抑うつ-人生のサナギの季節

毎日人にお会いしていてしみじみ思うのは、「抑うつ」的な要素を心に内包しない人はいないということだ。

巷では一時期「うつ」の問題をどうするかという情報をよく目にしたけれども、最近は「うつ」よりも「発達障害」の方が話題に上ることが多い気もする。

おかしなものだが心理療法、精神療法の世界にもブームがあるようで、社会情勢に従がって人々が陥りやすい心身の病には傾向がある。

まあ何にせよ、身体的な疾患を取り扱ううえで「抑うつ的気分」というのは必ず付いてまわる。

具体的に言うと、身体の受けた傷病が治るときに気分が落ちる。心身症の場合は特にそうだ。

人は誰しも心で抱えきれない苦しさを身体が請け負って疾病が生じるために、それが回復に向かうときに本来請け負うべき心の方へとその苦しさが帰っていく。

つらいといえばつらいのだけれども、これがベーシックな治癒のプロセスなのだ。

逆に心で苦しまねばならないときに、何にも感じないでケロッとしているとしたら、そういうことから心身症に移行してしまいやすい。

「自我の防衛機制」といわれる心理的なストレスから逃れる方法の一つに「分離」というのがあるけれども、それは感情鈍麻とか失感情症(アレキシサイミア)という症状と折り重なる部分がある。

これらは自分の身の上に起きていることを他人事のように「冷静に」捉えているので一見して問題を感じさせないのだ。しかし身体には弾力が無くなっており、心理的には喜怒哀楽といった全ての感情に起伏が感じられなくなっている。

つまり「抑うつ」という状態からも無縁のものだが、生活していて歓びとか楽しみといった感情も起こらない。

せい氣院では割りにこういった方々を対象とすることがあるけれども、何回かお会いしているうちに「抑うつ症」的になっていく例が多い。

抑うつ症状があらわれたあたりでふっと来られなくなる方もいるので、そういうときは非常に力不足を感じるけれども、どんなものでもその人なりの「時期」が来ないと治らないものは治らないのである。

わたし自身はこういう治癒の時期のことを「サナギ」に例えるとしっくりいく。

ご承知のようにサナギはいも虫から蝶に変わるための中間の形態である。このとき固い殻に守られつつその中身は液状化しているのだ。これはもちろん例えだが、実際問題「自分の作り変え」というのはここまで流動的かつ不安になるものである。

だからこそ外側は固い殻でしっかりと守られなければならない。

例えば「引きこもり」とか「不登校」という現象はその子が精神的に抱えている不均衡状態が「治る」ための好時節に現れやすい。

このとき養育者を含めた周囲の環境は、子どもの自我の再構築が闊達に行われるようにしっかりと保護してやるのが望ましい、とわたしは思う。

大抵は9~14歳くらいの間にこのような抑うつ状態が現れることが多いが、「中年の危機」に象徴されるように中年期以降、ときに老年期においてもこのような精神的な危機はふいに訪れる。

こういう時期に大事なことは決して治癒を急がないことである。

サナギの殻を無理に割ったら成長どころか、いのちを落としてしまう。

だからこそ「環境を整えて待つ」ことが生命を援助する唯一の方法と考えるのだ。

人間がこの「サナギの時期」を無事に通過するとやはり見事な変態を遂げて、人格的にひとまわりも、ふたまわりも成長するのである。またこれは非常に勘違いされやすいけれども、「成長」というのは何も立派な「人格者」になることが全てではない。

その人自身の心の深いところ(無意識や裡なるもの)と安定的なつながりを保った、その人らしい「自然体(=美)」が現れる、ということである。

自然界にはそのようなことはないけれども、もしもこの「サナギの季節」が無かったらいも虫はいも虫のままである。これは人間といえど同じことが言える。

個人的に好きな表現ではないけれども「アダルトチルドレン」などという言葉は、幼年期や思春期に環境面での保護を充分に受けられなかった方が「子どもの意識」を残したまま一所懸命生きている姿といえるだろう。

時期は逸しても、人間はいつもその身心に成長の可能性を宿している。

「抑うつ」とはそういう心理的変化が凝縮して現れているのだ、思ったらいいだろう。理解が深まったところでそのつらさは変わらないけれども、先にある光を知ることで、足もとの一歩がほんの少しだけ力強くなる。

人間はいつも、何度でも変化と成長の時期を向かえることができる。一生の間にサナギの季節を何度も味わうが、その度に生命は分厚く育ち、心の底に深く根をおろしていく。

他のどの生命よりも複雑に、そして深く悩むことができる人間は幸せである。

体癖論とタイプ論

野口整体とユング心理学を併学しているので、どうしても体癖論とタイプ論の整合性が気になる。

体癖とは全部で5つある腰の骨に対してそれぞれ、思考(上下型)・感情(左右型)・闘志(捻れ型)・愛憎(開閉型)・理性(前後型)といった気質を適合させ、さらにそれを積極性と消極性の2つに分けた。

こんな風に無理やり一文に詰め込むと素養のない方からすれば訳がわからないと思いますが‥。

とにかくまあ、5×2で計10種類の体癖素質(その人なりの気質や感受性傾向)に分類される。

これに対してユングのタイプ論ははるかに知名度は高いと思われるが、思考・感情、直観・感覚の4つの機能に対して外向的・内向的の×2であるから合計は8になる。

細かい組み合わせについては割愛するが、一つ一つ当てはめて考えていくと10引く8で結果、体癖論の闘志(捻れ型)の2つが余る。

また体癖論はその名の通り身体性から出発した分類法なのに対して、タイプ論はユングの臨床経験と自身のヨーガ(瞑想)体験による無意識の探索から紡ぎ出された理論である(ユングはおそらく「身体」には着目していないと思われる)。

これだけ出自が違えども、お互いを組み合わせていくと意外に整合性が取れる面があって興味深い。

現時点としてはまだ自分の思索内で漠としたまま動めいているが、もうあと1、2ヶ月したらすっきりまとまってホームページにアップできそうな気がしている。

「まとまったらそれがどうなるんだ」という自分ツッコミもあるのだが、おそらくは二つの立ち位置から対象を捉える「複眼」になるために、人間の捉え方がもう一つ立体的になるだろう。もちろんこれは臨床にも活かせるはずだ。

しかしユングの場合は思考・感情、直観・感覚この4つすべての機能をバランスよく発達させることで人格の円満な成長を推奨するのに対し、野口の体癖論では「体癖は生涯変わらない」と説く。

それはつまり「花は紅、柳は緑」の理論で、「欠点を克服する暇があるなら長所を伸ばせ、そうするれば欠点は消える」といった見方である。

どちらも個人の特性を如何に成長させ、どう活かすか、という目標に向かう態度ではあるが、これこそ各々の「個性」が際立つ結果となっているのは面白い。

また、よく考えてみれば「人格の成長」とひと口に言っても、具体的には一体どのような変化をもって成長と呼ぶべきかはむずかしい問題である。

そこに解答の多様性と人間探求の奥深さが見て取れる。

整体も心理学も「ゴール」や「正解」のない無形の学問であるために、その答えは個人の資質と感受性に委ねられるのだ。

いずれにしても最終的には自分の資質を見究めることに尽きる。これに一生を捧げるという点だけは揺るぎない共通項であろう。

そこで身体というのが重要な鍵になる。「身体の可能性を拓く」ということが現代のブームになりつつあるが、野口整体はだいぶ先駆けに位置していたものと思われる。これは大きなアドバンテージだろう。

一方で整体法はとにかく個人的経験を積むことで主観を磨くが、心理学というのは一応アカデミズムの約束事を順守しなければならないので客観性を重んじる。

結果的にはお互いが補償の関係になる。

長くなったけれども、野口整体もユング心理学も本気で勉強しようと思ったら人生がいくつあっても足りない規模のものである。全ては学びつくせないにしても、両方の強みを生かして自分なりの人間理解を構築していきたいと思っているのだ。

 

途中にあって家舎を離れず

野口整体を志して11年ほど経った。

今の立ち位置から鑑みると意外と短いなと思う。

言い換えると11年でここまで来たのか(意外に早いな)、という感覚なのだがその間に整体法の理解度や捉え方、価値観などは変わりに変わった。

ずーっと長く整体指導を受けに来られている方もいるけれども、自分の変節にともって疎遠になる方も一定数おられた。

何となく申し訳ないような気持ちもある一方で、お互いのとっての役割が一時的に終ったのだと思ったらそれはそれで肯定的な見方もできる。

とくにクライエントさんの力を信じて待てるようになった時期は断層が大きい。人間というのは生きているかぎり治りつづけ、死なないかぎり成長しつづける。

これを意識の深いところで感得できたので、こちらとしては氣を鎮めて「待つ」ことに徹するようになった。

もちろんこの程度はたいした話ではないのだが、いってみれば長いことくっ付いていた目隠しが外れたような驚きなのである。これでやっと常人、というか‥掛け違えた最初のボタンに気づいたようなものだ。

そもそもが整体指導というのは字面からいっても支持的な雰囲気が漂う。つまり指導者の方から「あなたはもっとこうしたらいい」ということを、直接的に示唆するように思われるが、実際は非・支持的な面が強い。

相手の「治る」にゆだねてこちらはひたすら沈黙を保つ。それには精神的な力が必要なので相応の修養は求められるけれども、結果として豊かな関係性が構築される。

口で言うのは簡単だが高い精度と成果を求めるとなると、なかなかディープな世界に足を踏み入れたなと思う。以前にもまして力不足を感じるし、「修養」って言ったって具体的に何をどうしたらいいのか全部自分で考えなければならない。

それが醍醐味なのだが、自分のためにもクライエントさんのためにも一日でも早く、もっと力を付けたいなと思う。そこにはただ精進があるのみ。

客観性と論理性

野口整体の最大のつよみは創始者野口晴哉の極めて個性的な主観だ。

整体法は気の遠くなるほど膨大な臨床体験によって帰納的に編み出された「人間学」である。そのため現実から遊離した「学説」とか「観念論」が入りこむ余地はない。

つまり「私が見てきた人間はみなこうなっていた」という純粋な体験記であるために他人は反論のしようがないのだ。水をかけたら火が消えた、といっているようなものである。

それ故に「なぜそのような結果になるのか」という科学的な論理性や客観性は乏しい。

これに因んで野口先生による「説明は30年後誰かがやってくれるでしょう」という口述の記録が残っている。しかし没後40年経った現在、研究者がほとんどいないせいもあると思うが、体癖論などを一つ考えてみてもなぜ腰椎の重心位置と感受性がこうも深く関連しているのか、依然として説明はつかないままである。

せいぜい野口の後継者たちが同じように「確かに、そうである」という体験的事実を獲得し得るに留まる。

だからどうしても「野口教」とでもいうような、ある種の雰囲気に酔った人たちだけの価値観に落ち着いてしまうケースが多いし、野口整体インスパイア系のコミュニティに属さない「一般の方々」との溝は埋まらない。

個人的には稀代の人間探求家によって残されたこの目に見えない技術・論理体系に、公共性を持たせたいと思っている。

そこで、分野は違えど「人間の心」という極めて主観の横行しやすいフィールドをアカデミズムに組み込んだ、「精神分析」に範を求めようとしているのだ。

これは相当な大仕事だが「あやしげな整体」、「気の整体」といった遠巻きな世間の評価を少しでも覆せればそれで充分だ。そしてなんとなくだけど、そこにせい氣院の存在意義と伸びしろを感じる。

ただ、一応の大卒で一応卒論も命からがら通過したものの、それでアカデミズムのスタンダードがどれだけ身についているかというと悲しいかな「からっきし」である。

そんな理由から最近大学の恩師の論文を毎晩ぽつぽつ呼んでいる。論理性のなんたるかを一から勉強し直しているのだ。そして以外にこれが面白い。

実際やることは他にもいろいろあるのでかなり遅々とした歩みだが、一日一歩を地で行こうと思っている。

虚を活かす

最近になっていよいよ「何もしない」ことが増えてきた。

臨床の話である。

以前はどうしても「治るように、治るように」という気持ちが先だって、クライエントさんと一緒になってくたくたになっていた。

近頃はただひたすら「どうなっているのか?」という探求の心だけをふところに忍ばせて、ひたすら時間を供にするようになっている。

いや、こういう紋切り型の態度でやれるほど生きた人間の臨床は甘くはないのだが、全般に「どうにかしよう」と躍起になるようなことはなくなってきた。

野口整体というのは一言でいえば「何故そうなったのか?」なのである。

話を聴く、身体を読む、全体の様子を感じ取る、そうして今日に至ったイキサツを知ることがその全てなのだ。

あらゆる問題事は原因がわかった時点で解決したも同然である。

これを生きた人間に当てはめれば、「理解」と「治癒」は同じものなのだ。

だから何故かが解れば結果論的に「何もしないでも良くなる」ということが起こってくる。

決して治療者がすばらしいのではない。クライエント自身の情熱によって自己分析が深まった結果なのだ。

このときには人格もかつてのものより全体性に向かって変容成長し、より安定的な人間像を現すことになる。

真の治療は「有限である人間が無限の人間を理解しようとする」、そのダイナミズムの中にのみ存在する。

ヒポクラテスの時代から、いやおそらくそれ以前から医学はあったが、この核心に至った治療者はわずかと思われる。

くり返すが〈いのち〉は有限である。

その有限の〈いのち〉の中で生命の無限の神秘に迫ろうというのだから土台無理があるのだ。

しかしその無理の中で奇跡は絶えず起こり、次々と人が人を癒していくのだから見事なものである。

治療の主体は常に治癒を体現するその人であり、治療者はただ雰囲気と環境を提供する援助者でしかありえない。

だから厳密に見れば「何もしていない」とは言えないのだが、援助者が無力であればあるほどかえって治癒がはかどるというパラドックスが生じるところが臨床の醍醐味でもある。

野口晴哉先生がその辞世の謳「我は去る也」の中で「我が説きしこと 一言にいえば 虚の活かし方也 無の活動法也」という言葉を遺されている。

「虚を活かす」ということが本当のところ何を意味するのかは今後も深く吟味すべきところではあるが、一つには治療者が虚に徹することで治癒者が実になるという構図を今の私なら思い浮かべる。

老荘的に言えば「無為」という一言に帰結しそうである。この無為を真に体得するために「実」を積み重ねる、つまり技術を修めその使用を慎むというプロセスが求められるのではないだろうか。

最初から何もないものをそのまま「何もしない」では、その「虚」に力を持たせることは無理であろう。虚を活かすにはそれだけ「実」を充実させることである。

具体的には理論の習得と技術の練磨は終生必須ということである。「技はその使用を慎むために修める」という先師の言葉もつづけて思い出される。

もとより人間の探究に到達地点などはないのだから、現在地などさっさと通り過ぎて新たな景色を求めたい。無為の底知れぬ力を本当にものにするのはまだまだ先だろう。

夢分析ー表出化する無意識の動き

妻が面白い夢を見た。

自宅の前の住宅がなくなってサラ地になっている。そこへ私と妻が見に行くと黒い岩のような塊が二つ、地面から顔を出していた。邪魔なので掘り返そうかと思ったが、想定したよりも土中の体積が大きいようである。私がその場ですぐに掘り返すのはあきらめ「これはほうっておいて、またいずれやろう」といって引き返し、妻もそれに従がう。

内容は以上である。妻の夢はいつも抽象性と複雑性に富んでいるのだが、これは比較的解釈をつけやすいのではないだろうか。

というのも最近は私がもっぱら無意識とか個性化の話ばかりをしていたことが遠因と思われる。つまりこの黒い二つの岩というのは顕在意識に表出し始めた私たちの二人の無意識のようである。

しかし無意識が意識の領域に登ってきたからといって、「意識的」にそのすべてを顕在意識の俎上に上げられるかといったら、それは不可能である。

無意識と顕在意識の交流が活発になるということは、取りも直さず心理的な「治癒」を意味している。

しかし無意識というのは劇薬なのだ。無意識の力に急激に飲み込まれると、治癒どころか社会生活そのものが一時的におぼつかなくなる。

だから夢の中の「私」は土中の岩を掘り起こさずに、「自然に任せる」ことにしたのだと思われる。

この夢のように無意識像が黒い大きな岩のような塊として現れる例を、過去にクライエントから何度か聞かされたことがある。

また今回の例のように、その大岩は夢の中でも「これ」といった仕事や役割を果たすわけではないし、さして邪魔にもならないということがほとんどである。

一方で夢を見ている当人に理由のない安堵感をもたらしたり、何か「意味ありげ」な中心的存在として登場することが共通している。

こういう夢を見た(覚えている)からどうなのかと問われると答えに窮するが、自身の心の成長プロセス(個性化の過程)を客観的に査定する結果にはなりそうである。

何にせよ意識的には活性化する無意識の動きを邪魔しないで、むしろ保護するような立ち位置で「見ている」他はないのが常である。

経験上、中年期というのは顕在意識と無意識の力がちょうど均衡した後、入れ替わるときだと思っている。この時期に体から余分な力みを抜けば抜くほど、心のエネルギーの流れはスムーズになるから、より体を整えることが要となるのだ。

野口整体流にいえば「ポカンとする」という一言につきるが、日に一度は全身をゆるめて意識の統制力を弱めてやることが、自分なりの人生を豊かに創造していくための要訣である。

このときに土中から顔を出した無意識が示唆的にはたらく。もちろん何か目に見える「はたらき」をするわけではないが、生命の進むべき方向を暗に示して、気がつけば自分の歩んだ後ろにいかにも自分らしい道が出来ているものである。

そこで夢の中の「私」のように「そのうちなんとかなるだろう」と成り行き任せでいられるかが鍵だ。禅の方では「任運自在」という言葉があるが、運を味方につけるために努力は無用なのである。

もちろん努力そのものはしても構わないが、努力「だけ」で人生が構築されていると思っているとしたらそれは視野狭窄である。

大抵は意識できる思考の部分だけを指して、「これが自分だ」と思っているが本当は顕在化していない広大で漠とした心の領域に主体はある。

おそらく昔の人はこういう「サムシング・グレート」のような存在に手を着けることは「祟り・障り」の元であると考えて、「それ」から一定の距離を保って畏れ敬う態度を心得ていたものと思われる。

実際は「そのようなことはすっかり忘れて」目の前のことに努めるのが賢明である。「人事を尽くして天命を待つ」とはこのことで、「精神的なこと」に取り組もうとしてそちらに偏るとかえって精神性は堕ちる。

具体的に言えば、神社に行って合格祈願や商売繁盛を祈願する暇があったら、その時間を受験勉強や仕事に精進した方がずっと効果的に運を引き寄せられるのである。

話が飛躍したが、元来何もしなくても無意識はその生活に反映されていくものである。我々にできることは、「それ」が見えやすいように時折り意識の波を鎮めて心の中にサラ地を作り出すことぐらいだろうか。

私の中にいる私ならざる〈わたし〉が一体どのように生きようとしているのか、これを〈わたし自身〉に頭を垂れて問いつづける態度のことを私は「敬虔」、と呼んでいる。

そういう意味からも、夢は私が〈わたし〉へと通じる、貴重な連絡経路なのである。夢を軽視することなく、その訴えのもとに照準を絞って傾聴してみると意外な声を拾い出して、その内容にしばしば驚かされる。

人生最大のミステリーは〈自分〉なのである。決して全てを見せない土の下に一体全体何があるのか、それを見究めるために今日のいのちがあるのだ。

そのためには、ただ一つ一つ行動していくだけでいい。見えないものが一つ一つ現象化していくその全てにドラマがあり、一寸先は闇もまた楽しみである。

夢は時折りその先の光を垣間見せてくれる、案内人のような役割を果たすものなのだ。

メンタルは弱めでいい

何ごともメンタルは強いに越したことはない。

こういう考え方が一般的だが、いろいろな人にお会いしてみると、メンタルが弱い(と思っている)人の方が身体は健全だ。

健全だ、というのは病気をしないという意味ではなくて、身体感覚が正常にはたいている、ということである。

逆にいうとメンタルが強い、とか精神が不安定になりにくいタイプの人というのは大きく二通りに分かれる。

自分の心の全体性をしっかり把握したうえで安定している人と、心の大部分が蓋をされたように閉じられており、狭い自我意識の世界だけが固定的になっている人である。

やっかいなのは後者のタイプで、自分の病的な部分に光があたりにくいので心身症的に体の不調だけは訴えるが、メンタルが「強い」ために深層の問題が明るみに出にくいのだ。

心理カウンセリングや整体指導を受けるとこうした「仮」の安定性はやぶられ、文字通り不安になる。あるいは出どころのわからない不快情動に自我が脅かされ、メンタルの弱さを感じはじめるようになる。

こうなると、心の「治癒」がはじまった、とみていい。

心でも体でも異常を異常と感じれば治るのだ。

このとき当然「苦痛」を伴うのだが、本来の自然治癒というもので苦痛を伴わないものはないのである。

メンタルが弱い、と思っている人はこうした心の治癒と自我の再構築が常に行われている場合が多く、言ってみればぐらぐらと揺れているのは生命の平衡要求の現れなのだ。

だからメンタルの弱い人というのは、当人的にはつらいが客観的にそのメカニズムを解読してみれば、ある種の健全さが理解されるはずだ。

しかし「弱いことがだめだ」と思ってそれを隠したり強くなろうと足搔いているうちは、健全さが隠れてしまって見えにくい。

弱点や欠点を解決するよりも、今日を生きることだ。弱いまま平気で生きられたらそれが本当の強さなのである。

自己実現までの距離

「自己実現」は心理治療を行なう上で最も重要なタームである。

自己実現(self realization)の原型は個性化(individuation)という、クライエント自身が本来の自分らしさを求めて変容成長していく動きのことだ。

言いかえるならその人に内在する、生命が要求実現に向かう心のダイナミズムのこといっている。

〈私〉が〈わたし自身〉になる、ということから目を背けたままで「治療」を完成させるのは片手落ちだし、それ以上に不可能なのだ。

「個性化」という言葉を精神療法の中心に打ち出したのはユングだが、それがいつのまにか彼の手を離れていって「自己実現」に表現がすり替わり、その後だんだんと時間の経過とともに意味内容まで変化していった。

もともとの「個性化」は、一切の社会的価値観や道義的制約から離れた「本来の自分らしさ」へと向かう無目的な動きである。

それが徐々に一般社会の需要に引きずられるように「富と幸福」の追求みたいなステレオタイプの成功学に堕ちてしまった。

さらに巷ではそのような「自己実現」の歳末大安売りが跋扈して、一日30分の瞑想で「自己が目覚め」たり、三泊四日の集中セミナーで「本当の私に出会え」たりするから、これらに引っかかって余計な浪費と引き換えに「道草」を食う人もあとをたたない。

もっともこういう道草すらも中・長期的、大局的視点に立てばその人也の個性化へつづく布石だったりもするのだけどね‥。

しかし実際問題、真の「自己実現」はそこらで販売しているようなものではないのである(もちろん価格の大小も関係なく)。

本来はたった一人になって、自問自答する「自分」すらもそこから締め出して、無意識の活性化をじっと待つことなのだ。

知ってる人はわかってるけど、これはけっこうしんどい。

いわゆる「瞑想」の必要もここにあって、これも現代的には猫も杓子も瞑想ブームで、質の高低において雲泥の差があるということも知らない人が多いのではないだろうか。

ひとつのキーワード、というか「鍵」となるのは「身体」だ。

これを有効に使う方法から着手することが近道なんだな、本当は。

何をモデルにするかで得られる結果も変わるけれども、そこは個人の勘と好み次第だ。

何が言いたいのかというと、昨今、「自己実現」が日常から遠く離れたお月様の世界にあると歌って、地球人を謎のツアーに連れて行こうとする人たちが多いのが気になったのだ。

数多あるガイドラインから何を選び、そして誰を信じて行動するかはその人の質によるのだが、いつだっていまここで生命の光が身体上に現れるようにすれば万事おーけーなのだ。

身体から遊離した、あるいは身体を誤用・悪用する精神論ほど恐ろしいものはない。

100年経っても1000経っても、「整、体」の価値は失われない。真理というものは、一切の時間的・空間的制約から解放されているから真理と呼ばれるのだ。

身体上に自然の秩序を顕すことが、自己実現の必要条件であってそれ以外の何ものでもない。実は今ここで、しっかり自己実現している。

コンステレーションのこと

「コンステレーション」はユング心理学の臨床、精神療法における重要なキーワードの一つだ。

臨床心理の分野では「布置(ふち)」と訳されるけれども、他にも「星座」という意味もあるらしい。

だから感覚としては「それが、そこに、そう在る」というニュアンスなのかな。

臨床心理においては、心の病に苦しむひとりの人が治っていくときに見られる、治癒のプロセスとメカニズムを表現した言葉だ。

それは「誰々が何々をしたからその人が治った」というような、科学的な因果論ではなくて、

クライエント自身の「時が熟した」ことによって、彼を取り巻くすべての環境が一つの目的に向かって動き出し、その結果「治るべくして〈自然に〉治った」という非科学的、非合理的な考え方だ。

それは「共時性(シンクロニシティ)」とかいわれる、「意味のある偶然の一致」を肯定的にみる視点になる。

つまりザックリ言えば「偶然」とか「たまたま」そうなった、ということ。あらゆるできごとが協力的に巻き起こった結果、何故かはわからないけれども、うまく治ったという考え方だ。

それを日本語では「布置(ふち)」と訳しているけれども、これだとスーッと頭に入ってこない。そもそも普段の会話で「布置」とかいわないから。

そこで日本におけるユング心理学の草分け的存在、河合隼雄先生はこのコンステレーションのことを「めぐり合わせ」という言葉を当てています。さすが国語力が高い(もとは数学の先生なのに)。

それで、とにかく、

そう、人はみんな「めぐり合わせ」で治っている、ということです。

例えばせい氣院に来られる人でも、自律神経失調症とか抑うつ症などで悩んでいる方がうちのホームページはずっと前から見ているんだけど、実際に来院されるまでに1年とか2年くらいずっと考えて、それからやっと来られることがあります。

それまでにいろんなところに行っていろんな他の先生の話を聞いて治療を受けて、体験を積んで知見も深めて、うーんじゃあそろそろ「せい氣院」にも行ってみるかみたいな。

で、ウチに来てすぐに「治る」のかっていうと、あんまり良くならなかったりして‥。

それからまた他所に行ったり、前にお世話になっていた治療家の先生や団体にもまた行ったり来たりして、そうやってまた何年か経つうちに何となく良くなっていく、とか‥。

こんな風に、特に心の問題や精神的な病の治癒というのはある時に「ズバッ!と治りました!」というようなことはあんまりない、と思う。経験上。

何となくゆらゆら‥ふらふら‥と揺れながらブレながら、いつもの生活がつづいていって、何となくどこかへ向かって流れていってる。

それである日気がついたら今まで必要だった「支え」がいらなくなってた、みたいな。「あら?」、という感じの治癒ケースはけっこう多い。

だからそういうことをもう少し謙虚に、かつ広い視野で眺めてみると「めぐり合わせ」で治った、という考え方が自然と湧いてくる。

だからこそ良質の経験を多く積んだ治療者というのは、できるだけその「めぐり合わせ」とか「偶然の治癒」が発現しやすいように、可能な限り何んにもしない、という態度で「待つ」ようになっていく。

できるだけ自然体のあるがままに徹するようにして、ひたすら待っている、ということがカウンセラーのたった一つの技術だとも言える。

野口整体でもその点はちょっと似ていて、

例えば創始者 野口晴哉先生の『治療の書』の中にこんな表現がある。

我治めて治療あり 我慎みて治療あり。

我 我無くしてのみ治療あり。

治療といへること 我が行ふに非ず。人に施すことに非ず 治すことにも非ざる也。

たゞ我 我無くして靖らかなる為也。宇宙の靖らかなる為也。(野口晴哉著『治療の書』全生社 p.131)

ちょっと古い言葉だから難しいけれども、つまりは私の方から相手に向かって何かはたらきかけをする、そういうことを徹底して慎むことを奨めている。

治療、治療っていっても、「何かする」ばっかりが能ではない、と。

「何にもしない」という中にも素晴らしい解決力があるんだと、そういうことを言っているんですね。解決しない、という解決策というか‥。

そして実はこの「何にもしないときにものごとって一番うまくいく」という考え方が、実は中国の古典思想である「老子」とか「荘子」の中にはよく出てくる。よく出てくるどころか、そればっかり、というか「そういう本」みたいな。

ユングが中年期以降に東洋思想に傾倒していったこと、そして野口先生が子どもの頃から荘子を愛読していたことが相まって、科学的な治療とは真逆の発想で人を強く健康の道へ導いていく方法を開拓していった、といえそうです。

いってみれば自然科学が至上の時代に、その科学のおよばない領域を補償するかのように東洋思想を有効利用している。

だからこの「コンステレーション」は近現代の治療に於けるの「最後の砦」みたいなもの、と言ったら少し大げさかもしれないけれども、実際そんな側面がある。

いろんな方法を試しても上手く治らない、どうしようか‥もう疲れちゃった‥みたいなときにこういう「めぐり合わせ」の方法ってのがどっからともなく、ひょっと現れたりして…「それで治る」ということを経験の浅い私でもたまさか見てきた。

かといって本当に何もしないわけではなく、「何か」はするんだけど。

何か「努力」、みたいなものを‥。

そういう人為的な「治療」とか「努力」はあっていいんだけれども、それだけではカバーしきれない何か、っていうのがやはりあって、そちらも心のどこかで大切にはする。そういう姿勢があると「偶然」は誰にでも味方してくれるような気がする。

昔から「人事を尽くして天命を待つ」という言葉があるけれども、人間的努力と天の采配、というこの両方の相乗効果。浄土真宗の「他力本願」とかっていうのも、こういうことをいっているのかもしれないけど。

長くなったけど、「コンステレーション」ていうのは大枠としてはこういう「見えない秩序」が宇宙とか自然生命の中にはあるんだ、という信頼に裏打ちされた概念だ。

そういう「見えない力」がこの世にはある、ということを知っておくと「いよいよもうだめかな‥」というような局面になっても、もうちょっとそこで腹を括って待てる、みたいなところが出てくると思う。

自分の力だけが全てじゃない、ということですね。どっかで「何か」が味方をしてくれる。実は今までがそうだったし、そしてこれからも。

そういう運を味方につける態度を訓練しておくことも、心理カウンセリングとか整体指導の中には隠れた役割として入っているような気はする。

いってみれば「運命を味方につける」ことがユング心理学と野口整体の共通項、なのかもしれない。

 

いのちの本質

「何ごとも〈物事の本質を捉える〉ことが大切」

たしか‥、河合隼雄、鷲田清一両氏の共著『臨床とことば』の中で河合先生がそういうことを述べておられた。

つまり有象無象、あくたもくたには目もくれず、「要するにコレってこういうことでしょ?」ということがズバッとわかる。そういう力が人生の、特に大事な局面においては非常に重要なのである。

物事はなんでもそうで、一流人とか、その道の極みに近づく人ほど、その「核心部分」をいやというほど知っている。

わたしの生きているフィールドでいえば、野口晴哉先生やユングという人たちが大先達だが、いずれも「人間生命」とか「心の核心部」における「何か」を掌握していた気配がある。

そしてそういう人は生前にあった世間の批判や無理解とはうらはらに、没後30年、50年と経ってから、そういえばこんなことを言っている人がいたぞ、となって注目され始めるのだ。

それはその人の生命が本質や核心、真理とともにあったからだろう。

例えば日本を代表する芸術家であった岡本太郎氏なども、本質とは何かを考える人だった。

岡本氏は十代の後半からパリに留学した訳だが、同時期の日本人留学生というのはその当時の有名無名の洋画家(現地の画家)のスタイルをまねたり、金髪のモデルを画いて日本に帰ったら絵を売ることを考えるのが大半だったようである。

ところが岡本氏の場合は「絵とは何なのか?」「芸術とは何なのか?」「人間とは何か?」ということを考え悩み貫いたあまり、まったく絵が描けなくなったのである。そしてパリ大学の哲学科に入り、後はマルセル・モースのもとで民族学を学んだ。

その結果、芸術家として一個人として前人未到の域に達し、死後もその名と仕事が残ったのである。

もちろん「偉業を成す」ことや「大人物に成る」ことばかりが人生ではないが、この世に生を受けて、自分が何者なのか、自分以外の誰でもない〈わたくし〉とは一体何か?ということがさっぱりわからないまま死ぬのはこの上なく惜しいことである。

そうならないためにも、〈わたくし〉にとっての本質や真理に向かっていくひたむきな心が欲しいと思う。

そんなことに時間を使って一体何の腹の足しになるのか?と思われる人もおられると思うが、そういう人が中年期以降、それまで固定化していた価値観を大きく揺さぶられて、自らの「根っこ」の弱さを露呈するようなケースをこれまでたくさん見てきた。

大体想像はつくと思うが、自分なりの「本質」に至る道というのは容易でないのである。

だからこそ、「そこ」に至るまでの遠く険しい道のりを一日、また一日と着実に歩んで来た人は充実した中年期、老年期、そして死期を迎えられるのではないか。。

もしかしたら「道」には到達点などというものはないのかもしれない。だが、それならそれでなお結構だ。人生50年の退屈をしのいで余りある。

整体も心理療法も、その本質は生命あるいは自己の「中心」にアクセスするための方法だ。

自分が解き明かしたところまでなら、かろうじて他者を導くことができる。いや、もはや他者のことなどかまっている暇などないのかもしれない。

〈私〉とは何者なのであろうか。そのために日々「人」と会って、「世界」を共有する。本質はいつも我と彼が融け合う「そこ」に在るのだと、わたしは信じているから。