フランクル『夜と霧』

ようやくフランクルの『夜と霧』を読んだ。

知らない方もいると思うので一応概要を書いておくと、これは一人の心理学者(医師)によるナチス強制収容所の体験記である。そしてそこから醸成された人間心理に対する一大省察によって全章が結ばれている。

ちなみに『夜と霧』というタイトルは日本の翻訳者の手によるもので(なんという名訳‥)、原題は『強制収容所における一心理学者の体験』というものだそう。

最近では東日本大震災の折に被災された地域の方々にも多く読まれたらしい。生死の際から奇跡的に生還した人の体験記録が、静かでありながらも力強いこころの灯になったのかもしれない。

当然ながらかなり深刻な内容だが「高校生の時に読んだ」なんていう方も結構な割合でいるみたいで、40過ぎてから手にした自分に向かって「今さらですか‥」と思ったりなんだり‥。

まあとにかく、人間の心理、というか「人」に直接たずさわる職業についている人ならば、できるだけ早い段階で読んだ方がいいなと思った。

何しろ人類史上最悪級と言われる境遇の中で、「普通の人々」がどのように変貌し、いかに振舞ったかという貴重な、本当に貴重な体験記録なのだ。

本書にちなんでいろんなことが書けそうだが、何よりもまだ読んだことがない方には是非読んでください、と言いたい。

読みながら終始いろんなことを考えたので、所感についてはまた改めて書いてみようと思う。ひとまず今日はここまでで。

病気はからだの自然良能

2003年に『風邪の効用』がちくま文庫に入ってから今年ですでに17年経っている。

10年ひと昔という言葉に照らせばもうふた昔は前になろうかという話だが、当時は大手書店では平済みの状態が続き、まあまあのセンセーションをもたらしたようである。そこから比べれば「野口整体ブーム」も今はやや小康状態になったとみるべきだろうか。

それにしても野口先生の存命中は「病症が身体を整えている」というだけで、かなりのトンデモ説として非難されたそうである。

考えてみれば往時の日本はペニシリンやストマイを西洋から流入したおかげでようやく死病を克服できそうだと安堵していたさ中であった。

一見すると高度な合理性を提示する科学的医療の威力に目がくらみ、これこそが絶対的な善として信じ込んでいる人が大半の時代だったのだ。

その時にいち早くその限界性と問題点を指摘した慧眼は、もっともっと高く評価されるべきだと思う(この際評価などどうでもいいかもしれないが‥)。

現代はそこからまた少し科学の方が進んだので、例えば熱が出るとその熱で症状を引き起こしている病原菌が死滅するのだ、という解釈も所を選べばそれなりに受け入れられるようにはなってきた。

ただ注意がいるのは「病菌さえなくなればいいのだ」という見方に引っかかると、やはりそれは善悪の二元対立の世界に留まることになってしまうことだ。そうであるうちはどうしても是非善悪に苦悩する自我が取り切れない。

病菌自体の存在も地球規模というか、宇宙的視野でとらえようとすると、善も悪もない「ただそのようにある」という一大活動体の一部を切り出して見ているだけである。

だから苦しければ苦しい、痛ければ痛い、というそのことで終わっておけば、それも宇宙全体の健やかな動きとして自得できるときが来るのかもしれない。

科学を基盤とする近代的な価値基準に生きる人たちに対して、ある種のコスモロジーの転換を迫ろうとするのが野口晴哉の説いた整体法という世界だと、私はそうとらえている。

このような視点は別に真新しいものでもなく、とりわけ東洋ではおなじみ、といえばおなじみで、例えば禅という世界がまず一つそうだし、易の天行健もはるか昔から同じことを言っている。

是非、善悪、上下、苦楽といった対立概念はよくみればみな個人の裁量に過ぎないのである。そして同じ人でも昨日と今日ではもう変わってしまう。

そういう不確実な思惟や思索をもとに世界を理解し、コントロールしようとあくせくするより、「ただそのようにある」実態のほうに自分のいのちをそっくり浮かべて漂うな気持ちになってみたらどうであろうか。

親鸞がやったのはそれである。

もしも「唯一絶対」というものがこの世にあるとすれば、それは今こうして展開する「いのち」だけなのだ。

そこに信を置けるようになるまで自己を鍛錬しようというのが整体法の説こうとした道である。易経の自彊不息も同じで、そういう精進のありかたを一語で示している。

せっかくこうして整体法に触れるのだったら、しっかりとパラダイムシフトをしてその髄を味うべきだ。

病気はからだの自然良能である。

その病気も宇宙の健全な運行のいち側面である。

健全な動きの中にある一つの姿を人間が切り出して、その都度「良い」とか「悪い」とか言っているにすぎない。

そういう観点で『風邪の効用』にもう一度目を通していくと、整体法はもとからブーム足り得るようなものではなく、事実に即した覆しようにない生命観であり古今不易のものであることが実感できると思う。

とりわけ巻末の「愉気について」は圧巻で、風邪やその他の病名に拘泥して、不安に駆られたままあくせく治そうとするのではなく、先ず「病気しているその心を正す」ことが肝要であると説いている。

この辺りのところが本当に真髄といっていいのかもしれない。

ただしここからが難しいのだが、これをさらっと信じられる人と、どうにも受け入れられない人がいる。

後者のような人を「常識が豊かな人」というのだが、実のところこういう人たちのおかげで整体がこの世に生まれたと言えなくもない。

よくよく考えれば教義というのは「受け入れられない人」がいるからその存在価値もあるわけで、みんなが「そうだ」と信じていたら、今さら改めて説く必要もない。

キリスト教も仏教もいつまでもなくならないのは、その愛も慈悲も悟りもなかなか実現しないからに他ならない。

そういう世の中を「健全」に生きていくために、己の身体の感覚に問いかけながら一歩一歩あゆんでいこう、と野口整体は言っているように思う。

『整体入門』も『風邪の効用』も一般書の中に紛れ込んでいるのでうっかりすると見過ごしてしまいそうだが、その内容は教育、医療、宗教を分け隔てすることなく人間を全一的に導くための示唆に富んでおりその功徳は計り知れない。

折に触れて読むといつも偏りかけた自分の心の姿勢を正される気がする。これが本当の整体法なのだろう。

私と“それ”

久しぶりに河合隼雄の『こころの読書教室』を読み返した。

本を読むと「こころ」にとってこんなにいいことがある、だから是非みなさん、もっと本を読んでくださいという本である。

この前書いたファンタジーが生まれるためにはどうのこうの…というのはどうもここに元ネタがあったような気がする。

全体で四部から構成されている本書の第一部が「私と“それ”」という見出しから始まるのだ。

“それ”というのはフロイトが用いた無意識を指す言葉「es」に相当するもので、日本語に訳すと文字通り「それ」に該当するそうだ。

私たちが普段的に「わたし、わたし…」と言っているとき、それはこころの全体の中のごく一部分である「自我(ego)」のことを表している場合が多い。

その自我の領域内から承認を得られず排斥されたこころの働き(受け入れがたい感情など)が“それ”の中にはたくさん貯蔵されているという考え方をまずフロイトが打ち出した。

いわゆるノイローゼ、というのは普段固く閉ざされているはずの“それ”(無意識)の扉がふいに開いてしまい、自我の安定性がおびやかされている状態だと考えられている。

こうなってしまうと本人も日常生活がままならなくなるし、周囲もその病状に巻き込まれて様々な苦労を強いられることが多い。

そうなると当然本人も周囲も、「こころの病気だから一日も早く元の安定した状態へ治したい」と考えやすい。

ところがユング派に至ってから無意識に対する見方が変わってきて、むしろこの状態こそがこころに具わっている補償的な動きではないかと考えるようになった。

つまりこのような煩悶自体が何らかの「治癒」的な働きであると仮定し、「早く治そう」とは考えずに、むしろいかにこの時期を「創造的に」過ごすかということに注力するのである。

ノイローゼや鬱と言われる状態はときに命を脅かすこともある。これらの病症だけにフォーカスすると、こころの中の無意識という領域は何を引き起こすかわからない恐ろしいブラックボックスにしか見えない。

しかしながらそこをもう少し視野を広げて巨視的に見ていくと、こうした煩悶の時期をじっくり経過したことで非常に安定的且つ個性的な人格を形成していくケースが少なくないのである。言ってみれば、無意識はその人の人生全体においては想定外の実りをもたらすトレジャーボックスにも成り得るのである。

この場合、何が良いか悪いかというのは見る人の主観にゆだねられると思っていいだろう。古くから「万事塞翁が馬」などというように、一見して不幸にしか見えないような体験でも、それを中長期的にじーっと見ていく習慣が身に付くと、思わぬ「好転」につながっていくような事象は少なくないのである。そう考えてみると、どのような事でもうかつに幸・不幸などと断定的な物言いはしずらくなるものである。

何にせよ、こころの深奥には我々の意識でははかり知れない「何らかの創造性」が内包されているいう仮説はそうそう否定はできないだろう。

「病の創造性」ともいわれるこうした側面はもとを辿ればアンリ・エレンベルガーという一人の精神科医による着想まで遡るの。個人の病症体験に「ある種」の有益性を見い出そうとするこのような見方は実は整体法(野口整体)とも親和性が高いのだ。

整体法とは生命に対する堅固な信頼から生まれたもので、後天的な訓練によって健康を増進するような類のものではなく、いかにして「いのち」に元から具わる力と可能性を喚起させるかがテーマなのである。

無意識というのは換言すれば身体そのものである。その中でも生命活動の根本を担う中枢神経系(脊椎)を観察することで、“それ”の動きや訴えが如実に現れていることが解る。

野口晴哉先生が「(人間は)背中がオモテである」と言ったのはこのような事情によるもので、整体指導とは言わば“それ”の力を開放するために身体を通じて無意識の訴えを訊くのが主眼である。

ついでに言えば「治療」というのは浅い深いがあるものと思う。それらを最終的なところまで煎じ詰めていくと、「私と“それ”」の関係性を如何に調停するか、というのが根源になるのではないだろうか。

このような回答に至るまでなかなかの時間と体験を有したが、河合さんの本にはずいぶん助けられたように思う。本書の有益性を上げていくときりがなくなりそうだが、そういう訳でやはりみなさんにもお勧めしたい一冊なのだ。

ファンタジーの生まれるところ

いきおい子供向けの映画シンカリオンに辛い評価をしてしまったが、そもそも商業ベースのアニメというのはこのぐらいで合格点なのかもしれない。

あとで調べてみるとテレビ放映も打ち切りという形で終わってしまったらしいので、それから頑張って映画をやりまっしょうと言っても、モチベーションから何からクオリティを保つのは難しかったと予想される。

いや、シンカリオンは太郎丸がアマゾンプライムで観ているのを横で観ていて、ところどころ「よくできているなぁ」と思っていたのだ。それだけにもったいなくも感じた次第である。

もとより利益を最優先に大所帯で作っていく映画と、一人の作家が死にかけながら生み出していく物語はまったく別物と思うべきかもしれない。エヴァなんかはこの二つを絶妙なラインで両立してきた稀有な例と見るべきか。

ところで最近手に取った『三つの鏡』という本の中に、ファンタジー作家のミヒャエル・エンデと心理療法家である河合隼雄先生の対談が収められている。その中で「ファンタジー」ということについて興味深いかたちで言及されている箇所があったので以下に引用する。

河合 意味を与えるというのはファンタジーですよね。

エンデ その通りです。で、その場合、批判するつもりはありませんが、私は日本のファンタジー作家と呼ばれている人たちと、何人か知り合いました。その印象でいうと、ファンタジーと言うにはちょっと軽率で、ただの作り物、愉快な遊びに過ぎないような事柄をファンタジーと言ってしまっている。「楽しければ結構だ」というにすぎないような気がします。

という、一見してなかなか厳しい見解に聞こえるが、プロの作家が下した素直な評価と思う。

考えてみれば日本は豊かになったとはいえ、物を作る際に費やされるこころの方はどうだろうか。

貧しい小説家が食うや食わずで書き上げた作品が、現代の衣食足りて知的教育が行き渡った作家のものと比べて劣るとは言えないはずだ。

もちろんハングリーならそれだけで良作が生まれるとも言えないだろうが、かつては全身心を振り絞って生み出していたものが、現代の作品の多くは頭だけが過剰に働いた結果生じる思考の沈殿物で構築した「作り話」のように感じられる。

それだけでなく最近の漫画やおもちゃを観ていると、どうも金に使われ過ぎて「子供に夢を見させる」という制作サイドのゆとりやふところの深さ、温かみのようなものが私には感じられない。

ガチャとかゲームにしても、「こんなもん渡されてホントに子どもが喜ぶと思ってるのだろうか?」と疑いたくなるような(中にはだましとも呼べそうな)ものが平気で散乱している。

何を作るにも金に追われ過ぎて「絶対に外してはいけない」「失敗だけはゆるされない」という空気感の中で、結局当たり障りのない、当たりともハズレともつかないような商品が大量生産されているのではないだろうか。

それこそ「売れさえすれば結構だ」と言わんばかりに‥。いや、その結果売れなくなるのだが‥。

よく考えればさっき紹介した『三つの鏡』が出版されたのが1989年だから、こうした風潮は今に始まったことではないのだろう。

ともかく、少なくともファンタジーと呼べるもの、本当の「物語」を生み出す行為には相当な心的エネルギーが費やされるようである。場合によっては命にかかわるほどに。

ともすれば大袈裟に聞こえるかもしれないが、現実問題小説家をはじめ有名無名に限らずクリエイターに自殺者が多いのはこのような事情と無関係ではないと私は思う。

人間心理の深みに張られた琴線にふれる物語は、作者自身がそれ相応のこころの深みにまで到達してはじめて汲み取ることができるのではないだろうか。

無意識の扉をおそるおそる開いたのち慎重かつ大胆に歩を進め、七転八倒しながら「たましい」のぎりぎりのところまで迫る行為が「創作活動」の真の姿である。さらにそこから無事帰還できた者だけがかろうじてファンタジーと呼ぶに値する物語を語れるのかもしれない。

そうでないものはわずか数ヶ月の風雪にも耐えきれずに淘汰の運命を辿るわけだが、こうして書いてみるとそれはそれで存在意義があるような気もしてきた。

右を見ても左を観てもガチの「ファンタジー」ではこころの休まる暇がないし、成長期にある子供からしたらアイデンティティの確立がむずかしくなるかもしれない。

そして何より「いいもの」は、少ないから「いい」のである。

別のくだけた言い方をすればラーメンとカップラーメンの関係みたいなもんで、どっちかがあれば片方がいらないという話ではない。最初から「別の物なのだよ」という話である。

ただあまりにもイミテーションが多過ぎて、はじめて世界に触れる子供たちがカップラーメンがラーメンである、つまり「まあ世の中のものは大体こんなものだ」と誤認してしまうのはよくないぁとは思う。

そこも子供なりの純粋さと直観で大人の手抜きや欺瞞は案外見破れそうな気がするが、提供する側としては少なくともそこに真があるかどうかの区別だけは自分自身ではっきりしておくべきだと思う。

ジャンクフードばかりでまともな発育は望めないわけで、当然自分の味覚だけは狂わないよう舌はいつも肥えさせておくべきだ。まあ死なない程度にファンタジーには親しんでおこうと思う。

おじさんはついていけませんでした

大晦日は太郎丸(5才)と劇場版シンカリオンを観に行った。あとミツコもいっしょに。

内容はまーとにかく、ついていけなかった‥。orz

話が読めん。。

頭からおしりまでロボットの変形シーンばっかりで、疲れたなぁ。

好きか嫌いかでいったら好きだけど、観に行ってよかった、とも思うけど。

エヴァも出てくるし、発音ミクもいるし、ゴジラとかもはやなんでコラボかわからないし、いろいろ詰め込みすぎて観てる方はかなり精神的体力が削られた。

しかしまぁ、なんていうか最近のアニメってあんまりギスギスした感じは好まれないのかなぁとか思ったりなんだり。そこに関してはホントにいいと思う。

昔のアニメみたいに「いじめっ子」とか「いやな奴」というキャラはほぼ存在しない。

それとは別に「暗い子」とか「周りと打ち解けられない子」、そして「感情表現のとぼしい子(できない子・わからない子)」というキャラクターは今や定番なのかもしれない。

そして最終的にはこころを開いて「仲間は協力し合う」という構図になる訳だけど(今回の映画の筋とは外れるが)、これが(日本の)「現代だ」といわれればそんな気がしないでもない。

ごく主観的なものだけど、さっきも言ったように現代っ子にはギスギスしたものや殺伐とした感じを受けることはあまりない。

まあネット上でのいじめとか暴力はむしろ上昇傾向になるのかもしれないけど、顔を見て話すとそういう暴力性みたいのものは裏側に隠れてしまうのか、直接的に感じることはそれほどないのだ。

だいたい自分らの世代から「過保護」とか「温室育ち」なんていう言葉が横行したように思うが、当時は「だからだめなんだ」という角度の物言いが多かった気がする。

しかし「衣食足りて礼節を知る」と古語にもある通り、餓えればそれなりに荒れることもあろうし、満腹ならゆたっとするのが動物の性(さが)である。

そういう意味である面非常にゆったりした所があるのが「今時の子」の特徴なのかと思ったりなんだり。

一方で「最近の子どもは」とか「今の若者は」と言った時点でもう自分は淘汰の対象になってるらしいではないか。

だから単に「私が古くなった」という事実も受け止めなければいけないのかなとも思う。

とかまあなんだかんだ考えさせられることはあって、一応は楽しませてもらいました。

でもストーリーとかに関してはいろいろ思うところはあったなあ。まあそれはちょっとまた別の記事にしようと思う。

無意識の発見

ひと月ほど前からエレンベルガーの『無意識の発見』を読んでいる。

本の概要を簡単にいえば、心理学及び精神医学の原点を祈祷や祈りといった原初的なシャーマニズムのレベルまでさかのぼり、その実態をあきらかにしようと試みた良書である。

またフロイト以降に排出される個性豊かな治療者たちのパーソナリティや個人的体験を通じて、様々に枝分かれしていった精神医学の各学派を冷静かつ公正な目で人間の心や精神に迫まろうとした大著と言っていいだろう。

そうした古今東西の精神療法がおよぼす身体への影響とその後の人格の変化、さらには人生全般の創造性にまで目を向けて考察していくのだ。

この本を手にして自分の頭に最初に浮かんだ言葉は「ああ、これでやっと〈野口整体〉から離れられる」だった。

わざわざ〈〉カッコ付になっているのは概念としての〈野口整体〉のことを指すためで、無形のものとしての「ソレ」はもはや離れたり辞めたりできるようなものではなく、もはや自分の血肉となって埋め込まれている。

また、「離れる」ということと「辞める」ということまた違う意味である。

これまでは「整体法を主体的に実践する」ということに偏っていたけれども、では一体これがどのようなものなのか、ということをもう少し巨視的な目でその個性や特徴、現代における存在価値等々を客観的に明らかにするためには一旦「離れ」なければならない。

そういう意味で自分と整体との間に距離を作ってくれる本になってくれそうだ。

上下巻合わせて900頁を超えるので、なかなかのボリュームである。

全部読み終わってから感想を、となると中々とんでもないことになりそうなので読みながら「これは」と思うことに出会ったら小出しに所感を述べてみたい。

すでに序章、第一章の段階でいろいろ思うところあるので、近々文章化できるかと思う。

インプット脳・アウトプット脳

この数ヶ月はアウトプットよりもインプットに偏っているらしく、もっぱら本を読むかスマホでゲームをやるかウダウダするかに終始している(後ろの2つはインプットとは関係ないか‥)。

現代版の三年寝太郎を決め込んでいるつもりなのだが、丁寧に自分の心境を眺めると少しの罪悪感と焦燥感、そして解放感が入り混じったような複雑な心境だ。

あとは「時間がもったいない」という気もする。書くことを考えてる暇があったら1ページでも多く本を読み進めたい。

まあとにかく、しゃべることはいくらでもできるのにパソコンの前に座ると手が止まってしまう。

いい加減アウトプットの言語野を動かさなければと思いはじめてギシギシ書き始めた。

「何のために?」と考えるとこれまたむずかしくなるが、まあ自分の頭の中を見せるのも仕事だからだ。短編でもいいから書いていこうか(いかなければ)と思う。

とにかく本は読んでいるから、書簡や感想でもいいから何かしらは綴っていこう。

言者不知

自分で言うにもなんだが、最近web上では多少寡黙になったと思っている(対面では相変わらず多弁)。

過去のブログを見ると我ながらずいぶんガラクタみたいなものを書いてきたと思う。読んでる人はごく僅だとしても、それで余分に惑わせたかもしれない。

だったら消せばいいじゃないかという話なのだが、もはや自分の行録になっているのでモッタイナイ根性で放置している。

迷悟一如という言葉もあるけれども、悟り終ってみたら何のことはない、迷ったも悟ったも同時に無くなってしまうのだ。

だからあんなこともあった、こんなこともあった、だがもうどうでもいい、と言うのが本音でもある。

引き合いに出すのもおこがましいが、不立文字を掲げる禅仏教も多くの先達による大小の言行録によって現在がある。そして仏教の経論の中には妄言も迷言もたくさん転がっているのだ。

人のふり見て我がふり直せの精神だと思うが、祖師方や大和尚といえども始めはみんな迷っていた。その迷っていた記録も読む人の段階次第、使いようでは役にも立つ。

同じ水を飲んでも蛇ならその水から毒を造るし、牛なら牛乳になる。

だから結局聖書や仏典を読んでも必ず「その人の理解」にとどまる。拙稿も読む方の力量に委ねたい。

力のある人なら他山の石でも血肉に変えるはずだ。

涼しくなったせいかまた自分の中のモヤモヤを文字にして書きたい要求が出てきた。またしばらくは気ままにポツポツ綴っていくかもしれない。

だいたいは空中に釘を打つような話なので、もしつまらなかったら素通りしていただきたい。口直しには『臨済録』が何よりと思う。

汗冷症

毎年のことだけど、そろそろクーラーで身体をこわす人が増えてくるだろう。

冷夏のようだったので例年と少し時期はずれるかも知れないが、まあ大筋の動きとしては大差ないはずだ。

しかし企業とか学校で「来月から冷房がつくので、必要な方は羽織るものをご用意ください」というアナウンスをよく聞くが妙な感じがしてしかたない。

そんなに寒くしなければいいじゃん、というのがごく自然のツッコミ衝動である。

身体感覚の問題だと思うが、夏はあついのが気持ちいいのだ。

近年は舗装道路とか排気ガスの問題とかも相まって酷暑が当然だから、多少なりとも人工的に冷やさなければなるまいが、だからといって何も寒くなるほど冷房を効かすこともないだろう。

「ものすごく熱い」から「すこし暑い」くらいまで下げればいい話ではないか。

ご存知の方も多いと思うが、野口整体の概念で「汗の内攻」という捉え方がある。

汗をかいて急に冷やすとそれで簡単に身体を毀す。

まず身体が重ダルくなる。頭痛や腹痛、下痢なども定番の症状だ。

こうなった場合どうすればいいか。

汗を冷やして引っ込めて毀したのだから、もう一度体温を上げてドカッと汗をかけばいい。

ただし風呂やサウナで温めても一度内攻した身体の汗は出にくい。できれば身体を思いっきり動かして中から体温を上げたい。

成人の方で身体を動かす習慣のない方は少々難しいかもしれないが、現代はフィットネス関連の施設がも充実しているし「その気になれば」どうにでもなるだろう。

汗の内攻に限らずだが、心身の調子を崩したときに治そう治そうとうにゃうにゃ試行錯誤しているよりも、「エイヤ!!」と身体を動かしてしまった方がさっさと調子が上がってくることは存外に多い。

総じて運動不足なのだ。

人間も動物であり、動物はみな動くように出来ている。

だから動かなければ病気になり、それを発奮材料に潜在体力を振作しようとするのである。

身体の不快症状には必ず全体性を保持しようとする合目的的な要因があり、結果としてある種の秩序に向かう動きがある。

その方向に向かって適量の刺戟を加えれば、心の鬱滞でも体の失調でもすらーっと流れていく。

汗の内攻に戻るが、赤ん坊や幼児などは要注意でクーラーや扇風機の使用を誤ると場合によっては肺炎のような重篤な状態になる。

保育施設や幼稚園でこの「汗」に関する知識をもっと共有できたらかなり重宝するだろう。しかし現状は病気と言えば早期発見と早期の薬物治療、予防接種が盛んに行なわれるばかりで、生きた人間の生理的な連絡性を掴まえようとする動きは一向に見えてこない。

汗を冷やすと具合が悪いということも「自分の感覚」から出発すれば存外カンタンに解るのだが、こういう主観主義は疑似科学からは排斥の的になりやすいのだ。だからまあ向こう100年位は致し方ないかもしれない。

何にせよ毎年のことなのでこちらは飽きてくる。どうにかならないものかと嫁に向かってぶつぶつ文句を言っていたら「どうにかしたいんなら洋ちゃんが言い続けるしかないんじゃないの?」と言われたためにこの記事を書くことになった。

数人しか読んでなさそうなサイトで汗冷症などと題してみたが「汗を急に冷やすと危ないよ」という概念が通説になることを願って唱え続けてみるか‥。

思春期の種

息子のジブリデビューが『ラピュタ』になったのはそれなりに理屈がある。

『ナウシカ』にすると蟲(むし)とか巨神兵が怖すぎてトラウマになる可能性があるし、『トトロ』にしてもモチーフとして狭山事件が盛り込まれているのでは?と噂されるだけあって何となくところどころコワイ。

だいたい4、5歳といえば、ほとんどが「思い出せない」時期である。

となると見たもの聞いたもの、体験したものは全部顕在意識を透過して潜在意識に入ってしまう。

入っただけでなく深層意識の中で延々とリピートしているのだから要注意なのだ。今風にいえばリマインダー機能が付いていると言ったら分りやすいだろうか。

この時期に入った言葉はずっと心の奥底で小さく響き続けると思ったらいい。そうしてその人の思考・行動・態度・習慣を本人の知らないうちに方向づけ、ようやく顕在化するのは大体17~19歳くらいだという(現代の場合もうすこし早いかもしれない)。

これがいわゆる思春期における問題行動の〈種〉である。

周囲の大人が問題視するのは早くてもこの思春期に「行動化してから」なのだが、その時に現れた行動「だけ」を相手に叱言や体罰を加えてもまず奏功しない。

本質的にはその子の生育過程のどこかで、周囲の保護者や養育者がそうした思春期の種を撒いていたのだ。

だから文字通りその根は深い。本当に根気よく軌道修正をしていこうという強い決意と忍耐力、そして正しく訓練された愛情がなければ、思春期の動きにみだりに手をつけるのは危険な行為である。

そもそも人間の行動のもとにある、「こうしよう」と思うその大本のエネルギー源は、何だかわからない「漠」とした観念である。

そういうよくわからない「何か」が誰の心の中にもある。

子どもの突発的とも言える行動も、あるいはそうした行為に過敏反応する親も教師も潜在意識下の漠とした「何か」がそうさせているのだ。

しかしながらそれが具体的に何なのかは、特に当事者には皆目わからないから難しい。

焦点を掴み得ないまま行われる叱言や体罰は、効果がないどころかむしろ「やめさない」という、その言葉が無意識の反抗を一層あおっている場合も少なくない。

いわば火の元を突き止めずに、ひたすら火事をうちわで仰いでいるようなものである。そういう人為の風が火の粉をさらに舞い散らし二次災害、三次災害を引き起こしている例は日々のニュースを見るでけでも枚挙にいとまがない。

方々に散った火事だけに目を奪われて原因を解析しなければ、消火活動がいくら華やかに行われても到底間に合わないのは自明の理である。

こういうメカニズムから考えていくと、この思春期予備軍とも言える「思い出せない時期」の子どもに無闇に怖い思いや痛い思いを強いるのは、できるだけ避けたい。

絵本でもテレビでも音楽でも、そういう要素のあるものはできることなら物心がついてから見せるべきなのだ。

余談だが節分のような行事で5、6歳未満の子どもを脅かして、大人が享楽にふけるなどというのはもっての外である。

仮にそれで「言うことを聞くようになった」などと効用を説く人もあるかもしれないが、人間の子どもを育てるのは猿回しの猿を育てるのとは違うことを知るべきだ。

脅しや暴力で言うことを聞くことを覚えたら、それは早くも「自発性を失った」ということで、大人が管理しやすい子どもを育てるには都合がいいが子どもを丈夫にし自発的に行動できる大人に育てる方法ではない。

・・・とまあ長々書いたけど、こういう事情で一作目は『ラピュタ』になった(長い‥)。

実際観てみたらロボット兵が覚醒するあたり激コワだったがな‥。

まぁしかし‥男の子がここ一番で勇気を出すというシナリオは古来から定番だが、ここまでストレートなのも近年めずらしいのではないだろうか。

こういう冒険心というか、未知なるものに向かっていく好奇心を触発する内容もわるくないのではないか‥。

悲しいかな日々の生活を省みると、息子を決していい環境に置けているとも思えない。だからせめて映像ぐらいはマシなものを見せてやりたいと思うのだ。そういうわけで、これからしばらくジブリアニメにはお世話になりそうである。