メメント・モリ

六角橋の古本屋で『メメント・モリ』という本を見かけた。

メメント・モリとは「死を思え」というラテン語らしい。手に取って見ると藤原新也さんという写真家が青年期に外国を旅して撮りためた中から厳選し、それにご自身の言葉を添えた写真集である。

インドとおぼしき国では犬にかじられる遺体がそのまま写しだされている。いわゆる「ショッキング」な内容だが、調べてみたらかなりのロングセラー本らしいではないか。

妻にそのことを話したらそれは思い出の本だという。なんでも最初の彼氏にプレゼントしてもらったらしい。どういう流れでそうなったのかは気になるが、まあ因縁の本だ。

中でも次の内容は印象的である。

死というものは、なしくずしにヒトに訪れるものではなく、死が訪れたその最後のときの何時かの瞬間を、ヒトは決断し、選びとるのです。だから、
生きているあいだに、あなたが死ぬときのための決断力をやしなっておきなさい。

昔から「息を引き取る」というが、人生の最後の息は「ぁー…」と吸ったあとに小さく「ぅん…」と肚にいきんで死ぬ、というのをどこかで聞いたことがある。

はじめてこれを知ったときは、人間最後の一息は自分で決断するのかと感慨深かったのを覚えている。

よく修行を積んだ禅僧などは、「今日の夕方に死ぬ」とか「明日死ぬ」と宣言し、その言葉通りの時刻になると「じゃあこれにて」とばかりに「ぁー…ぅん」といって遷化したという記録も読んだこともある。

これなどは「決断力」をやしなった例といえるかもしれない。

さらに余談だが一休禅師は八十八歳で遷化する際に「死にとうない‥」といったという、そういう記録も残っている。真偽のほどは定かではないが、もし本当だとすれば一休さんって粋ですね。

前置きが長くなったが整体法(野口整体)のスローガンは「全生」、すなわち「〈今〉に全力発揮しろ」ということである。

男でも女でも老人も子供も、国籍も人種も政治思想も主義・信条・信仰・善悪そういったものも一切関係ない。どこのどういう人でもみんなみんな元気であらねばならないのだ。

そういうことを理想に掲げているけれども、何故かといえば「人はみな死ぬから」という、最初に死を思う視点に支えられている。

死ぬ時には余力を残してはならない。生き物はエネルギーを余したまま死を迎えると余分に苦しむのだという。だから生きている間に意欲を奮い、要求を使い果たそうと、そう諭す。

メメント・モリという言葉を古代に創作した人も、もしかしたら同じ着想だったのかもしれない。

たしかに現代社会で生活していると、平素死を思うような局面に出くわすことめったにない。

多くの場合死が遠ざかっている状態が「幸せ」であると思うし、何処かに幸せになる方法があるとわかれば走っていって買い求めるような向きもある。

親はできるだけ死を遠ざけ安心を得る方法を身に付けさせようと「教育」するし、教育現場でも個人の生き方を掘り下げるような仕組みよりも、もっぱら「公(おおやけ)」への適応に照準を絞った「人間作り」に励んでいるようにも見える。

その結果、公への適応を遵守してきた人がある時ふと自分の中に息づく「個人」に目覚めるとき、必ずと言っていいほど何らかの苦しみを覚えるのだ。

その「苦しみ」は幸せではないかもしれないが、生きている喜びと表裏一体でもあるからなかなか厄介である。

一人の人間が「その人として」生きようとするとき、そこにはじめて苦渋と歓喜の混在する〈今〉が現出する。

「中年の危機」などは象徴的だが、もっと早い人もいるし、老年になってからはじめて自己の問題に突き当たる人もいる。

中にはお墓に入るまでそういう意味での危機に直面しない人もいるかもしれないが、おそらくは「健康であった」とは言えないだろう。この場合、死の意味は知っていても、「自分のこと」として深く受けとめきれなかったのではないだろうか。

とにかく何を考えようと、人間という個体生命なら百年も経てばみんな時間という波の中に飲み込まれてしまう。それを思えばおのずと今日の身の処し方は定まってくる。自分の感性を拠り所とし、自分で考えて行動していくより他はない。

整体を説いてその実践を促すのも、「感性」の純度を保つためである。自然の感性に従がう生活によって生が整えば、その終着地点である死が整うのも当然の成り行きである。

memento mori

死について少しでも真面目に考えるなら、生の象徴である身体を先ず整えようと考えるのが自然ではないだろうか。整体法が生命に対する礼といわれる所以もその辺りにあると思う。

それでも「努力」は必要か

「子どもの集中力が続かない」

「ものごとが継続できない」

「〈努力する〉というのは不自然なことでしょうか」

先週はなぜか努力というテーマでよく質問をいただいた気がする。

わたしがさも努力家に見えるのか、それとも努力もせずにぼーっと生きているように見えるのかはわからないけれども、職業がら何か面白い答えを言ってくれそうな気がするのかもしれない。

しかしあらためて考えると、みなさん「努力」は好きだろうか。

公の場でうっかり「わたしは努力は嫌いです」などと言えば、ヘタをすると怠け者のレッテルを張られかねない。

しかし一人きりになったとき、自分自身に「本当に努力は好きか?」と正直に問うたら、「できればそんなことはしたくない」という声をまったく無視することなどできないのではないだろうか。

それ以前に、そもそも「努力」とは一体どんな行為をさすのだろうか。

一般的には目標に向かって、心身の力を奮い努めることが「努力」の意味だろう。

ただし日常生活でこの言葉が使われる場合、「嫌なことでも無理をして」とか、「少々体をこわしても、精神的に辛くとも、目標に向かってひたすら努めていく」ような態度が求められることもある。

果たしてこのような態度で、本当に人間の力が最大限に奮えるのかどうかは怪しいものである。

孔子の言葉に「これを知る者はこれを好む者に如(し)かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如(し)かず」というのがあるが、これなどすでに「面白がってやっている者にはかなわない」と言っているのである。

つまり「興味」と「関心」、そしてこれらに裏付けられた「意欲」というものが人間の行動の元、真の原動力なのだ。

これに則して動いている場合、ハタから見てとてつもない「努力」をしているような者でも、本人からすれば欲も得もなくただ夢中になって取り組んでいるだけなのである。

またこんなとき、怪我をしたり病気をしたりというようなことはほぼない。

ところが世間で「努力」といった時には、子どもが友達と遊びたい欲求を「意識的に」抑えて、家にこもり机に向かって勉強をしているような場合がある。

あるいは少年野球などでコーチや先輩の睨みに抗せず、休みたい要求を押し殺してバットを振りをつづけたり、ノックを受けつづけるようなケースもあるだろう。

いまだにこのような前近代的「努力」がすばらしいと賞賛される向きもあるが、本人がいっさい興味を失っているにもかかわらず外からの圧力でやり続けているとしたら、そこにはすでに葛藤という心の摩擦が生じているのだ。

言うまでもなく摩擦というのはエネルギーを喰うものである。

この様な場合「そこそこの結果」くらいは出せるだろうが、「持てる力を最大限に発揮する」などということは不可能だろう。

もちろん心は物ではないがこれをもう少し「物理的に」考えてみれば、上の例の場合「勉強をしたくない」「練習をやめたい」という心に対し、意思の力によって「それでも勉強をしなければ‥」「練習しないと怒られる‥」などとやっているわけである。

これは自分自身の心の中で真逆のエネルギーがぶつかり、すでに相当なパワーを衝突によってロスしていることになる。

このような葛藤状態に翻弄されつつ、かろうじて行為しているような状態が「努力」だとすれば、その行為者は遅かれ早かれどこかで破綻するのではないだろうか。

「わたしは努力がつづかない」

「努力しているのに報われない」

もしもあなたがこんな境遇に見舞われた場合、まず自分のしている「努力」の中に葛藤による心の摩擦や衝突が生じていないかを点検してみた方がよさそうである。

さらに自分が遮二無二取り組んでいるその行為の背後には、どのような心象風景があるのかを冷静に内省することを勧めたい。

ところで最初の質問に「努力は不自然か」というものがあったが、わたしは少なくとも自然界には努力という態度はないと思っている。

人間でも少なくとも3、4才くらいまでの子どもなら努力などしないだろう。しかし夢中になって行うその「遊び」という行為によって周囲の大人が感動させられることもしばしばである。

そこには先に述べたような葛藤によるエネルギーのロスもなく、また失敗してもそれを失敗と思わずに、次々と最初にあった要求実現に向かって動いていく。

その姿をみると「努力」の是非など考えるのは、まったくもって大人の雑念ではないかと反省させられる。

それならばむしろ動物や子どもたちの素直な心に我が心を照らし、自分の中にある真の要求を見究めることに「努力」した方が、後々になってずっと大きな実りを得られるのではないだろうか。

そうはいっても、自分の心の深層を整理し、明らかにしていくことはなかなか手ごわい仕事である。このような心の仕事に取りかかる場合には、それこそ相当な努力が必要であることを事前に覚悟しておいた方がよいように思われる。

インフルエンザ

インフルエンザがかまびすしい。

自分が子どもの頃(昭和60年代)はまだこれほど世間がインフルエンザに対して過敏ではなかったと思う。いつの間にやらこうなってしまった。

たしか7、8年は前だったか、「インフルエンザが流行る」というだけで予防接種を主体として1億円の利権が生じるのだ、という内容の動画を観た。

どこかの団体が抗議を目的として集まっていたのだが、いま探してもその動画は見つからないので消されてしまったのかもしれない。真偽は確かめていないけれども、どことなく信憑性を匂わせる。

日本の報道機関も慣例にならってこの季節はインフルエンザの報道でもやっておこうか、といった所なのかもしれない。

それ以前に日本人が病気に対してずいぶん過敏になった気がする。

冷静になって症状に目を向ければ解るが、「インフルエンザは普通の風邪ではない」「高熱が出る」「是非とも予防接種が必要である」というのは少々いきすぎだろう。

「インフルエンザも風邪の一種ですよ」という医師もいるし、いわゆる「ふつうの風邪」でも本人にエネルギーが余っていれば39度を越す熱だって出るものだ。

そもそもウィルスや細菌というのはどこでも飛んでいる。マスクをしたとか手を洗ったからといって無菌になるなどありえない。

人間の行くところ何所へ行ったってウィルスや菌だらけなのだ。

それが朝夕満員電車に乗ってもほとんどの場合ウィルス性の感染症にならないのは、「身体にその必要性がないから」である。

人間は身体に「ある条件」がそろうと発熱の必要性が生じる。身体各部の偏った疲労を解消するために「熱」が必要なのである。

それは言うなれば天然の温泉、自家製の湯治みたいなものだ。

そういう「疲労の偏り」がなければどんな病気だって必要はないし、そういう「病気の必要がない状態」が健康かというとそうでもないのである。

必要なときに必要な病気にかかり、順当な期間を要して経過することが自然の健康を乱さないためのコツだ。

それはそうとインフルエンザに限らず特定の病気をこわがりすぎるのも、その病気にかかる要因になる。身体が意思とは逆の空想に引っ張られるからなのだが、これについてはまた改めて書こう。

10月21日 愉気の会後記

去る10月21日(日)、愉気法講習会を行いました。

愉気とは狭義においては整体法の気の手当てです。こまかな技術以前に「愉気をする人になる」ことが先ずなによりも肝要です。そのための下準備を念入りに行いました。

はじめは脊髄行気からです。

背骨に気(もしくは息)を通すような心で、スースーと呼吸をします。

しばらくすると気持ちが落ち着いてきますので、すっかり落ち着いたところで活元運動に入っていきます。

しっかり一時間弱、時間をとって行いました。

しかしながらこれもまだ下準備です。大自然のリズムと自分の呼吸を合わせるために、頭をぽかんとさせて身体の動きの中に没頭していきます。

この日ご参加されたみなさんは、よく体が動いていらっしゃいました。

愉気をしよう、人に手を当てて癒そう、と考えるような方はそれだけ心が自然に近いのかもしれません。

そうして活元運動がおわったら今度は坐学です。

教材は野口先生の『健康生活の原理』から。下に一部を引用しておきます。

私は医学的な考えというもの、あるいは体の解剖学的構造というものについて、何も学ばない十代のころから、大勢の人に愉気をし、また活元運動を誘導して健康をたもつように指導してきました。痒いところを掻くと、痒みがなぜ止まるのかは判らなくても、掻くと痒みが止まるようなものだったのでしょう。そのための体の構造も知らなければ、何を食べたらよいか、そういうことも知らないのに、相手を健康に導き得たのです。

何を基準に導いたか。強いていえば、人間はどうしてい生きているのか、生きている力を潑溂とさせるにはどうしたらよいか、人間の勢いということ、気の集注分散の波、ただそれだけを見つめ、その勢いを使って、さらにかくれている勢いを誘い出す、それだけのことを目標にしておりました。…<中略>…だから私の知識は五十何年間、一つ処へ坐りこんで、来る人の体を丁寧に観察し、そのうちにある勢いと、その勢いのもたらす体の変化だけを一人一人、調べ考えてきただけなのです。(野口晴哉著『健康生活の原理』全生社 pp.8-9)

とこういう具合に、とにかく形以前の「勢い」を呼び覚ますのが整体法の根本です。そうして相手の裡なる勢いを揺さぶっていく媒体が「気」である、と考えたら良いと思います。

こういう原理を念頭に置いて、その上で技術に入っていくことが大切だと私は考えています。

さて前置きがうんと長くなりましたが、いよいよ実習です。

具体的なこと‥をいちいち書いていくとものすごく長い駄文がつづいてしまいそうなので、申し訳ないのですがここから抽象になります。あとはご参加されてからのお愉しみと、思ってください。

先ずは気の感応を視覚化するための稽古です。

それから相手の背骨に手をかざして、引き合うところを見つけます。

そのあとで実際に触れての愉気を行いました。

あとはご参加いただいた方から「こんな場合はどこに愉気をしたらよいか?」という質問がありましたので、それにお応えするような稽古を行いました。

個人的にはこういう手かざし、手当ての系統は「変な方向」に言ってしまわないことがとても大事だと思っています。

ひと言でいえば「謙虚さ」みたいなものを修めていくことが修行ではないでしょうか。

自然との調和をはかっていく時に、やっぱり「私は、こうだよ」というものがあると、何となくギクシャクしてしまいます。

だからとにかく呼吸を自然に、こころを自然に。でも「自然にしよう」なんて思うとかえって不自然になりますから、自然にするなんていう作為らしいものをすっかり忘れてしまうくらいにまで活元運動をやっていくことが「愉気をする人」になるための近道だと思います。

などと言いつつも「この人のために」という気持ちがあれば、それだけでやっぱり愉気にはなりますが‥。何であれ、こういうことを覚えておくことは良いことにはちがいありません。

また有志の方で集まってやって開催いたしましょう。

見るということ

この二週間ほど文字を見ることができなかった。活元運動を毎日やっていたら目が痛くてしょうがなくなってしまったのだ。

そしてメガネがかけられない。

どうもあやしいので近所の眼鏡屋さんで検査したら、近視の度数が軽減しているではないか。簡単にいえば目が良くなっていたのだ。

活元運動の効用かどうかはわからないけれども、気がついたときには「目の前にレンズがある」、「顔に金具が掛かっている」という不自然さがつらくなっていた。

目の疲労は背骨の上方と、肩甲骨の動きとの関係が深い。そして肩甲骨は骨盤の動きと対応している。

さらに骨盤は呼吸といっしょに(わずかに)開閉する。と、こんな風に身体各部の関連性、連動性を挙げていけばきりがない。

だから、「今さら」という話だけれども、人体上のどこに問題が起こってもその責任は全身にある。

近視も眼球だけの問題ではないのだ。

伝え聞いた話によれば、野口先生の存命中は整体指導者たるものメガネなどはかけなかったそうである。

とはいっても航空機のパイロットみたいに、裸眼視力のよくない人は最初からはじかれてしまう、という話ではない。

視力の弱い人はその視力のおよぶ範囲内で生活をおくっていたという。

だからぼやけた世界で一生懸命氣を集めてモノを視て、それで立派に仕事をしていたそうなのだ。

壮絶!という気もするけれども自然界ならばそれは当たり前だ。

それが「自然」なら服を着るのはどうなんだ、靴は?自動車は?と考えていくとメガネだけに固執するのも妙な気もするのだが‥。

ただ思うのは、「目」そして「視る」という行為は精神活動に直結する気がしている。

むかしから「目は心の窓」というし、江戸から明治を生きた剣禅書の達人、山岡鉄舟によれば、人間はいくら学問や知識そして財力があっても「目から光が出るようじゃなければ偉くはなれない」そうである。

仏教の方では慈眼などという言葉もあるし、人間を語る上でやはり「目」は軽視できない。

なんだか取りとめない話になってきたけど、本気で身体の再構築を図るならメガネ、コンタクトレンズといった矯正機器を付けている人は一定期間はずしてみると効果的ではないかと思った。

強度近視の方などはむずかしい場合もあるかもしれないが、今回のことでメガネを外したぼやけた世界でもかなり生活できたことに我ながら驚いた。

主観的には今までの頭の「はたらき」とは何か違う感じがしている。

些細なことかもしれないが、また一つ身体の自然について考えさせられるできごとだった。

それにしても活元運動は本当にいろいろなことを教えてくれる。生命神秘と無為自然の体現法である。

9月13日活元会後記 体の波について

9月13日活元会を行いました。

事前のふれこみでは坐禅・活元会だったのですが、わたしが前半しゃべりすぎたために坐禅の時間はなくなりました‥。

教材は野口晴哉先生の講義録より「体の波」を選んで音読をして、みさなんに聞いていただきました。

整体法(野口整体)というのは実践哲学です。

なので、実践と並行して知的理解の両輪が必要である、というのが当院なりのスタンスです。

「両輪」ですから‥

左右の車輪のどちらかが大きかったり小さかったり、回転数がちがったりすれば、それでもうクルマはまっすぐ走れなくなります。

だから頭で理解するばっかりでもなく、理解したら必ず実践をする。

実践をある程度かさねたら、何のために、あるいはどういうことかを考える。

こういうことを行ったり来たり繰り返しながら、整体法をみなさんが体得していかれるようにと一応は考えています。

ちょっと話が横にずれましたが今回は「体の波」です。

人間には「波」があります。

これは科学的な検査でとらえにくい人間の生理機能といってよいと思います。

もちろん心電図や脳波計などではかろうじて「波」的なものがとらえられますが、レントゲンとか血液検査では完全にそういう時間軸はとらえられません。

そういう「点でとらえた」情報だけで、「生きた人間」がまるごと解るかといったらそれはおそらく不可能でしょう。

だから「生きて動いて絶えず変化する人間」をそのままとらえて、その波の低調高調を見極め、そのうえで波の間に間にポンポンとリズムや言葉や身体的な刺激を叩き込んで勢いを呼び起していく。

これが整体法の原理原則です。

しかしこれは決して「整体指導」という非・日常の特殊な空間だけにいえる話ではないと思います。子どもの躾のような家族間のコミュニケーション、家族以外でも人と人が心を通わせるためにはこういう生理的な波のあることを知り、その波の使い方を覚えていくことは大変有効です。

どうしたらそういうことが可能になるのか、といえばそれは自分の心身を通じて波のあることを勉強し理解していくことが一番の近道です。

心・体の微細な動きをよくとらえられるように敏感さを保ち、育てていくように、丁寧に生活をしていくことでそれは可能となります。

活元運動をこつこつやっていく、ということが王道ですが根底にあるのは自分自身の「たましい」とかその器である身体に対する礼、そして畏れの気持ちを持つようになれば年々歳々、心身は磨かれていくことでしょう。

ダイヤモンドと同じようなもので、磨かなければ誰の目にも止まらない石ころです。

身体もそういうものではないでしょうか。

有志のみなさまにはぜひ活元運動をお伝えしたいと思います。

次回は22日土曜日です。

8月25日活元会後記

毎月第4土曜日は坐禅・活元会です。

ご参加は比較的初心の方2名様でしたので、活元運動の準備動作をとにかく丁寧にやりました。

物事は何でもそうですが、準備、「仕込み」が大切です。

「仕込みが9割」です。

活元運動の場合なら、まずは呼吸。

「邪気の吐出法」という(ちょっと古めかしい名前ですが)、大きく口を開けて「はぁー」と吐き切る呼吸を最初にくり返します。

これで頭のはたらきを切り替えていきます。

とにかく現代の人はアタマの回転が早すぎて心の休まる暇がありませんから、それをまず「ゆっ‥くり」動く状態に導いていく。

言ってみれば「活元脳」みたいな、いわゆる「ポカン」の状態です。

「これだけで自然の健康を保てます」と断言できるくらいの重要なプロセスです。

そうやって横隔膜の動きを柔らかく大きくしてくことで、気持ちにもゆったりとした余裕が出てきます。

世界が変わる、といってもいいくらいです。

・それから背骨を捻じる動作。

・背骨に力を集める訓練。

これをきちんとやってあとは目を瞑って「だらん‥」、としていると身体が動きはじめます。

初めての方もしっかりそれらしい運動が出ていました。

このまま繰り返していけば、自律神経が整い身体のバランスを取るはたらきが自然に強化されていきます。

非常に簡単なうえに、スポーツのようにケガをする心配もありませんのでどなたでもできます。

来月は9月13日(木)、9月22日(土)に予定しています。

野口整体に興味のある方、自分で健康を保つ方法をお探しの方はご参加ください。

8月9日活元会後記

去る8月9日に坐禅・活元会を行いました。

なぜか前回と同じく台風の予報と重なりましたが‥。そして前回同様、予報に反して大したことはなく、みなさん無事にお集まりいただけました。

内容は脊髄行気から始まって、坐禅、野口整体の教材資料を使っての座学、そして活元運動です。

まずは脊髄行気について。

ちなみに「行気(ぎょうき)」というのは自分の身体のどこかに、呼吸を入れていくようなつもりで気を集める訓練法です。

だから「脊髄・行気」といった場合は、脊柱管という背骨の中心孔をイメージして、頭のてっぺんから尾骨に向かって息を吸っていく(つもり)。

「すーっ」と鼻から吸って、吐く方は特に意識しません。

目をつぶって静かにおこないます。

大体、10分くらい。

ひとしきりやって落ち着いてきたところで次は坐禅です。

坐禅はご存知の方も多いと思いますが、半眼といって目を開けておこないます。ただし、視線は45度下方(やや伏し目がち)になります。

そして、うちの坐禅会では「坐骨」を大切にしています。坐骨をぴたっと座布団に据えて背骨をまっすぐに立てていれば、「足の形は自由」ということにしています。

一般的には結跏趺坐(けっかふざ)という、いわゆる大仏様の座り方を推奨するわけですが、これがむずかしければ正坐でも結構ですし、アグラでも椅子坐でもOK。

そしてさらに、眠くなったら寝っ転がっていてもOKです(今のところ、ゴロ~ンと寝た人はいませんが‥いいんですよホントに)。

とにかく、

「何にもしない」

ということをやってみましょう、という集まりです。

本当に「何にもしない」でいる時、自分は、世界は一体どうなるのでしょうか。

どうぞ、やって確かめてみてください。

 

さて、それから休憩をはさんでお待ちかね(?)の座学です。

いや‥、脊髄行気と坐禅がおわった時点でみなさんエンディングモードだったのですが…一応スケジュール通り敢行いたしました。

資料は野口晴哉著『愉気法1』全生社の「質問に答える」より。

質問 活元運動の会で大変よいことを学びまして感謝しておりますが、年を取ると(六十五歳)、長患いをしないで終わりたいということを考えます。老衰死ということになりますと、一年近くはおしもの世話を受けるようですが、避けられないことでしょうか。

 こういうご質問ですが、死ぬ時はみな快感があるのです。老衰して人に世話をかけるというのは、まだ自分の力を発揮していない人です。力のある内に力を使わないでいると、そういうように動けなくなるのです。本当は死ぬ間際まで動ける。…<中略>…

…ですから、死ぬ前の一年間、人に小便をとってもらうことなど考えないでいいと思います。それまでは相互運動をし、人にも愉気をし、自分も愉気を受け、相互におやりになることがいい。人間はそういう力を持っているのだから、それを存分に発揮しなくてはいけない。専門家ではなくては治せないというのは嘘なのです。みなお互いに治し合う力を持って生まれているので、そういう人間の持っている力を発揮しさえすれば、お互いがお互いを助け合えるのです。ただ心を無にして触ればそれでいい。(『愉気法1』pp.75-80 一部太字は引用者)

坐学では整体の心得と世界観を知っていただくために資料を選出しています。

大切なことは価値観と世界観、そして死生観の共有と理解。

平たくいえば、生きているうちに「力を出し切ろう」と言っているのです。

そのために頭のはたらきを停止して、身体の方に任せることが大切だといいます。

整体ではよく「ポカンとして‥」、といいますが、何にもしないでぼやーっとしていることにも立派に価値があるんですね。現代的にはあまり好まれないかもしれませんが。

例えば、日本に曹洞宗を伝えた道元禅師によって、坐禅の要諦について記された『普勧坐禅儀』という指南書があります。これによれば‥

諸縁を放捨(ほうしゃ)し万事を休息して、善悪を思わず是非を管することなかれ。
心意識の運転を停め、念想観の測量(しきりょう)を止めて、作仏(さぶつ)を図ることなかれ。

という部分があります。つまり「心のはたらきをすべて開け放して、一切を忘れて休息しなさい」と言っているんです。活元運動というのも、形こそちがいますけどそういう訓練ですね。

どこまでいっても、「ポカン」として身体のはたらきに任せましょう、という話です。

そして、いよいよ実践に移ります。

みなさんでいっしょに息を合わせて活元運動を行いました。

活元運動にはこうしなければいけない、こうしてはいけない、ということはありません。ぱたぱたよく運動の出る人、とろーんと眠りかけている人、いろいろです。

丁寧に1時間くらいかけておこないました。全員の運動がある程度おさまったところで終了です。

最後にほっこりお茶を飲んでおしまい。

実際のところ、毎回毎回、これって一体何をやっているのかなあ、なんて思うこともあります。

でも何となくみんなお集まりいただくのだから、たぶん目に見えない功徳があるんでしょうね。

心がほんのちょっとでも洗われて、ラクになって帰っていただければ、本人並びにまわりの人たちにとっても良いことだと思うのです。

今月はもう一回、25日(土)にも行います。

ご参加を希望される方は前々日までに、メールフォームにてお申し込みください。

7月28日活元会後記

7月28日(土)は坐禅・活元会を行いました。

台風12号が南関東に上陸するとの報道もありましたが、開始と帰宅時刻にはちょうど雨足が弱まり、みなさん無事定刻にお越しになられました。

いつも通り脊髄行気から‥のつもりでしたが、今回は予定を変更し坐禅の時間を一部割いて座学からはじめました(久しぶりです)。

資料は野口先生の講義録「自然な健康とは(昭和49年9月 活元指導の会)」より、下はその一部抜粋。

ともかく、体の要求する通りに動けるような考え方をして、それで活元運動をしていただくと、みなさんの生活がひとりでに敏感に変わってくる。やってよいこと、悪いことも体ですぐ感じるようになります。例えば、危ない所へ近付こうとすると体がスーッと冷たく、寒くなって、何か皮膚が収縮してくる。そうしたら止めればよい。

体は知っているのです。体は妊娠すると同時に、九ヵ月先にはお乳を飲むということを知って、お乳を準備するのです。だから、生まれるとすぐにお乳が出る。体は生まれることを知っているのです。おそらく癌でも筋腫でも治る時期があって、体はそれを知っているのです。ところが皆それを掻き乱している。けれども、人間の体の中の全てのものはみんな経過するのです。妊娠でも経過するのです。だから体が準備しているのに途中で出してしまうと、他の準備は中途半端になって、そういうのが後になって乳腺炎や癌などになったとしたところで、それは体の間違いではない。体の準備を途中で止めてしまったからです。

そんなように、体は先のことを知っているのです。今のことだけではないのです。だから、体に聞いていくようなつもりで、体というか、或いは無意識といいうか、意識を閉じて無意識に聞く。後になってみると、その方が却って正確だったことがよくあります。…

…いろいろ頭を細かに使う前に、意識を、頭を一旦捨てて、無意識に聞く。それにはやはり敏感な体になっていなくてはいけない。そういう意味で活元運動をおやり願うと、何回かやった後と前とではご自分の動作の全体が変わってくることがお分りになるだろうと思います。(『月刊全生』平成23年12月号 一部改行、太字は引用者)

こうして改めて読んでみるとわかりますが、活元運動は本当に固有のもの、整体という独自の理念に則した身心の調整法です。

これから何か訓練をして獲得するのではなく、生まれたときすでに最初からあった感覚を取り戻していく。その身体の感覚(無意識の感覚)を敏感に保って日々の生活を築いていこうというのが「整体」という態度なのです。

妊娠の例も記されていますけれども、現代ではいろいろなことを人間が管理し過ぎたために、かえって出産をむずかしくしているようなことが沢山ありますね。

例えば「予定日」「正産期」を決めてしまうことも妊婦さんを余分に緊張させる材料になる、と私は思っています。「いついつまでに生まれなければ‥」ということが余分な空想を生んで、身体の微細な感覚が判りにくくなってしまうのです。

本来であればもっと頭を空にするように、ポカンとするようにして日々の生活の中で快感を大切にすればそれでいいわけですから。

ごく簡単なことだけれども、普段から知識に頼った生活に浸っている私たちにはこれがなかなかむずかしい。そこで活元運動を丁寧に行っていくと、だんだんと自分の「感じていること」がわかるように、敏感になってきます。

世の中にはいろいろな健康法がありますが、その多くは人間が考案したものです。活元運動はそういう人間的なはからいをすべてやめてみたらどうなるか、というところが出発点になっています。

年を取っても病気をしていても、一生付き添っていくのが自分の身体ですから、この感覚を鋭敏に保つことがいかに大切かおわかりいただけると思います。

みんなが自分の心や体に関心を持ってこれを自然に保つように心がけていけば、少しずつ世の中が明るく朗らかになっていくはずです。一人ひとりが自分を整えればいいのですから、道は近くにありますね。

8月も2回ほど予定しています。有志の方はごいっしょにやりましょう。

整体の臨床を考える

ここしばらく野口整体とユング心理学の統合を謳っているけれども、改めて何をどうするのか訊かれるとなかなか上手く答えられない。

一つ言えるのは、ユングの提唱した「個性化」ということを整体指導の臨床で実現したいというのは外せない「ねらい」である。

ユングの言う「個性化(individuation)」というのは、俗にいう「個性『的』に生きる」ということとは別物である。その真意は、自分の原初的な〈こころ〉につよい関心を寄せることで「本当の意味で、私らしく生きていこう」という態度なのだ。

整体流にいえば「裡の要求に目覚める」という表現がこれに近いように思われる。これは身体の中心(深層意識)にある〈思い〉に目を向けることで、自分が芯から望んでいる生き方を真摯に考える、という極めて敬虔な態度なのである。

この両者のプロセスにおいて共通しているのは、いずれも顕在意識の活動水準をひたすら下げていく、ということだ。

これについて野口整体ではよく「ポカンとする」という表現を使うけれども、このポカンというのが顕在意識の活動水準が充分に下がった状態を指しているのだ。

現代的にはどうしても「思考力をいかに高めるか」という方に価値が置かれやすいのに対して、敢えてそのウラをかく行き方ともいえるだろう。

深く考えたり内省したりするような「意識的な」活動を積極的に放棄することで、自身の行き詰まりに対する「打開策」や「活路」を見い出そうというのである。

イメージとしてはアニメの一休さんが頓智をはたらかせる際に、坐って目を瞑りポクポク‥チーンとやるのがひとつの典型である。いってみれば覚醒した意識の統制下において、大脳の活動を休ませる状態を作り出したい。

そこで鍵となるのが「身体」なのである。

一般的に「意識」とは脳の活動状態のみに従属するものと考えられやすいが、実際は「全身これ意識」といった方が正しい。特に幸福感や心の余裕度といった面においては、もっぱら脳よりも下腹部や腰部の「姿勢」や「体勢」といったものが大きく影響するようである。

特に腰椎部(ヘソの裏側あたり)に生理的な正しい湾曲(反り)が現れると、余計な心配事や不安感は消失する。いわゆる「大丈夫」とか「大安心」の境地というのは、下腹部を中心とした「修養」を正しく積むことで得られる「身体能力」なのである。

換言すれば整体指導というのは個々人においてこの「大丈夫」を顕現するためにある、といっても間違いではない。

それは頭のはたらきを一定に鎮めることで、腹脳と呼ばれる二次的な(より高尚な)意識の覚醒を試みることである。東洋的な身体観において「上虚下実」という状態が好まれるのは、上記のような理由によるものと考えられる。

そしてこれこそが最初に書いた「個性化のプロセス」や「裡の要求に目覚める」ために必要な心身の構えとなっていく。

これに因んで、ユングは自身の精神的危機を乗り越える際にヨーガをやったと言われているけれども、クライエントに対して身体的な「行」を勧めたというような記録は今のところ目にしたことがない。

実際はそういうこともあったかもしれないが、やはり当時の西洋社会においては「身体」の中に精神を開拓できるほどの可能性を見出してはいなかったのではないかと思われる。

その辺りを現代日本人の心と体の教育に適用して成果を上げようというのが、現行の整体指導のねらいなのだ。開業して9年ほど経つけれども、多少なりとも概要がまとまってきた感がある。

一方で、自分の職業の可能性があまり小さくまとまってしまうのもつまらない。だから「整体指導とはこういうもの」という概念の固定化はできるだけ避けるようにも心掛けている。

実際の臨床においては、よくわからないけれども会っていると「なんとなく」元気になっていく、というような余裕のあるテイストは大切に残しておきたい。そのためにも人間的な大きさとか、徳性を養うことはライフワークといえる。

そういえばむかし手相鑑定士に「あなたは哲学や宗教学のような『正解』のない学問をやり続けるのが性に合っている」と言われたことがある。ふと気がつけば大体そんな人生になってきているの気がするのだが、まあとにかく‥。

何にせよ導き手というのは、自分の人生、「私の道」を日々創造し続けることが責務である。坐禅と活元運動の励行は無意識からのエネルギーの流れを生み出して、自我の再構築を進めてくれる貴重な行法なのだ。

そうやって自身の自由性を充分に発揮していくことが、他者の自由度を拓く力になる。そういう意味で「整体」という生き方は、生の終着地点としての死を最良の状態に仕上げるための指針のようなものである。

ひたすら死に抵抗し続ける「自然科学」に対して、死を積極的に迎え入れることで生を輝かそうとする「宗教」としての位置に、ユング心理学と野口整体は座しているのだ。

あとは洋の東西を越えた視点に立って、「現代」という同次元の中を生きる「人間」に対しどう向き合うか。その術を生み出す過程において、先の両者の統合が非常に有効な手立てになると考えている。

いずれにしても「個人」に真正面から向き合うことは原則である。臨床における術(すべ)に普遍的な具体案はない。

それだけ、生きた「人間」ほど解らないものはないのである。人間は策を弄するほど〈いのち〉の原形からは遠ざかる。

この無限の不思議さに有限の生を以て追い続けた先達に範を求め、自分自身のいのちの真相を解き明かすことが自ずと両者の「統合」に至る道ではないかと思っている。