聖にあらず、俗にもあらず

野口整体というのは奇想の健康哲学だと思われるフシがある。

しかし、少し落ち着いた心でその本質を見つめてみれば、きわめて順当な生命観であることがわかるはずだ。

釈迦の悟りも達磨の廓然無聖も、俗を離れて聖を説くようなものではない。

俗世の真っただ中に聖を見出し、その瞬間にいずれも忘じて無を徹見した境をあらわしている。

病気が治ったから健康なのではない。病気の中にすでに健康の動きがある。

古人は既にこれを天行健と表したが、天行健もまた知識ではない。

自らの体験によって獲得しなければ、いかに真理といえど真理たり得ず。冷暖自知の心を知り、自らの体験を超える世界は何処にもないことを知るべきである。

身体即世界である。

身体(からだ)、それはつまり、空(から)だ。

もとより聖にあらず、俗にもあらず。

身心自然に整えば、霧は晴れ、最初に見ていた世界が現前する。

迷ったのは世界ではない。

自分自身である。

物を追うことを止め、直ちに身を整える可し。

これこそが聖俗を超え、真理に目覚める妙法である。

坐禅・活元運動の会 2018.5.10

今日は坐禅・活元会でした。

いつもと変わらず、脊髄行氣10分、坐禅45分2炷、活元運動45分、仕上げにもう一度脊髄行氣の流れです。

活元運動をする人は老いて死ぬ時にも寝込まない、苦しまないといいます。

自分が活元運動をはじめた青年期には何とも消極的な健康法だと思ったものですが、不惑の年になってみたらこんな素晴らしい修養法はないだろうと認識を改めた。

死ぬ時にジタバタしない、ということはそれだけ「よく生きた」ということ。

今生でやり残しがないということ、自分の全部を使い尽くした、とそういうことです。

そのために無意識の扉を開き、裡の要求を明らめるための坐禅と活元運動を行なっています。

整体とは生活の中に〈たましい〉が現れるようにと祈る、生に対する敬虔な態度である。

人はふとした時に日常の惰性に流され、生命に対する礼を忘れてしまう。

そんな時に意識の活動水準をさげて無意識に耳を傾けることで、生命に対する畏れの念を思い出す。

〈いのち〉に畏れを抱く人は、今日を慎ましく丁寧に生きる。

今日を丁寧に生きる人は、きっと豊かな死を迎える、と思う。

整体とは〈いのち〉に対する学びである。

弱い人はいない

生命は本来丈夫である。

人によっては自分で自分を「か細い」なんて言うこともあるけれど、それは自分でか細く見せているだけで実際に「か細いいのち」というものはない。

もとはみんな丈夫だった。丈夫だったものがいつの間にか「自分は弱い」と思い込んだのである。

問い合わせでも「子供の頃から体が弱くて‥」と書いて送ってくださる方がいるけれども、実はそういうところは最初から信じないし見ないことにしている。

こちらとしては、弱いとうっかり思い込んだのはいつからなのか、誰にそうさせられたのか、が知りたい。

勘違いに陥った地点までさかのぼって、誤解に気づけばもうその時から健康で丈夫な生活がはじまっている。

病気も丈夫のはたらきだし、丈夫で健康に生きているから病気もしているのだ。

このあたりは知識を通りこして体感的に理解するところだが、ここを自得するだけでも年月のかかる人はかかる。整体に生きる、ということを志すなら初関とも言える大切なところである。

全般に高齢になるほど既成の価値観を払拭するのに難渋するけれども、若く見えても先入した観念に頭を占拠され、真理を目の前にしてもそれを受け入れられない人がいる。

昨日のお茶でいっぱいになった茶碗の如く、そういう頭には今日の清らかな水の入る余地はない。

こういう人は生理学的には若いかもしれないが、それだけ老いて死に近づいているのだ。

しかしそういう頭でも利口になることは可能である。

体中の筋をみんなゆるめて、顕在意識の運転を休止させればいい。

「ポカンとする」とはこういうことなのだが、古くなって死にかけているような人がその価値を本当に理解するには、思考の限界性と危険性をよく理解する必要がある。

最近はもっぱら頭を使うための訓練ばかりをどこでもここでも教えているが、休め方を教える人は少ない。そういうものは、さしてウケないのだろう。

あるいは教えていても首から下の生理的働きを無視した方法を平気で教えていたりする。

そもそもが頭脳だけを身体から切り離してコントロールすることに土台無理があるのだ。

本当に頭の働きを変えるには正しい身体智から出発しなければ、永久にゴールには辿り着けない。

釈迦も達磨も禅による救いを体現したが、身体の生理的プロセスに関する記録は乏しい。

その辺りは身心学道を説いた道元の普勧坐禅儀に少し言及されているけれども、言葉のみで万人の個人差に対応するには心もとないものである。

整体の必要を説くのはそのためなのだ。

整体とは「道を為すは日に損す」と言った老子のように、日々頭の中を空にするための訓練である。

自分の弱さを掴んでこれを何とか強くしようとしているうちは丈夫にはならない。

悟りとはある意味、勘違いを打ち消すことなのだ。

道はただ一つ、身体をよく整えること、これに尽きるのである。

竿頭進歩

野口整体は「整体になる」ということが一応の目標だが、整体になるという完成が本当にあるかというと、やっぱりこれはあってないに等しい

あるけれども、ない

整体操法によって整体になる、といえば聞こえはいいけれどその実なにをやっているかと言えば、日常的に作られる「偏り疲労」を解消させるために身体をある方向に刺戟している

その刺激はいわば内的秩序をおびやかす、外界からの闖入者なのだ

もう少しくだいて言えば、内的身体を整えるために他者が乱している

つまり「毒」のような役割をしている

これによって全身の平衡要求が煥発され、活きた気が働いて整う方向へ動き出すのである

メカニズムはこのようだが操法がピタッと決まれば、これは大変心地よくカラッポになって清々しい心境を味わうこともしばしばである

ところがこれでめでたし、終わりかと言うと、なかなか物事はそう上手くはいかない

整ったものをキープするためには、その人なりに「心得るべき点」と言うものがある

これにちなんで、無門関 第四十六則に「竿頭進歩」という経論がある

まずある和尚が言う

「百尺(約31メートル)の竹竿(たけざお)のテッペンにいるとする、ここからどのようにしてさらに一歩進めるか」

また別の和尚がかぶせて次のように言う

「このテッペンにある人(いわゆる禅の極致≒悟った人)は確かに立派なものだがまだ本物とは言えない。何故か。それは〈悟り〉に掴まって、かえって囚われているからである。そこからもう一歩踏み出れば、本の木阿弥の世界に落っこちて本来の自由自在の姿を現すだろう」

さらに続く後半は割愛するけれども、何を言いたいのかといえば「整った」ということにこだわったらそれもまた偏りの因(もと)なのである

人間は絶えず何かしている、そういう何か、仕業をやめたときにはじめて拓ける地平というものがある

これに近いところを臨済禅師は「無位の真人」と表現しているけれども、何にもない「無垢である」ということはどういうことかをよく考えねばならない

整った、でもまた偏るのである

その整ったり偏ったりしている「はたらき」の中に、既に見えない秩序が働いているのである

こういう生命原理とでもいうものに信を養っていくことを本当の養生というのだ

また別の視点から考えれば「整う」という現象に際限はないのである

竿頭進歩と言うのも、むしろこちらの方が解り易いかもしれない

完成の中にも未完を見出し、さらにもう一歩進む

自己の完成に向けて、未完の身体を投げ出してまっさらで生きる人を育てたい

そういう願心をもって、自分の垢を削ぐ日々である

健康までの距離

最近は仕事の合間に岩波文庫の『無門関』をめくっていることが多い

もとはといえば大学生の時に手塚治虫の『ブッダ』を読んでから禅に興味を持ち始め、以来新旧問わず関連書籍に目を通すのが習慣になっている

禅は言葉ではない(不立文字)と謳っておきながら、現代は禅関連の出版物がもっとも多いというパラドックスにあるそうである

理由を説明すると、文章や言葉では絶対に禅の核心にはぶち当たらないので、核心の周辺を取り巻く説明文がいくらでも書けるのだ

例えば「カレー」というものを言葉で説明するにしたって、「液状で‥」、「辛くって‥」、「でも辛くないのもあって」・・とやっていったらいくらでも言葉は湧いてくる

そこでカレーの本を100冊読んだって絶対にカレーの味はしないのだが、実物を食べてしまえば「ああなんだ、これのことか」で決着してしまう

ところが「禅」とか「悟り」とかいわれるものは実体があってないものだから、自分が既に悟りの真っただ中に居ることに決着しないかぎりいつまでも他人の言葉に踊らされるのである

しかしよく考えれば「健康」とか「丈夫」、「元気」なんていうものもそういうものではないかと思う

健康になることを考えている間は自分の中に息づいている健康に気づかない

今間違いなく生きているのに自在にならないのは、こういう風に出来上がった無数の観念のツルで自分を雁字搦めにしているからである

よく「常識を疑え、捨てろ」というが、本来は捨てるものなど無いことに気づくのが道である

厄介なのは「無いことに気づく」とその瞬間には、「何にも無いという〈こと〉」を自動的に拾ってしまっているので、そういう追っかけている自分自身を落として落として、落とし続ける

その過程に在る絶対の現在が「修行」という名の未完成の完成である

『無門関』の経論にも「終わりはない、終わってしまったらオシマイだ」という内容が繰り返し出てくる

誰のためでもない自分のために読んでいるのだが、野口整体の道に入ったときから「衆生済度」は永遠の誓願である

そういう難しい道だからって遠くから眺めて怖がってたってしょうがない、非力なら非力のまま、生身なら生身のまんまでやるしかないんじゃないか

そういう無謀な気になれるので最近はもっぱら座右の書になっている

坐禅・活元会 2018.4.28

今日は坐禅・活元会でした。

坐禅は安楽の法門と言われています。

坐禅をして「悟ったら」楽になる、という話ではなくて「禅」というものが既に全人類を救っている、という意味です。

自分がこれに気づくための方便が「修行」です。

そして「坐」という修行法が多くの方にとって親しみやすい形なので現代まで残ってきた、ということでしょう。

ただし、坐禅だけでは身体がコチコチになってしまう人がいます。

またもともと凝りのひどい人や関節の堅い方などは苦しいものがあります。

ですからうちでは坐りの形にはそこまで固執しません。

無理なくピタッとできる自然な坐相を取っていただければそれで結構です。

今日は45分の坐禅を2回、それから活元運動を行ないました。

生きているとなかなか悩みはつきないものですが、考え方を離れて事実に触れるときっと楽になるはずです。

来月は下の日程で2回行なう予定です。

5月10日(木)10:00-13:00

5月26日(土)10:00-13:00

ご参加を希望される方は各開催日の前々日までに、メールフォームよりお申し込みください。

退路なき現在

昨日の記事を読むといかにも宗教を軽視しているようにも見えるが、私は宗教は尊いと思っている。

ただ宗教の定義がそもそも曖昧だし、現行のそれの多くが特定のドグマを擁立するだけの集団になっていることは残念だと思う。

だいたい捉われを捨てることが目的であるはずなのに、宗教活動をしている人の方が案外執らわれていたりするから妙である。これではむしろ執教的と言わざるを得ない。

無論宗教法人ばかりがドグマを有しているわけではない。

現代は大小高低さまざまな思想が横行している。

しかし人生上の苦境において思想でどうにかなるようなものは一つもない。仮にあったとしても、その思想に力を与えるのは自身の信念や気力なのである。

だから平素から「野口整体なら治るのではないかと‥」お問い合わせをいただくが、つまるところは「あなたが治りたいか治りたくないか」が焦点になる。

実際のところ俗にいう「ノグチセイタイ」などはもはやどうでもいい。そういう依りかかりの対象になりそうな全てのものをぶち壊して、裸の力で前進することが野口の説いた内容である。

結局自分を守ろうとするから弱くなる。

守ってくれたり、救ってくれるようなものなど何処にもないということが早くわかることが何より救いになるということなのだ。

そういう、最初に自立した人がその上で修行を積むことが、真の養生である。

何ごとも頼ったり頼られたりする関係に甘んじて、どうにかなっている内は花である。

『無門関』の第一則にも、「妙悟は心路を窮めて絶せんことを要す」とある。

できるだけ早い段階で「どうにもならない事態」に直面し、自ら心路を絶することが自分を救う唯一の道なのだ。

事態が窮しているのに自分が窮することを先送りするのは得策とは言えない。

死中に活を見出すことだけが自分を逞しくし、道を切り開いてくれるのである。

もとより退路など何処にも無く、活路も無用である。

それが〔今〕なのだ。

すごいもの病

野口整体を看板に掲げている関係で、「大きな期待感」を持ってうちに来られる人は割り合い多いと思う。

もう5~6年前のことになるが、ある男性が腰を痛めて来院された。だいたいの腰痛はしばらく手を当てながら待っていると良くなっていくものだから、治ったからといって驚くようなことは何もないのである。

ただそうやって話を聞いていたら、その方はいろいろな「すごいもの」を遍歴していることが判ってきた。

よくありがちなのは、野口整体の愉気に目を付けるような方はレイキヒーリングもやっていたりする。そして講習に出て資格を取られたりしている。

でもそういう人が野口整体にも来られるのである。

その方もレイキをやられているし、まだ話を聞いてみるとスピリチュアル関連の占い師のところにも通っていたと言う。

それからナントカという行者のところで「特別な」瞑想も習ったことがあるし、ロルフィングの講習会にも出ていた。

そうやって、ずーっと「何か」をやられている。

やっていることの実体としては、自分というものの不全感を解消してくれる「何か」をずっと探しているのだ。

半世紀前ならこれは「宗教」の領分であった。

ところが自然科学の台頭によって大半の宗教は力を失っているから、今度はその後釜としてスピリチュアリズムとか民間療法がむりやり当て込まれているのが日本の現状なのだろう。

具体的に言うと難病なんかに罹った場合に、まず病院には行くけれども処置に不安があると次は食事療法をやったり、〇〇整体にいったりする、という構図だ。

これはある種の思想に頼ることで守ってもらおうという幼児的な願望の延長なのである。

現行の「宗教」と呼ばれているようなものも、だいたいはそういう「思想に堕ちてしまった」ものが多い。

つまり「こういう考え方で生活してみたらきっとラクになりますよ」ということをただ教えるだけの話である。

たったそれだけのことを言うために、まずその中心人物の周りを大勢の人で固めてなかなか会えなようにしてある。

そのうえ高い講習料を払ってやっと行くものだから、ある種の人は発達段階の「ある時期」においてこれが非常に助けになるのである。

ただ付け加えておくと、助けになっている内が花であって、やがて気がつくとそのことが大変な重荷になっていることもあるから要注意なのである。

何であれ、その「ある時期」がせいぜい20~30代くらいまでならいいが、中年を過ぎて初老に至ろうかという人までが自分以外の他にすがろうとしていたり、自立していたかと思う人が不意にある種の教義に取りつかれたりするのは、年齢とは裏腹に自我の発達が不充分であったと考えねばならない。

そういう人にとって野口整体というのも一種のまばゆい光として映るのも無理はないのである。

しかし実際はそうではない。

この世のことを延々と突き詰めていくと、結局最後は当り前のことしか起こらないのである。

そういう点で「悟り」とよく似ている。

「悟ったら」と思っていた世界と実際に「悟った後」で出てきた世界というのは大変な食い違いがあるのが常である。

その食い違いによって感涙にむせぶ人もあるかと思えば、ばかばかしいと思って歯牙にもかけない人もいるのだ。

何にせよ、「すごいもの」をずっと探し続けていると、最後の着地点というのはやはり一つしかないのである。

昔から言われているように、天上にきらめく星月に目が眩んで、掌中の珠を失ってはいけない。

自分にとって最も身近な、抜き差しならないものに着眼を正す意外に絶対の救いは無いのである。

人のことはどうであれ、何より自分が眩まされないことなのだが、引きずられないようにわざわざこんなことを書いているのかもしれない。

惺惺著。

喏。

活元運動のコツ「雑念について」:ポカンとできない、ポカンってどういうこと?3

問(60) 坐禅中雑念が次々と出てきてどうしようもない時がありますが、そういう坐禅でも宜しいのですか。また雑念とはどういうものですか。

答 うんそれで良いのです。それが今の様に、皆雑念、雑念というて、自分で考え過ぎているのです。教えられたものを、出てくると直ぐそう思うのです。それが雑念なんです。

…<中略>…一寸出ると、アアこれが煩悩じやというて、そういう考えを以て取り扱う。そしてそれを無くしよう、無くしようと思うから、それで間違うのです。(井上義衍著『玄魯随聞記』龍泉寺参禅道場発行 p.77 太字は引用者)

さて、さらに昨日から引きつづきである。「雑念について」。ちょっとくどいかもしれないけど‥。

活元運動は「あたまの中をポカンとして自然の動きにまかせる、それだけでよい」ということになっている。

そのポカンが誤解されやすく「なかなかポカンとなれません」とマジメにがんばる方がいるので、「もっといいかげんでいいですよ」というアドバイスをすることもままあるのだ。

上の引用は坐禅の話なので方法論がことなるが、まあ大事なところは共通している。

つまり、いわゆる雑念だとか、煩悩だとかいうものは放っておけばいい、という。

ここでまた「放っておく」と聞くと、「放っておこう」とがんばる人もいるのだが‥。

ただしこういうことも言える。

坐禅と活元運動の両方を経験した立場からいうと、精神状態は微妙にことなる。

活元運動のほうは個人のからだの特性や状況、疲労度合に合わせて適度な運動がでるので、自分の体験としては統一状態、というか良い気分に入り込みやすい。

いや活元運動の優性を説いているわけではなく、坐禅の場合は生活全体が禅という態度で行われないと、一般の方が趣味的に行っているだけでは意識が静まりにくいと思うのだ。

もう一つには「活元運動が出ない」とか、「いろいろ考えてしまいます」というひとは、そもそもがあまり回数をこなしていない初心者の方が圧倒的に多い。

ひとつには「慣れ」、なのである。

だからまあ、いろいろ考えているよりも繰り返し活元会に参加して、意識も身体も気持ち良くとけてなくなっていくような感覚をあじわってほしい。

だいたい4~5回もやれば、動きもこなれてくる。

興味のないひとにまで教えることは非常にむずかしいので、そんなことまではしないけど、活元運動は覚えておくと本当に便利なのだ。

便利というか、本来なら必須のものと思っている。

だいたい月に一回か二回、活元会で行うとして、それを一年くらいつづければからだの調整機能は安定するし、意識が騒がしいひとならだんだん落ち着いてくる。必要なときに運動が出るようにもなっているだろう。

きっとそのころには雑念とかポカンとか、そういうことも忘れていると思う。整体というものはあたまの勉強だけでは不充分で、環境とか場の雰囲気にひたることで少しずつからだに馴染んでくるものだ。

やり方さえ教わったら、あとは気の向くときにどんどんやっていって欲しい。1年もするころにはいろいろな恩恵にあずかれるはずだ。

こわすときは一瞬、治るのはゆっくりゆっくり

整体の知見と世間のそれはさまざま面において異なる。その一つ一つをあげて説明していったらゆうに1年は講座が組めるくらいの面白さだが、その中でもつねづね思うのは「打撲」に対する見解の相違だろう。

打撲は恐ろしいのだ。一般的にはゴチッと打って「痛い‥」とうずくまって、しばらくして痛みが治まったら、もう大体いいんだろうと思われがちだ。しかし身体を丁寧に観ると打ったところとその周辺には何か動きが制限されているような、そこだけ時間が止まったような印象が残される。期間的には年単位、あるいは何十年とそのまま放置されることも珍しくない。

場合によっては打ってから、だいぶ経って患部からずっと離れたところに変動が出たりもするし、まあとにかく生きた身体に対する観察眼というか、見慣れた人にとっては容易に見つかる変動だけれども、何しろCTとかレントゲンには写らないので打撲が契機となっての体調不良というのは一般医療の死角になりやすいのではないか。

「どうやったらそういう古い打撲の跡は治るんですか?」というのが次なる関心の焦点だが、これは‥いろいろな代替療法があるので、「対応法は無限にある」というのが正解だろう。しかし、国内外のいろいろな民間療法を受けてきたような人を受け持つことがあるけれども、こういった打撲様の古傷に関しては整体法の独壇場ではないかと思うことがある。まあ実際世の中は広いし、「知らない」だけですばらしい治療者はたくさんいる。うかつなことは言ったらいけないけれども、整体法が古傷に関して一定に有効だというのは間違いない。

例えば整体以外では、骨とか関節にショックが残っているのは、再度同じ様な力を反対にかけて正規の位置に戻す、という考え方がある。つまり右に曲がったものを左に曲げ戻す的な発想。ところがこういう系統のものはほとんど功を奏さない。メカニズムを細かに説明できないけれど、人間の身体というのはもの(無機物)ではない。過剰なストレスがかかるとこわれる、という点ではものと同じだけれども、生きた身体というのは時間とともに治る方向へ動く。ここが違う。

そしてこの「治る」という構造についていえば、早く治そうとしても治らない、ということは知っておかねばならない。こわすときは本当に一瞬である。あっという間に致命傷までいきかねないのに対して、治るというはいつだって中庸の速度。丁度いい具合に治っていく。

ところがこの中庸は、人間が焦るとすごくノロく感じる。相対的な問題なのだけれども、人間が早く早くと焦れているとものすごく遅く感じるものだ。ところが本人も忘れていてふわーっとしていると、知らない間に治っている。そういう性質なのである。打撲はこの自然治癒が滞りやすいので、他者が気を集めて手を当てることで治り始まったりする、という話なんだけど。

まあそれにしても、そうやって治癒を手伝っていったとしても、古い打撲の経過というのは焦ってやろうとしてもむずかしい。首とか膝とか、そういう可動域の大きな関節周辺の怪我ならなおさら強い力は使えないし、じっと手に気を集めて触れながら看ていく。そういう方法が安全で、なおかつ効果が得られやすい、と思う。

いわゆる野口整体の愉気法だけれども、愉気をすることで古傷が痛みだしたり、その場所に汗をかくようになったり、お風呂に入ったらじんじんしたり、というような「反応」が現れやすい。こうなると時間が止まっていたところが動きはじめて、治りはじめたと考えていい。ようやく自然経過のはじまりである。

愉気のコツの一つは焦らないこと。ずーっと見守るように触れて観ていく。そうすると少しずつ秩序にならって、精緻に変化していく身体を愉しみながら観ることができる。こういうことをしばらくやってみると、身体を粗雑に使ってズバッとこわすようなことに対して嫌悪感が育ってくる。他人の身体でもそういう粗末な使い方は嫌だなと思うようになるのだが、いのちを大事にすることに関して、「自分」も「他人」もあったもんではない。

そう、いのちは大事。いうまでもないけれども。だが恐ろしいことに現代はのべつ幕なしに生命が軽んぜられている。そういう、生命に対する礼のない人は整体とも縁のない人。最近はそんな風に思う。こわすのは個人の意思でどうとでもなる、それもほんの一瞬。でも治るのは、大自然の恩恵によって刻々と確かな秩序の範囲の中でしか治らない。

それでも、どんなに愚かな身体の使い方をしてこわしても、いのちのある間は治していただけるのだからありがたいね。この世は本来、大道無門。だけれども、自分のいのちに対してこうべを垂れることのない人は、その門をくぐることができない。自分で敷居を高くして、自分で門に鍵をかける。当世は本当に変わった人々が多い、と感ずる次第である。