元気の法則

ここ数ヶ月ばかり指導者としての元気を欠いていた気がする。

元気と言ってわるければ奮える気持ち、とでも言ったらいいだろうか。だれもわるいとか言ってないが…。

まあ兎角、心が論理性に偏っているとき「氣」は間違いなくナマクラになっている。振り返れば最近は「お勉強」が過ぎた感があった。

かといって気迫や気組みに頼った押しの一手に偏ると、相手の細やかな反応に気がつかずゴリ押しのお仕着せ療法に陥り失策する。

大体において、理論(冷静さ)か情熱かの間を行ったり来たりして揺れながら、弁証法的に進歩するのが「指導者」というものではないだろうか。

しかしながら自他の生命を根底から揺り動かすのはやはり、理屈ではなく熱であり勢いなのだ。

例えば、回転するコマがそうである。

旧来の西洋医療はまず止まったコマを分解して、その静止した形の構造的理解(死体解剖)から始まり、この形ならよく廻るだろう、これではすぐ倒れるだろうとやって、分析から得られた膨大な情報からコマをよく「知り」、それとは別のコマを上手く廻そうとする(演繹法)。

一方、整体というのはまさに今眼前に廻っているコマに肉薄し、ぴしりぴしりとはたいてひたすら回転力の維持(ときに増加)を期するものだ。

本来コマを廻す技術は、物理学的な理解もさることながら、実際に廻してみることでトライアンドエラーを繰り返し、「こうすれば勢いよく廻り続ける」という法則を体験的に理解するのが近道である(帰納法)。

だから生命を扱うものは知識以前の勘が大事であり、その勘がよく働くためには治療者は身心共にいつでも活気で満ちていなければならない。

当然のことながら、彼に勢いを伝達するためには我にも勢いが要るのだ。

これが枯渇していては、技が生きない。

面白いもので、物理の世界ではこちらの運動エネルギーをあちらに伝えると失われるが、生きた人間同士の場合、勢いを伝え合った者は供に力が増加する。

実際問題、人間の世の中を冷静に見渡してみると、支えているつもりが支えられている、という構図は市井の到る所に見受けられる。

例えば、被災地へボランティア活動に行った人が「被災された方々から逆にパワーを貰いました」などという話がそれで、癒すことを通じて自分が癒される、ということは本当によくあるのだ。

こんな風に、物質的なエネルギーは使えば減るが、目に見えない氣は発すると何処かで共振し、増加して返ってくる。

だからよく手を取り合って頑張ろう、というが、手は取り合うよりもお互いのキズにそっと当て合う方がむしろ世界は活性化するのではないかと思っている。

気がつけば自分もお会いする方々から日々パワーを貰って今日があるのだ。元気というのは得体が知れないが、これを上手に使いこなす方法は人生の早い段階で体得した方がきっともっとブ厚く生きられるだろう。

生命エネルギーというのは元より無尽蔵なのだ。その無限の気力を引っ張り出すのは自身の裡なる「要求」である。意識に偏っている間は本来の「自分」に出会う日は来ない。

もしも自分の勢いが落ちたと感じたら、意識を一度「意識的」に閉じて、無心に訊く。これが元気を活かす法則だと思う。