこひょこ得られる心境ではないかもしれないが、一方では誰も彼もが今この瞬間に自覚しさえすれば、そこにそのまま現れる健康の人がある。

外の世界のあくたもくたに追われるあまり、くれぐれも掌中の珠を見逃さないでもらいたいと願う。かくいう自分もよくこれを見失うので、是非ともそのような生き方をという願心を日々新たにする今日この頃である。

そう考えれば目下の時勢も事上磨錬にちょうどいいかもしれない。今日もぼちぼち歩いて行こう。

情報の価値

つい先ごろまでyoutubeのゲーム実況を観るのが唯一の楽しみだったのに、年明けぐらいからいろんな発信者が急に増えだしてなんだか一気につまらなくなった。つまらないだけならいいが、さすがに昨今のウィルス情報の氾濫には気分が滅入るのでしかたなくサイトを開くのを控えている。

いまの世の中は誰もかれもが情報を欲しているようだ。仏教では貪・瞋・痴を苦しみの根本原因として戒めるが、その最初にあるのが貪、すなわち貪りである。

何も服が欲しいとか車が欲しいとかいう物欲だけが貪りではない。どっかに面白いニュースはないか、誰か気の利いたことを言わないか、あの人はこー言った、だがこっちの人はこう言っている、はたしてどっちが本当なんだと延々やっている。

そうやって自分のいまの実生活を自ら捨てて絶えず駆けずり回っていたらそれは立派な貪りである。そうこうする間に自分の目の前の現実の方がほったらかしになり、ぐしゃぐしゃになっていくではないか。洗濯か掃除でもしてた方が近所迷惑にもならないし、はるかに生産性がある。

はっきり言えば「情報」など最初からどれも偽物である。群盲が象を撫でる例え話があるけども、人間というのは誰も彼もが自分の立ち位置から見たものに勝手な見解をつけて語るようにできているのだ。

例えば試しに茶を飲んでみればわかる。茶を飲むと飲んだ時だけ茶の味がする。そこでどんな味がしたか?と聞いたらある者は旨かったと言うかもしれないし、あるいは渋かったというかもしれない、あるいは甘かったという者もいるかもしれない。しかしここで改めてもう一度飲んでもらいたい。

はたしてその「旨い」ということはどこにあったろうか。「渋い」とか「甘い」などという現象が本当にあったろうか。そう考えていくと言葉による現実描写の限界にすぐ気づくはずだ。実体の現象の方は時間にしても規模にしても言語をはるかに超えている。

だからといってがっかりすることもない。真実・真理というものは誰一人として見捨てることなく、いつだってどこにも隠されていない。むき出しになって今も自分の目の前に展開されているじゃないか。そういう観点からいえば世界はいつも平穏であり、平等なのである。

いつの世もそうだろうが、何か事が起こった時に一緒になって騒ぐ人間にはまあ事欠かない。いくらでも、どっからともなく野次馬は沸いてくる。文明生活というのは基本的にエネルギーが余るようにできているもんだから、退屈しのぎがあればすかさず飛び付くようになる。

それも余剰エネルギーの鬱散をはかる生理現象だろうし、人間も自然の生き物であったことは否めない。そんな人間でも訓練次第では境遇に左右されずに静かな世界を生きられるようになるのだから面白い。

頭ではくだらない話にすぐだまされるような輩でも、いのちの方は絶対にだまされない。降っても照ってもその通りのことがその通りに、そのまま展開するだけだ。愚かな頭というのはあっても愚かな生命はない。いのちは太古の昔から未来永劫、完全無欠である。

それ故意識の活動水準を極限まで下げて、いのちとの深いつながりを自覚している者はいつだって事の真偽を正確に見分けることができるのだ。

そういう開かれた目のことを慧眼とか心眼とかいう。

臨済宗の禅僧である大森曹玄老師の『心眼』という本にはそういうことが書いてある。老師がまだお若い時分に関東大震災に遭われた。そのところを少し長くなるが引用してみる。

それは関東大震災のときでした。私は従兄弟の安否を気づかって、下谷の彼の家を見舞ったのですが、そこは猛火に包まれていて寄りつけるものではありませんでした。やむなく上野公園を迂廻して帰りかけると、偶然にも寛永寺坂付近で避難中の従兄弟の一家と逢いました。彼らとともに一夜をそこで野宿して、翌朝、彼と一緒に焼け跡に行き、焼け残った釜を拾って戻りかけた時のことです。

突如、どこからともなく「津波だッ」という叫び声が起こり、群衆はワーッとばかり、われ先に上野の山を目がけて走り出しました。私も釜を投げ出して、群衆とともに一目散に走りました。

空は雲煙に覆われて夕方のように暗いし、鷗でしょうか白い鳥の集団が上野の森を目指して飛んで行きます。たしかに津波の来そうな不気味な状景でした。

そのとき一人の壮年が立ちはだかって、大声で群衆を叱咤するように、

「馬鹿ッ、この近くに海はないぞッ!どこから津波が来るんだい!」

と怒鳴りました。この一声で冷静になってみると、なるほど津波の押し寄せる条件は上野の山下には何一つありません。群衆は悪夢から目覚めたように、ぞろぞろと焼け跡へ引き返して行くのでした。私の徴兵検査の前の年でした。

そのとき、私はしみじみと目覚めた一人の真実の叫びの力づよさを感じました。…

これは現代でも変わらず言えることだろう。東日本大震災の折にも大小さまざまなデマが飛び交ったことを記憶している人はまだ多いはずだ。私の知る限りでも、もうすぐにでも東京に直下型の大地震が来る、などといって地方に転居してしまった人までいた。

当然だがどこに行ったって地震もあれば雷もある。疫病も流行るし不況もくる。それで困るか困らないかは、自分の力量次第なのである。例え火星に行って住んだって、自分自身に煩悶があればその自分からは逃げられない。

これほどしっかりとした自分といういのちを与えられていながら、本来の自己というものに目覚めない限りは一向に主体というものが現れない。そういう者は絶えず時流に流され、人間に生まれながら風に舞う紙屑のように右往左往してしまうのである。

私がお世話になった整体の先生が言っていたけれども、何か事が起こった時でも昔なら「まあちょっと落ち着け」とか「まず座れ」とかいう人が必ずいたという。兎に角、ひと呼吸おいて冷静になれ、という「できた」人物がそこにもここにもいたというのだ。しかしながら今はみんな動いてしまっているので、周囲の動揺に冷静に気づける人物がいないことを憂いておられた。

野口先生も生前「こうも頭で生きる人が多くなってしまった」とか「気のしっかりした人がいなくなった」とおっしゃっていたそうである。またある所には「どれが正しいかは自分のいのちで感ずれば、体の要求で判る」とも記してある。これが判らなければ「鈍っている」と言うべきで、体を整え、心を静めれば自ずから判るのだと続け、身心の感受性を鋭敏に保つことの重要性を繰り返し説いている。

引用にあった「壮年」氏も、右往左往する群衆の中から必死こいて情報をかき集め、深慮のあげくに声を発したわけでないことは明白である。いのちの根源からこみあげる「直感」より発せられた一声であり、まさしく魂の叫びである。

これに類するものとしてキリスト教文化圏にはスティル・スモール・ボイスという概念があるそうだが、理性の過剰亢進によって意識が混濁しやすい現代人からしたら、こうした幽かな「魂の声」や「神の声」を聴くことは困難を極める。

逆に言えば、多忙な現代を生きる今だからこそ、自主的に意識の鎮静化に努める時間を持つことが求められるのではないか。野口晴哉も「意識がつっかえたら、意識を閉じて無心(無意識)に訊く」と言い、ここでも心を落ち着けて行う瞑想行の必要性を暗に示唆しているように思われる。

「落ち着く」というのは一見すると体とは別個にはたらく精神力のように思われるが、その実、精神を支える土台となるものは身体に他ならない。換言すれば落ち着きとは即ち身体能力なのである。

話を病気の方にシフトすると、結核でも克服して丈夫になっていく身体もあれば、風邪を乗り越えられずに死ぬ身体もある。これは学説ではなく事実である。

つまり生きた人間が持つ抵抗力ということを度外視したまま健康も治病も語れないはずなのだが、現実は無機的な研究室の試験管の中で病原菌の研究ばかりが盛んである。その結果病気に怯える知識は蔓延したかもしれないが、個人を如何に理解し丈夫に導くかという人間探求の道は頓挫したままである。

忘れないで欲しい。生きた人間は外境という風に吹かれて漂うだけの木の葉ではない。訓練と修行のやり方次第では、強い意志と主体性を確立して世界を幾重にも塗り替える力を持つ、可能性に満ちた稀有な生命体なのである。そういう人間に生まれたという僥倖に気づかないまま、真剣に悩むことも心底苦しむこともしないでただ飯を食って生きているようならこんなもったいない話はない。

先ほどの落ち着きの話と重ね合わせても、本当におそるべきは環境や外的ストレスではなく我が身体である。身体性の低下こそが諸悪の根源であり、身体性の再考、再構築こそが全人類を上げて取り組むべき焦眉の急なのだ。

いま横行する過剰な情報も発信者の身体性以上のものは出てこないだろうし、受信する方だって身体性が低ければその低い程度の情報に飛びついて延々と踊らされるはめになる。

そう考えると九年間も壁の前に座り続けただけで名前が残った達磨大師などは、やはり偉かったのだ。外界からの一切の刺激をそのまま享受し、またこちらかは無駄な言葉を一切発しない。禅の象徴ともいえる黙の精神の強烈な体現である。

意図的に一切の情報発信をしなかったということが逆に強力な主張に化けて、それが1500年も語り継がれるというパラドックス。それこそ水疱の如く出たと同時に消えていくSNSのつぶやきの対極である。ありがたいことに答えはいつも優秀な先駆者たちによって示されている。その教えを受け取れるかどうは個人の器量と努力に委ねられるのだが。

ここまでくれば何もあくせく出かけて行って世界を取り変える必要はない。自分を治めれば万事収まるのだから。静座して深い息をしよう。そして茶でも飲んで、無用な買いだめと動画のアップのをやめてくれ。いやだから俺も黙って深い息をすればいいのか。自分の掘った穴に落っこちてしまった‥。

聖にあらず、俗にもあらず

野口整体というのは奇想の健康哲学だと思われるフシがある。

しかし、少し落ち着いた心でその本質を見つめてみれば、きわめて順当な生命観であることがわかるはずだ。

釈迦の悟りも達磨の廓然無聖も、俗を離れて聖を説くようなものではない。

俗世の真っただ中に聖を見出し、その瞬間にいずれも忘じて無を徹見した境をあらわしている。

病気が治ったから健康なのではない。病気の中にすでに健康の動きがある。

古人は既にこれを天行健と表したが、天行健もまた知識ではない。

自らの体験によって獲得しなければ、いかに真理といえど真理たり得ず。冷暖自知の心を知り、自らの体験を超える世界は何処にもないことを知るべきである。

身体即世界である。

身体(からだ)、それはつまり、空(から)だ。

もとより聖にあらず、俗にもあらず。

身心自然に整えば、霧は晴れ、最初に見ていた世界が現前する。

迷ったのは世界ではない。

自分自身である。

物を追うことを止め、直ちに身を整える可し。

これこそが聖俗を超え、真理に目覚める妙法である。

坐禅・活元運動の会 2018.5.10

今日は坐禅・活元会でした。

いつもと変わらず、脊髄行氣10分、坐禅45分2炷、活元運動45分、仕上げにもう一度脊髄行氣の流れです。

活元運動をする人は老いて死ぬ時にも寝込まない、苦しまないといいます。

自分が活元運動をはじめた青年期には何とも消極的な健康法だと思ったものですが、不惑の年になってみたらこんな素晴らしい修養法はないだろうと認識を改めた。

死ぬ時にジタバタしない、ということはそれだけ「よく生きた」ということ。

今生でやり残しがないということ、自分の全部を使い尽くした、とそういうことです。

そのために無意識の扉を開き、裡の要求を明らめるための坐禅と活元運動を行なっています。

整体とは生活の中に〈たましい〉が現れるようにと祈る、生に対する敬虔な態度である。

人はふとした時に日常の惰性に流され、生命に対する礼を忘れてしまう。

そんな時に意識の活動水準をさげて無意識に耳を傾けることで、生命に対する畏れの念を思い出す。

〈いのち〉に畏れを抱く人は、今日を慎ましく丁寧に生きる。

今日を丁寧に生きる人は、きっと豊かな死を迎える、と思う。

整体とは〈いのち〉に対する学びである。

弱い人はいない

生命は本来丈夫である。

人によっては自分で自分を「か細い」なんて言うこともあるけれど、それは自分でか細く見せているだけで実際に「か細いいのち」というものはない。

もとはみんな丈夫だった。丈夫だったものがいつの間にか「自分は弱い」と思い込んだのである。

問い合わせでも「子供の頃から体が弱くて‥」と書いて送ってくださる方がいるけれども、実はそういうところは最初から信じないし見ないことにしている。

こちらとしては、弱いとうっかり思い込んだのはいつからなのか、誰にそうさせられたのか、が知りたい。

勘違いに陥った地点までさかのぼって、誤解に気づけばもうその時から健康で丈夫な生活がはじまっている。

病気も丈夫のはたらきだし、丈夫で健康に生きているから病気もしているのだ。

このあたりは知識を通りこして体感的に理解するところだが、ここを自得するだけでも年月のかかる人はかかる。整体に生きる、ということを志すなら初関とも言える大切なところである。

全般に高齢になるほど既成の価値観を払拭するのに難渋するけれども、若く見えても先入した観念に頭を占拠され、真理を目の前にしてもそれを受け入れられない人がいる。

昨日のお茶でいっぱいになった茶碗の如く、そういう頭には今日の清らかな水の入る余地はない。

こういう人は生理学的には若いかもしれないが、それだけ老いて死に近づいているのだ。

しかしそういう頭でも利口になることは可能である。

体中の筋をみんなゆるめて、顕在意識の運転を休止させればいい。

「ポカンとする」とはこういうことなのだが、古くなって死にかけているような人がその価値を本当に理解するには、思考の限界性と危険性をよく理解する必要がある。

最近はもっぱら頭を使うための訓練ばかりをどこでもここでも教えているが、休め方を教える人は少ない。そういうものは、さしてウケないのだろう。

あるいは教えていても首から下の生理的働きを無視した方法を平気で教えていたりする。

そもそもが頭脳だけを身体から切り離してコントロールすることに土台無理があるのだ。

本当に頭の働きを変えるには正しい身体智から出発しなければ、永久にゴールには辿り着けない。

釈迦も達磨も禅による救いを体現したが、身体の生理的プロセスに関する記録は乏しい。

その辺りは身心学道を説いた道元の普勧坐禅儀に少し言及されているけれども、言葉のみで万人の個人差に対応するには心もとないものである。

整体の必要を説くのはそのためなのだ。

整体とは「道を為すは日に損す」と言った老子のように、日々頭の中を空にするための訓練である。

自分の弱さを掴んでこれを何とか強くしようとしているうちは丈夫にはならない。

悟りとはある意味、勘違いを打ち消すことなのだ。

道はただ一つ、身体をよく整えること、これに尽きるのである。

竿頭進歩

野口整体は「整体になる」ということが一応の目標だが、整体になるという完成が本当にあるかというと、やっぱりこれはあってないに等しい

あるけれども、ない

整体操法によって整体になる、といえば聞こえはいいけれどその実なにをやっているかと言えば、日常的に作られる「偏り疲労」を解消させるために身体をある方向に刺戟している

その刺激はいわば内的秩序をおびやかす、外界からの闖入者なのだ

もう少しくだいて言えば、内的身体を整えるために他者が乱している

つまり「毒」のような役割をしている

これによって全身の平衡要求が煥発され、活きた気が働いて整う方向へ動き出すのである

メカニズムはこのようだが操法がピタッと決まれば、これは大変心地よくカラッポになって清々しい心境を味わうこともしばしばである

ところがこれでめでたし、終わりかと言うと、なかなか物事はそう上手くはいかない

整ったものをキープするためには、その人なりに「心得るべき点」と言うものがある

これにちなんで、無門関 第四十六則に「竿頭進歩」という経論がある

まずある和尚が言う

「百尺(約31メートル)の竹竿(たけざお)のテッペンにいるとする、ここからどのようにしてさらに一歩進めるか」

また別の和尚がかぶせて次のように言う

「このテッペンにある人(いわゆる禅の極致≒悟った人)は確かに立派なものだがまだ本物とは言えない。何故か。それは〈悟り〉に掴まって、かえって囚われているからである。そこからもう一歩踏み出れば、本の木阿弥の世界に落っこちて本来の自由自在の姿を現すだろう」

さらに続く後半は割愛するけれども、何を言いたいのかといえば「整った」ということにこだわったらそれもまた偏りの因(もと)なのである

人間は絶えず何かしている、そういう何か、仕業をやめたときにはじめて拓ける地平というものがある

これに近いところを臨済禅師は「無位の真人」と表現しているけれども、何にもない「無垢である」ということはどういうことかをよく考えねばならない

整った、でもまた偏るのである

その整ったり偏ったりしている「はたらき」の中に、既に見えない秩序が働いているのである

こういう生命原理とでもいうものに信を養っていくことを本当の養生というのだ

また別の視点から考えれば「整う」という現象に際限はないのである

竿頭進歩と言うのも、むしろこちらの方が解り易いかもしれない

完成の中にも未完を見出し、さらにもう一歩進む

自己の完成に向けて、未完の身体を投げ出してまっさらで生きる人を育てたい

そういう願心をもって、自分の垢を削ぐ日々である

健康までの距離

最近は仕事の合間に岩波文庫の『無門関』をめくっていることが多い。

もとはといえば大学生の時に手塚治虫の『ブッダ』を読んでから禅に興味を持ち始め、以来新旧問わず関連書籍に目を通すのが習慣になっている。

禅は言葉ではない「不立文字」と謳っておきながら、現代は禅関連の出版物がもっとも多いというパラドックス状態にあるそうだ。

理由を説明すると、文章や言葉では絶対に禅の核心にはぶち当たらないので、結果的に核心の周辺に言葉がどんどん増えていく。

例えば「カレー」というものを言葉で説明すると、「液状で‥」、「辛くって‥」、「でも辛くないのもあって」・・とやっていったらいくらでも言葉は湧いてくる。

カレーの本を100冊読んだって絶対にカレーの味はしないわけで、ところが実物を食べてしまえば「ああなんだ、これのことか」で決着してしまう。

これに比べると「禅」とか「悟り」とかいわれるものは実体があってないものだから、だいぶ勝手が違う。自分が初めから悟りの真っただ中に生きていることに目覚めないかぎり、いつまでも他人の言葉に踊らされてしまう。

しかしよく考えれば「健康」とか「丈夫」、「元気」なんていうものもそういうものと同じかもしれない。

「健康になる」ことを考えている間は自分の中にすでに息づいている健康のはたらきに気づかない。

今を間違いなく生きているのに自由自在にならないのは、生まれてから作り上げた無数の観念のツルで自分をがんじがらめにしているからだ。

よく「常識を疑え、捨てろ」というが、元から捨てるものなど無いことに気づくのが本当の道である。

厄介なのは「無いことに気づく」とその瞬間には、「何にも無いという〈こと〉」を自動的に掴んでしまうのだ。これを「鑑覚の病(かんがくのやまい)」という。

もう少しわかりやすく言えば「俺は悟った病」とでもいうようなもので、そういう風に良くも悪くも自分を見ている自分をひたすら落として落として、落としていくのが悟後の修行と言われる重要なプロセスである。

その過程に在る絶対の現在が「修行」という名の未完成の完成なのだ。

『無門関』の経論にも「(修行に)終わりはない、終わってしまったらそれこそオシマイだ」という内容が繰り返し出てくる。

この本に限っては誰のためでもない自分のために読んでいるのだが、野口整体の道に入ったときから「衆生済度」は永遠の誓願である。

非力を承知で非力のまま、生身の力でやっていくより他ない。そういう無謀な気持ちにさせてくれるので『無門関』は座右の書になっている。

坐禅・活元会 2018.4.28

今日は坐禅・活元会でした。

坐禅は安楽の法門と言われています。

坐禅をして「悟ったら」楽になる、という話ではなくて「禅」というものが既に全人類を救っている、という意味です。

自分がこれに気づくための方便が「修行」です。

そして「坐」という修行法が多くの方にとって親しみやすい形なので現代まで残ってきた、ということでしょう。

ただし、坐禅だけでは身体がコチコチになってしまう人がいます。

またもともと凝りのひどい人や関節の堅い方などは苦しいものがあります。

ですからうちでは坐りの形にはそこまで固執しません。

無理なくピタッとできる自然な坐相を取っていただければそれで結構です。

今日は45分の坐禅を2回、それから活元運動を行ないました。

生きているとなかなか悩みはつきないものですが、考え方を離れて事実に触れるときっと楽になるはずです。

来月は下の日程で2回行なう予定です。

5月10日(木)10:00-13:00

5月26日(土)10:00-13:00

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退路なき現在

昨日の記事を読むといかにも宗教を軽視しているようにも見えるが、私は宗教は尊いと思っている。

ただ宗教の定義がそもそも曖昧だし、現行のそれの多くが特定のドグマを擁立するだけの集団になっていることは残念だと思う。

だいたい捉われを捨てることが目的であるはずなのに、宗教活動をしている人の方が案外執らわれていたりするから妙である。これではむしろ執教的と言わざるを得ない。

無論宗教法人ばかりがドグマを有しているわけではない。

現代は大小高低さまざまな思想が横行している。

しかし人生上の苦境において思想でどうにかなるようなものは一つもない。仮にあったとしても、その思想に力を与えるのは自身の信念や気力なのである。

だから平素から「野口整体なら治るのではないかと‥」お問い合わせをいただくが、つまるところは「あなたが治りたいか治りたくないか」が焦点になる。

実際のところ俗にいう「ノグチセイタイ」などはもはやどうでもいい。そういう依りかかりの対象になりそうな全てのものをぶち壊して、裸の力で前進することが野口の説いた内容である。

結局自分を守ろうとするから弱くなる。

守ってくれたり、救ってくれるようなものなど何処にもないということが早くわかることが何より救いになるということなのだ。

そういう、最初に自立した人がその上で修行を積むことが、真の養生である。

何ごとも頼ったり頼られたりする関係に甘んじて、どうにかなっている内は花である。

『無門関』の第一則にも、「妙悟は心路を窮めて絶せんことを要す」とある。

できるだけ早い段階で「どうにもならない事態」に直面し、自ら心路を絶することが自分を救う唯一の道なのだ。

事態が窮しているのに自分が窮することを先送りするのは得策とは言えない。

死中に活を見出すことだけが自分を逞しくし、道を切り開いてくれるのである。

もとより退路など何処にも無く、活路も無用である。

それが〔今〕なのだ。

すごいもの病

野口整体を看板に掲げている関係で、「大きな期待感」を持ってうちに来られる人は割り合い多いと思う。

もう5~6年前のことになるが、ある男性が腰を痛めて来院された。だいたいの腰痛はしばらく手を当てながら待っていると良くなっていくものだから、治ったからといって驚くようなことは何もないのである。

ただそうやって話を聞いていたら、その方はいろいろな「すごいもの」を遍歴していることが判ってきた。

よくありがちなのは、野口整体の愉気に目を付けるような方はレイキヒーリングもやっていたりする。そして講習に出て資格を取られたりしている。

でもそういう人が野口整体にも来られるのである。

その方もレイキをやられているし、まだ話を聞いてみるとスピリチュアル関連の占い師のところにも通っていたと言う。

それからナントカという行者のところで「特別な」瞑想も習ったことがあるし、ロルフィングの講習会にも出ていた。

そうやって、ずーっと「何か」をやられている。

やっていることの実体としては、自分というものの不全感を解消してくれる「何か」をずっと探しているのだ。

半世紀前ならこれは「宗教」の領分であった。

ところが自然科学の台頭によって大半の宗教は力を失っているから、今度はその後釜としてスピリチュアリズムとか民間療法がむりやり当て込まれているのが日本の現状なのだろう。

具体的に言うと難病なんかに罹った場合に、まず病院には行くけれども処置に不安があると次は食事療法をやったり、〇〇整体にいったりする、という構図だ。

これはある種の思想に頼ることで守ってもらおうという幼児的な願望の延長なのである。

現行の「宗教」と呼ばれているようなものも、だいたいはそういう「思想に堕ちてしまった」ものが多い。

つまり「こういう考え方で生活してみたらきっとラクになりますよ」ということをただ教えるだけの話である。

たったそれだけのことを言うために、まずその中心人物の周りを大勢の人で固めてなかなか会えなようにしてある。

そのうえ高い講習料を払ってやっと行くものだから、ある種の人は発達段階の「ある時期」においてこれが非常に助けになるのである。

ただ付け加えておくと、助けになっている内が花であって、やがて気がつくとそのことが大変な重荷になっていることもあるから要注意なのである。

何であれ、その「ある時期」がせいぜい20~30代くらいまでならいいが、中年を過ぎて初老に至ろうかという人までが自分以外の他にすがろうとしていたり、自立していたかと思う人が不意にある種の教義に取りつかれたりするのは、年齢とは裏腹に自我の発達が不充分であったと考えねばならない。

そういう人にとって野口整体というのも一種のまばゆい光として映るのも無理はないのである。

しかし実際はそうではない。

この世のことを延々と突き詰めていくと、結局最後は当り前のことしか起こらないのである。

そういう点で「悟り」とよく似ている。

「悟ったら」と思っていた世界と実際に「悟った後」で出てきた世界というのは大変な食い違いがあるのが常である。

その食い違いによって感涙にむせぶ人もあるかと思えば、ばかばかしいと思って歯牙にもかけない人もいるのだ。

何にせよ、「すごいもの」をずっと探し続けていると、最後の着地点というのはやはり一つしかないのである。

昔から言われているように、天上にきらめく星月に目が眩んで、掌中の珠を失ってはいけない。

自分にとって最も身近な、抜き差しならないものに着眼を正す意外に絶対の救いは無いのである。

人のことはどうであれ、何より自分が眩まされないことなのだが、引きずられないようにわざわざこんなことを書いているのかもしれない。

惺惺著。

喏。