二元的世界観の行末

前の記事で『風の谷のナウシカ』のことを書き始めたが、この『ナウシカ』を含めたスタジオジブリの4作品が現在東宝シネマで上映されているそうだ。単なる偶然だが勝手な共時性を感じる。

実質的にはみんなの無意識が『ナウシカ』の世界を必要としたのかもしれない。個人の〈こころ〉は深層部で世界全体とつながっている、というユングの仮説は折に触れて実感させられる。

今回の新型コロナウィルスにまつわる各種社会現象の方はぼつぼつ終盤を迎えているわけだが、冷静に見ればこれは台風一過となんら変わらない。時勢の移り変わりで自然現象的に物事が「流れて」いっただけである。

言い換えれば一時的に問題が消失したかのように見えるだけで、「病気」と「健康」の二元対立(病健二元論)を根底に残留する本件は、その根本に於いて問題が解消される動きは全く無いのである。

具体的に言えば、新しく感染症が発覚するたびに人間を分断し、物流・経済の部分的運休は言うに及ばず、気や心の流通までも萎縮せしめ心理的・物理的孤立を余儀なくされるのである。

私見を言えばこれは科学文明の自壊現象だと思っている。

欧州近代より起こった文明の自壊現象は第一次世界大戦より始まったと考えられる。今日まで自然科学を絶対的真理の追究手段と信じて疑わずに来たいわゆる先進国の構造的矛盾は、定期的にその姿形を変えて、手を替え品を替え、人類に艱難辛苦を味合わせてきた。

いま語ろうとする『ナウシカ』はそのような科学文明における「人間」と「自然」の二元対立構造の矛盾をディフォルメし、如何にしてこれを超克すべきかを示唆する神話的側面を持つ。

劇中には人類を滅亡の危機へと追いやらんとする「腐海」という森が登場する。腐海は猛毒の瘴気を発する菌類を主とした死の森として人々に恐れられ、さらにその森には人間の進入(攻撃)から守護するかのように大型の蟲(むし)類が無数に共生しているのである。

かくして人間と自然は非連続的な棲み分けによる併存を余儀なくされており、そのような人類の窮地から脱すべく物語の中では人間が腐海の一大焼却を試みる動きまで描かれている。

しかしその目論見は達せられず、むしろ自然(蟲たち)の反発をはじめ粘菌なども含めた生命全体の抵抗作用の前に人間たちはなす術なく、幾重にも打ちひしがれる羽目になる。

「自然は人間の問いかけた方法で答えを返す」と言うゲーテの言葉を実証するかのように、力ずくの支配では自然との恒久的共生は難しい現実が一層あらわとなるのであった。

原作である漫画版では物語が進むにつれてさらに驚くべき事実が明らかになる。それは腐海が自然に形成されたものではなく、1000年前の荒廃した世界を生きた人々が知恵をしぼって作り出した、人工的浄化システムであったのだ。

旧世界の人々が当時の高度産業文明によって汚染されたこの星をいかに清浄に戻すかを思案した末、人類によって排出された汚染物質を取り込み自ら朽ちて土に還っていく腐海の木々とそれを守護する蟲類、そしてこの腐海の発する瘴気に耐え共生できるように変性された人間(旧世界の人間は「人間」をも造り変えたのである)、という人工的な疑似生態系を作り出し、数百年、数千年単位でその星を清浄な状態へ戻そうとする計画だったのだ。

そして世界から汚染物質がなくなったあかつきには人間を清浄な世界に再適応させるための技術までが「シュワの墓地」という旧世界より遺された建造物の中に文字によって伝承されていたのである。

このように周到に「仕組まれた」世界は依然として旧世界となんら変わらない苦しみに満ち満ちており、その中で苦悩と歓喜にまみれながらも力強く生きていく人間の実態に肉薄しながら物語は多面的に展開されていく。

物語の終盤で主人公である風使いの少女「ナウシカ」は上に記したこの世界の真実に感付き、そこに強い疑問を抱き始め、多くの犠牲に心を苛まれつつこれを後にして前進を続け、ついには人間の生み出した欺瞞を喝破するに至る。

少し長くなったので次項へ

風の谷のナウシカ

自粛期間中のGWにはナウシカを観よう、もしくは漫画を読んでみよう、という記事を書こうと思っていたのにずるずると間延びして、もはや緊急事態宣言も解除されてしまった。

そうは言いつつ今からでも遅くはない、興味のある方は是非ナウシカを再体験して欲しい。また、これまで体験したことのない人には原作を手に取り、読んでいただきたいと思っている。

言わずもがなだが『風の谷のナウシカ』とは宮崎駿原作の長編漫画と、そこから生まれた劇場用アニメのことである。これは宮崎氏の独自の世界観が開花した最初の作品ではないだろうか。

物語の舞台となる世界の状況や時代背景は以下の引用部に簡潔にまとめられている。

ユーラシア大陸の西のはずれに発生した産業文明は

数百年のうちに全世界に広まり 巨大産業社会を形成するに至った

大地の富をうばいとり大気をけがし 生命体をも意のままに造り変える巨大産業文明は

1000年後に絶頂期に達し やがて急激な衰退をむかえることになった

「火の7日間」と呼ばれる戦争によって都市群は有毒物質をまき散らして崩壊し

複雑高度化した技術体系は失われ地表のほどんどは不毛の地と化したのである。

その後産業文明は再建されることなく 永いたそがれの時代を人類は生きることになった

近未来を舞台としたSF作品は巷に数多くあるけれども、この作品の場合「おそらくこうなるだろう」という悲観主義的な未来予想図ではない。

連載当時の社会情勢とそこに潜在するさまざまな問題(民族、国家、思想、宗教、科学技術、等々)をモチーフにして、高度産業文明の興亡を背景に「人間は如何に生きるべきか」、いやそもそも「人間とは何か」、「生命とは何かという大きな疑問を作品全体を通して投げかけてくる。

こういった人間存在につきまとう根源的な矛盾に対し正面から考察していくには、既存の学問や宗教を捏ねくりまわすよりも、無意識の淵から生まれる「物語」のほうがはるかに豊潤で自由な創造性を刺激しやすい。と、思う。

そもそも文明とは人間の暮らしを「安全」かつ「豊か」にすべく生成されるものである。

その中でも科学を基盤とする西洋文明は、自然というものをコントロールしその恩恵を効率よく利用すべく産業文明は発展してきたのである。そのために文明の発展に伴って、人間を自然から分離、乖離させる結果を招いた来たのだ。

そもそもが「自然科学」というものが自然と人間との対立構造を基盤とキリスト教文化を祖とするために、産業文明は時間とともに自然をじりじりと圧迫し、やがては大きな反発を招きついには文明そのものに破綻の影を匂わせている。

かつて様々な産業活動から起こった「公害」はこの科学文明の構造的ひずみが具現化したものと考えていいはずである。しかし公害が発覚した時にはすでに科学産業文明はのっぴきならない域まで社会機構に複雑に組み込まれていたために、公害に関与する部分だけを社会からていよく切除することは困難だったのだ。

ナウシカが生きた舞台は、そのようなニッチもサッチもいかなくなった高度産業文明が勃興してから1000年以上後の世界ということになる。

当然のことながらその時代になっても人間存在につきまとう矛盾もひずみを解決されてなどいない。

いやむしろ崩壊したのちに一定の時間が経ったことにより、その構造的な不調和が発酵腐敗して、文字通り「腐海」という名の死の森まで生み出していたのである。

今回のコロナにまつわる諸問題を目の当たりにすると、『風の谷のナウシカ』で示唆されていた「人間とは何か」、「人間は如何に生きるべか」という問いかけがいよいよ肉薄してきたように思われてならない。

劇中では腐海の毒を避けるべく瘴気マスクをつけるシーンが頻繁に出てくるが、主要先進国と呼ばれる国々の民がみなマスクを着けて歩く姿と重なって見えてくるあたり、不思議な一致である。

ただそうした外観とはうらはらに内実はだいぶ異なり、我々の現実の方は腐海のような毒はどこにも浮いてないわけで、実際は目に見えないユーレイを相手に防毒マスクを装備して闇鉄砲を乱射しているようなものなのだが。この滑稽さが判らないというところが疑似科学文明の喜劇であり、悲劇なのである。

まあとにかく、この宮崎氏の先見性と言うか、本質を見抜く目は凄まじい。ナウシカの原作を丁寧に読んでいくと、そのことがつくづくわかるのである。これに因んで思うところ考えたことが諸々あるので、次回以降に分けて書いていければと思う。

ええじゃないか

初夏の陽気に伴い世相も若干だが落ち着いてきたような気がする。スーパーにはトイレットペーパーの姿が戻り、おもてを歩いても公園に行ってもマスクの着用率がわずかだが減ってきている。

そろそろ今回の騒動も終わりが近づいているのかもしれない。こうなってみると一緒になってわたわた騒いだ自分自身も恥ずかしく思えてくる。

そもそもが木の芽時は病気が出やすい。寒さでこわばっていた身体が動き出し、身の内外と再適応を図り始めるのが春という季節の特徴である。だからここまで暖かくなってしまえばもろもろ病気の発症率が下がるのは自明の理である。これから身心共に快活に動ける季節だ。

ところで整体法では肺炎は14日という。

つまり14日かけて病症を順々に経過することができれば、肺炎の必要のない身体にまできちっと整うということだ。これは演繹的な観念論ではなく、膨大かつ精緻な臨床経験によって得られた主観的事実として説かれている。

実のところ私自身が肺炎にかかった記憶もなければ、肺炎を発症している身体を観たことがないので、その点あまり語気をつよくして主張することはできないのだが‥。

ともかく先の整体法の論に拠って立つなら、その14日間を如何に心静かに過ごすかが鍵となる。そうすれば身心は本来の弾力を取り戻すと考えてよいと思う。

ただし自然経過とは野放図にしておくことではない。身体の要求に静かに耳を傾け、食するべくして食し、動くべくして動き、眠るべくして眠る、という無為自然の生活を心がけ、平素から訓練を積んでおく必要がある。錐体外路系の訓練法として活元運動の必要性もここにある。

もとより病気は苦しいものである。苦しいから病気としての意義もあり、治ろうとする働きもその苦しさと供にある。

そして今後そのような身体にはしまいとする心の態度も、その病気の苦しいことによって養われる。したがって主体的養生の生活も病苦によって支えられているのだ。

病気は衆生の良薬と釈迦は言ったそうだが、病症とは健康の中に包括される身心の自浄作用なのである。

ところが現代のように病症を健康と対立させ、これを駆逐しようと頭を熱くしているうちは病気の方もその宿主の頭を冷やすべくますます活性化するばかりだ。

西洋発祥の科学的医療は、その原点に於いて自他分離の二元対立を基礎として構築されている。分離はさらなる分離を繰り返し、ついには自分と身体を分離させ、身体の自己防衛の働きである病気と対立し、闘病などと言って自分の身体の正常な働きを相手に喧嘩をしているのである。

一般にはそれを「治療」と称しているのだが、つまるところ科学的な医療行為は病症・病巣と医薬との戦いという構図に落ち着く。その結果、治療自体が戦場となる身体を荒廃させる暴力になり下がっている。対立と闘争は必ず無限の連鎖を生む。この世のどこを探したって平和を創造するための聖戦なぞ存在しない。

それにしても今回改めて目についたのは現代人および現代社会のエネルギーの余り様である。

マスクの取り合いで乱闘などまさに噴飯ものだが、それとは別にいま相当数の方が(正確な割合は把握していないけれども)在宅勤務という名の休暇を強いられている聞く。ところが、かれこれ一か月以上このような状態が続いているというのに往来で餓死者に出遭うこともない。

もちろん経済的に困窮している方も決して少なくないことを忘れてはならないが、一連の政策によって生じた個人の負債はそれなりに政府が受け持つ姿勢を示している。

全面的には依拠できないにしても、物質的豊かさを求めて邁進してきた社会も知らぬ間に大変な余剰を抱えるようになったものである。

余剰は鬱滞を生み、鬱滞は鬱散を求める。

鬱散行為のもっとも単純化した形態は破壊である。

例えば、胸の内に不平を忍ばせている人は知らずに物を壊す。物を壊さなければ他人を攻撃し、そのような行為に抵抗感のつよい人は一番身近な自分を壊す。

意識の統制下になされる自傷行為などはまだわかりやすいが、無意識に行われる病気や怪我の大半はこうした自壊現象として行われるものが存外多いのである。

そうした生体エネルギーの鬱散が集団で行われた場合、その端的は戦争である。しかし大国間の直接的な大戦がなくなった今、エネルギーの噴出口が閉ざされた結果、ネチネチとしたいがみ合いや不信の増大へと変態している。それでも隣国に毒ガスを撒いたり核爆弾を落とすよりははるかにましだが、やはり人間の自然の美しさが現れているとはいえまい。

俗にいう先進国(もはや何が先進なのかわからないが)の文明生活とは、全般に餓死者、病死者を出さないように、怪我人を減らすように、すなわち「死」をできるだけ遠ざけるべく発展してきたと考えられる。それに付随して労働時間の短縮と生産性の向上を図り、なるだけ時間と体力を余らせるべく成長してきたとも言えるだろう。

労働から解放された時間と体力で「自由にやりたいことをやる」という心算だったのかもしれないが、蓋を開けてみればその余った体力で病気を増やし、さらに治療法を巡って身心を疲弊させ、国家の財源を蝕んでいる。それでなくても元々人間は先の理由から、他の動物よりも余分にイライラしたりクヨクヨしながら生活する方向へと発展してきた。

私見としては、今回の感染症に因んだ一連の騒動もそうした余剰体力と金余りに対する生理的な鬱散要求だと思っている。言ってみれば、近代以前まで盛んに催された土俗的な「祭り」のようなものである。

古来より祭りとは人間に内在する野性的衝動を、時間と場を区切りるなど一定のルールを敷いた上で効率的に噴出させ、事後に生理的な平衡に向かわせる文化的行為である。そのようなある種の健全さに向かう貴重な行為も、近年は人間が「利口」になったせいか概ね縮小傾向にある。

そうして行き場を失ったエネルギーは様々な排出口を見つけては、千変万化して昇華噴出を繰り返しているのが現代社会の特徴の一つと言える。

いわゆる先進国の文化に浸った人ほど、神様や悪魔、仏様や鬼といった前近代的な漠然とした概念では、強い情動を引き起こし噴出に向かわせることは難しい。

そこはやはり「カガク的」という、現在もっとも強力に信仰を集めている理念に沿う形式である程に、その扇動効果は絶大となる。このカガク的と言うのはなかなか曲者で、科学を真に解する専門家に言わせれば極めて詰めの甘い論理性の低いものなのだが、この際そのようなことはどうでもいいのである。

いわば象でも鯨でも通れるようなザルの目ほど粗く間抜けな理論でも、民をしてその鬱屈した野生の噴出を可能とするだけの「それらしい理由」さえ確立すればいい。これによって集団心理というものはいともたやすく生理的エネルギーの発露に向かって猛進していくのである。

科学と言うのは本来の性質からいえば上質な理性をその思想展開の基盤とし、尚且つ動物的な感情や生理的な欲求を下位に置いた上で、極めて冷静に自然生命に秩序をもたらし人間社会にとって有効活用に導くものだと思っていた。

しかしその科学を扱う人間もやはり感情と情動をその思考活動の基底に置き、エネルギーの集中と分散の波に支配される自然の生命体であることには変わりはなかったのである。今回の感染症騒動はそれを雄弁に語っているように思われる。

改めて先の主張に立ち返るが、かような人間の生理構造に照らすことで本件を現代式のお祭りのようなものだと感じた次第である。特に江戸末期、日本各地においてほぼ無目的的、同時多発的に起こったといわれる「ええじゃないか」を彷彿とさせる。それが情報伝達技術の進化と相まって、勢いワールドワイドになるのは已むをえまい。

余剰エネルギーの分散が済めば自ずと勢いは収束し、やがて分散のエネルギーは流転して集中の波へと回帰する。だから体力の余った人はこの機に乗じて騒げるだけ騒いだらよかろうし、もとから集中分散の平衡がとれている人は静かな自分の世界から悠々と事の成り行きを眺めることだろう。

話はそれるが教育も医療もそうした根源的な生理的エネルギーの存在を無視し続ける限り、人間を自在に導く術を実現することは難しい。それは個人においても公においても、である。

フィットネスジムの増加も人間の自然の心が生んだものにはちがいないが、もっと身近なところで自分の要求したことをさらりとやってゆける人間を育てていく、そういう方法はないだろうかと思いを巡らせる。

整体法はその一翼を担う立場にあるけれども、その完成された理論とはうらはらに実践も普及も全く追い付いていないのが現状である。

原因はさまざまに考えられるが、もともとが創始者である野口晴哉という傑出した人物によって構築されたものだけに、属人化のつよい高度な技法であることは否めない。

それに加え「自分の健康は自分で保つ」「自然の生命へ還れ」といった理念もきわめて単純明快だが、それだけに安易な誤解へと流れやすいようである。まあそれは他のメソッドや宗教的な教義でも同じことは言えるかもしれない。親鸞の念仏とて同様、その死後はすぐさま法が乱れた。

理解というのは個人の知性に委ねられるもので、教える側にばかり責任を負わせるには無理がある。いわば教化とは他力と自力の相乗効果といえそうだが、それでも提供する側は自分の役割を果たすべく、最大の努力を惜しんではならないだろう。

何であれ人間の生理的な構造と言うのは人類発生から現在に至るまで、そして今後何万年経ってもおそらく変わらない。

仏の掌上で飛び廻った孫悟空と同様に、いかなる生命も自然の法則からは逃れられないのである。その大自然の一部である人間の非や欠陥を一々あげつらうより、もう一つその構造を冷静な眼で観察し理解を深め、情熱をもって使いこなす道を開拓していく方がずっと生産的である。

そういう意味で課題は山積みなのである。当面は病気に対する捉え方の見直しが早期に図られることを願ってやまない。それに加えて心は心、体は体、という風にほうぼう別々に研究が進む中で、この二つを統合しつつ生きた人間を包括的に理解していく学問の必要性をつよく感じる次第である。

実のところ既存の科学の欠点を補完すべく、既にニューサイエンスという潮流が生まれてから久しい。医療の領域でも心身医学の発生など、既存の科学的見識を超えた形で行われる、生きた人間を生身の目で探求する動きが活発である(真に科学的とはむしなこのような態度であると思いたい)。

一方で整体法は主観主義に基づいた経験的な総合人間学と言える。それだけに科学的な客観性や再現性を求めることに困難を余儀なくされ、なおかつ一定の質を保持しつつ存続・普及させるにも様々な障害がある。

今後は可能な限り客観性を保持しながら、そのメカニズムと教義の普遍性を論証していくことが整体法を実践する者の使命だと考える。何より自分自身が整体法の質的低下に加担しないよう、客観性と同等に主観の練磨を怠らぬことが何よりも大事だろう。偏りのない純粋な主観をもって、事実を公正に見つめることが真理に至る唯一の道だ。

野口晴哉は整体法の源泉となる心を説くために近代医術の祖であるヒポクラテスの理論を引いている。その一つは、「事実以外に権威はない」という一節に要約されている。整体法とはいかなるものか、その答えはやはり事実の集積と体現による実証に勝るものはないようである。

ごまめの歯ぎしり…

いまだに緊急事態という実感はないけれど、イレギュラーな生活はつづいているのでやっぱり手持無沙汰である。

状況に応じて何か変わったことでもしようか、それともいつもと同じことをつづけようか、などとどうも気持ちが定まらないので久しぶりに易を立ててみた。

ここで急に易とか言い始めると引かれるかもしれないので一応説明をすると、「易」とは中国古典の『易経』にまとめられたごく原始的な占いである。

名前は有名だけどその内容まで知っている人となるとなかなか少ないかもしれない。しかし実用のために初歩的な仕組みを理解するだけなら意外と簡単なのだ。

陰と陽、つまりはマイナスとプラスという二つの概念の六つの組み合わせによって対象の相を観るのである。

このとき陰は「--」陽は「」であらわされる。これを下から六つ積み上げることで2の6乗、つまり64パターンの卦(け)が表現される。

当たるも八卦、のあの卦である。

本来は筮竹(ぜいちく)という竹ひごみたいな棒をバラバラもってやるのがお馴染みだが、実はその略式があってこれはコインでもサイコロでもできるのだ。

要は理性のコントロールを離れた方法で現象化した事物を、いずれかの卦に当てはめれば占いは成立する。

コインで行うやり方は6枚の硬貨をパッと撒いて手前から順に並べる。表なら陽、裏なら陰である。

やってみると今回は下から陰が四つ、上に陽二つの「風地観」という卦が出た。

ぱっと見「悪い卦だ」思った。悪い卦という言い方は易にはふさわしくないが、直感的に「ん…なんかよくないのかなぁ‥」という感じ。

ちなみに講本には「大地を吹き抜ける風」とある。

東洋思想には上虚下実という概念がある。あるいは頭寒足熱という言葉もあるけれど、つまるところ上部は涼しく軽くし、下方を温かくズシリと重厚な形をとれば万事安泰と考える。

それに照らせば下方に陰が4つも固まっている。まああんまりいい気はしない。

そしてこれがさらにどう動くか、これからどう変化するかという変卦を観る。あらかじめ交ぜておいた一枚だけ種類の違う硬貨をひっくり返すのである。

すると、ハイ‥

「山地剥(さんちはく)」。「くずれいく山」って…陰がまた一っこ増えた。

これはやっぱり順境とは言えない。首から下がスカスカだ‥。

易経によって定められた読み方もあるだけど、それ以前にまず思い浮かんだのは頭デッカチになっていませんか、ということだ。

まずそのカッカした頭を冷やせ、と。もしくは軽挙妄動を慎んで足元を固るべし、と言う風にも読めるかもしれない。

見方を変えれば最上部にたった一つだけ陽のエネルギーが残されている。慎み深い態度でこれを大事に保てばやがて陰陽のバランスも戻るだろう。

こういう時は、待つことだ。

とまあ、あれやこれや思索している最中になぜか大学時代の恩師より小包が送られてきた。

先生は長年お勤めされた大学をおととし退職されたのだが、小包の中身はその退職の記念として発刊された論文集であった。

少しタイムラグがあるけれど、この外出自粛期間を有益に過ごせるようにとの先生のご配慮かもしれない。

その真意まではわからなけれども、さっそく開いてページをめくってみる。すると中から「ごまめの歯ぎしり」という一語が目に飛び込んできた。

調べてみると「ごまめ」とはおせちに入っているカタクチイワシの稚魚を甘辛く炒め煮したものだそう。

それが歯ぎしり、とは‥すなわち、、

実力のない者・とるに足りない者が、いくら批判をしたところで何も変わるものではないということのたとえ、またそういうことをするものではないという戒め。(ウィクショナリー日本語版 より)

わー‥

ということで自粛期間中はおとなしく自重しましょうかね。勉強して自分の実力を養う方がずっと建設できだ。

世界の中心は

そのむかし蒋介石を相手にせずといった政治家がいたが、コロナの相手もそろそろ飽きてきた。

いやもとより相手にはしてないんだけど、世相が右往左往するもんだから何をするにも不便である。

余談になるけども、この状況に小さいころ雪の日に父の車で出かけた時のことを思い出す。その当時たまたま車が4WDだったので自分たちは雪の弊を受けないのだが、次第に前後の車が動けなくなり結局坂道で立ち往生したのであった。その時母が「ウチだけ四駆でも周りが動けなきゃしょうがないね‥」と言ったのが妙に印象に残っている。

これと同じ原理で誤った衛生観念が盤踞するかぎり、自分一人楽土を歩むことはゆるされないことを今更ながらに痛感した。

与えられた状況で困る困らないは依然自分の勝手なのだが、現実問題、周辺の施設は閉鎖するし、マスクと手洗いを無言で迫る風潮にもそろそろ飽きてきた。

見ているとこうした社会倫理に疑念と違和感を持つ人は少なくないようだ。その証拠に某夫人が外で会食をしたというだけで批難が殺到した。民間でも休日にあそこの公園に大勢人がいた、不謹慎だ病気が蔓延したらどうするのか、と直接言うならまだしも後でポータルサイトのコメント欄やSNSに匿名で告げ口をしあう始末である。

言わずもがなだがこれらは「私だって我慢しているのに」という不満の投影に他ならない。雨の日に閉じ込められた子供が、体力を持て余したあげく陰気になって「○○ちゃんが○○してたよ!」と告げ口をしあうのと同じ原理で、これはこれで健全な生理現象と見るべきである。

したがってそういう行為に走る個人をいちいち取り上げても益なく、非効率である。もう少し因果的な視点で問題の根幹に目を向けると、そもそもが人間をそんな卑小で陰惨な姿におとしめているのは何かということになる。それは取りも直さず、現代の誤った衛生知識じゃないか。

ではその衛生を生み出したものは何か。それは外界探求を根本的欲求に据える自然科学のパラダイムである。さらにその科学を生み出したのは西洋思想の源泉ともいえる、自他分離の観念、我と彼とを真っ二つに分ける二元論である。

俺が俺が、という我。その「我」の境界線をどこに引くか。それこそが大問題なのである。その線をちょっと引き間違えただけで、時に何万という人間を一瞬で死に至らしめる蛮行まで生ずる。まあこの話は少々長くなるのでまた機会をあらためるとして‥。

本来健康に生きる道というのは本人も周りも楽しく生きて、元気よく互いの生の発展を感じさせるもの、お互いが生きているということに快を感じさせるものでなければならないはずである。

ところが現状は真逆であり、ちりぢりに分断された個人が憤懣やるかたなく息を詰まらせている。そうして遠くからお互いの自由でありたい要求を監視し合い、にらみ合い、突つき合う始末である。屈辱だ。むろん全ての人がこうでないことはわかっているけれども、少なからずこういう不健康な衛生観念が巾をきかせるような行き方が本当に人間の進歩なのだろうかと問いたい。

誰も彼もが何か妙だ、おかしい、と無意識では今の衛生観念の欺瞞を看破しているのに、もう一つそこに信が持てないのだろう。もしくは他に良案が思い浮かばないので、仕方なく現状の在り方につき従っているのかもしれない。そこは「カガク的」という言葉の魔力である。

無論中には長いものには巻かれろ式、事なかれ主義もあるだろう。加えて全体の意向を尊重し和を乱さないようにする日本的美徳とも相まって、多くの人が「今」という自由性を見失っている。

そもそもが病菌なんて人類発生以前からいたるところにいる。それをマスクをした、手を洗った、換気をしたからどうなるというのか。今だって無数に体に付着し、鼻からも口からもどしどし侵入しているのが真実である。無菌状態なんてどこの自然界のどこにも存在しない。

それこそ団子を一つ、刺身を一切れ食べたってそこに何万という雑菌がいる。そう考えていくと煮炊きしないものをそのまま口に入れるのは恐ろしいことである。それなら煮沸・滅菌という観念に囚われて、饅頭を茶漬けにしないと食えなくなった医者に範を求めるべきではないか。

しかし真実はいつも事実に現れるもので、その雑菌だらけの中で生活しながらケロッと生きているのが人間の実態である。たとえ当人が頭の中で病菌よウィルスよと震え上がっていても、残念ながら体の方にその必要がなければ何ら発症しない。錐体外路系の働きによるものである。

よしんば発症したところで、人々が病気よ、病魔よと怖れるそのはたらきは何のことはない単なる人体の抵抗作用なのである。咳くしゃみに始まり、発熱から下痢にいたるまで、病症とはすなわち身体の偏りを正し、正常な状態に返ろうとする生体の安全弁であることをおのおのが自覚せねばならない。

この大宇宙の生命は須らく一蓮托生であり、それはある一つの合目的性を有している。身体に必要があるときに周辺の生命体と協力して、鬱滞したエネルギーを振作し抵抗作用を発症する。これが病気と呼ばれる現象の正体である。

このはたらきによって古くなった組織は破壊され、偏った骨格もその発熱によって暫時正される。のみならず、体内に残留する不要な老廃物は下痢、小便、発汗、鼻水といったもろもろの排泄作用によってみんな体外に出されてしまう。

言わばこの新陳代謝の作用によって生きた体は絶えず刷新され、生を全うする道もこのはたらきによってはじめて開かれるのである。たった今もそうやって内外の環境に適合する身心を創造しつづけているではないか。破壊と創造とは別々に存在する真逆の作用ではなく、健全に生きようとする生命現象の両側面に過ぎなかったのである。

ところが全体から分断された局所的知識に囚われると、病症は死を近づけるだけの破壊作用にしか見えなくなっていく。そうしてこれを駆逐することが人類が生き延びるための唯一の道と錯覚し、カガク者を旗手として人類はあらぬ方向に驀進してきたのである。

やがて人間を活かすために追い続けた医学の知識は、気づけば病気を地球の主人とし、人間を病気の機嫌を伺いながら息を殺して生活する召使いにしてしまった。そうして病気の隙間を見つけては、人間がこそこそ怯えて歩く世界に染まりつつある。

ある人は言う。「でも現実に病気で死ぬではないか」と。確かに人は病気で死ぬのかもしれない。なるほど癌も怖いかもしれない。風邪も肺炎も怖いものかもしれない。しかしその人は病気にならなかったら死ななかったのだろうか。

そもそも病気を乗り越える体力や気力がなかったとは言えないだろうか。もしかしたら、病気を怖れる余りもちまえの抵抗力が委縮し、その恐怖心のために死んだのではないだろうか。

あるいは病気を治そうと焦り、処置を誤ったがために自然の経過を乱し、死ななくていいものを人為的に死に至らしめたのではないと、どうして言い切れるだろうか。もしそうだとすれば、果たしてそれは「病気で死んだ」と言えるだろうか。

また別な視点で考えても、風邪をこじらせて重症化するような鈍った体を作ったのは一体誰か。癌を作るような冷たい体のまま放置して鈍重な生活を繰り返していたのは一体誰の責任であろうか。

本来病気を必要とする体というものは、甲の病気を避ければすぐさま乙の病気に罹るようにできている。そういう偏り鈍った身体を正すことをまず考えるべきではないだろうか。

生まれたときはみな敏感で弾力のある身体をしていたのである。それをせっせと50年かけて、癌を作るような冷たく固い身体を育ててしまうずさんな態度や文明の在り方をわずかでもいいから正して行く、そういう道を開拓することはできないだろうか。

またある人は「病気を怖れず人々の接触を再開させろ」という。その論は結構だが、理由を問うと経済を回すためだという。

これもやはり金が主人になって人間を生かしているようである。病菌に追われて生きているのも妙だが、金に人間が生かされているような考えもやはりおかしい。人間が活発に生きているからこそ金も金としての価値が生ずるのであって、人間に力がなくば金もただの紙切れと数字になってしまう。だからこの論にもやはり主格顛倒は否めない。

経済のためではなく人間が主体を取り戻し元気よく生きるために、ありもしない不安を生み出し流行らせる行為はもうやめよと言いたい。

生命はみな一つの宇宙秩序ともいえる合目的性に向かって共存共栄しているのである。この事実を一人一人が本当に覚らねばならない時代がもう既に近づきつつある。

そのために何をすべきか。それは先ずもってみんな自分のいのちに自信を持たなきゃいけない。自分のいのちとは何か。それをまさか5、6尺の肉体と、せいぜい7、80年の寿命をもって我が「いのち」と思ったら大間違いである。

「自分」とは皮膚の皮一枚で外界と分断され、孤立した生命体と思っては誤りである。実際その自分を保っていくためには体内に水も米も魚も野菜も通過させなければならない。いやオレは魚は食わん、肉を食ったら残酷だという者もいるかもしれないが、そんな者でも息をしなければ5分と命が持たない。

現実に自分の肉体以外のものと絶えず接触し、流通を続けなければ何も為すことができないのがこの個体生命というものである。

しかしいのちとは、そんな卑小なものではない。一体自分のいのちとはいつから始まったのか。オギャアと生まれ出た時か、それともへその緒を切ったときか、はたまた母の体に入ったときか、父の体内に精子ができたときか、いやその父母のそのまた両親の中にすでに自分のいのちはあったのか。それはカガク的な追及手段では永久に掴み得ないのである。自己の生命の本体は、自分で覚る以外に絶対に分からないのである。

そういう内なる教養を育む教えが今何よりも必要だ。本当に身体が整い、意識が静止したとき、そこに現前するいのち。それを悟らなければ眼前の不安が去ってもまた新たな材料を見つけては不安になる。その不安だ、不安だ、という意識をまず止めなきゃいけない。「妄止めば、寂生ず」である。

意識の活動水準を下げるためには頭で「意識を止めろ」といくら考えていたって埒が開かない。身体の筋という筋が全部緩まなければ、筋紡錘から絶えず脳へ信号が送られその働きを停止しないからである。そのために身体から余分な緊張を抜き去り、自ずから整うように誘い、その本来の働きに任せきって生きられるよう新たに訓練をする必要がある。

少し論に飛躍があったけれども、兎に角一人一人が意志をもって、自分というものがこの世界の中心であることを自覚すれば、その生命に対する信は今この瞬間から強固なものとなる。

この信を得ればいたずらに恐病の風潮に惑わされることもなく、世間に横行するあまたの世迷い事にももはや流されない、万難不屈の大丈夫に至る道もかくて開かれるのである。

答えはいつも我が身の内に在り、である。一人一人がそういう幸運に恵まれていることを自覚し、たゆまず参究すればやがて必ず流れ着く処がある。そこが世界の中心だ。

臨在は「赤肉団上に一無位の真人あり」と言い、永嘉は「絶学無為の閑道人」と言った。またトルストイは物質現象以前の存在、未来永劫に失われない内なる霊を悟り、その不滅を説いた。

どれも言葉が違うだけで意味する所は同じである。物質の世界がどう変化しようとも不滅の健全さと共にある自分、いや歪みようのない、侵されようのない自分というものが本来の自己である。

なるほど誰も彼もがひょこひょこ得られる心境ではないかもしれないが、一方では誰も彼もが今この瞬間に自覚しさえすれば、そこにそのまま現れる健康の人がある。

外の世界のあくたもくたに追われるあまり、くれぐれも掌中の珠を見逃さないでもらいたいと願う。かくいう自分もよくこれを見失うので、是非ともそのような生き方をという願心を日々新たにする今日この頃である。

そう考えれば目下の時勢も事上磨錬にちょうどいいかもしれない。今日もぼちぼち歩いて行こう。

情報の価値

つい先ごろまでyoutubeのゲーム実況を観るのが唯一の楽しみだったのに、年明けぐらいからいろんな発信者が急に増えだしてなんだか一気につまらなくなった。つまらないだけならいいが、さすがに昨今のウィルス情報の氾濫には気分が滅入るのでしかたなくサイトを開くのを控えている。

いまの世の中は誰もかれもが情報を欲しているようだ。仏教では貪・瞋・痴を苦しみの根本原因として戒めるが、その最初にあるのが貪、すなわち貪りである。

何も服が欲しいとか車が欲しいとかいう物欲だけが貪りではない。どっかに面白いニュースはないか、誰か気の利いたことを言わないか、あの人はこー言った、だがこっちの人はこう言っている、はたしてどっちが本当なんだと延々やっている。

そうやって自分のいまの実生活を自ら捨てて絶えず駆けずり回っていたらそれは立派な貪りである。そうこうする間に自分の目の前の現実の方がほったらかしになり、ぐしゃぐしゃになっていくではないか。洗濯か掃除でもしてた方が近所迷惑にもならないし、はるかに生産性がある。

はっきり言えば「情報」など最初からどれも偽物である。群盲が象を撫でる例え話があるけども、人間というのは誰も彼もが自分の立ち位置から見たものに勝手な見解をつけて語るようにできているのだ。

例えば試しに茶を飲んでみればわかる。茶を飲むと飲んだ時だけ茶の味がする。そこでどんな味がしたか?と聞いたらある者は旨かったと言うかもしれないし、あるいは渋かったというかもしれない、あるいは甘かったという者もいるかもしれない。しかしここで改めてもう一度飲んでもらいたい。

はたしてその「旨い」ということはどこにあったろうか。「渋い」とか「甘い」などという現象が本当にあったろうか。そう考えていくと言葉による現実描写の限界にすぐ気づくはずだ。実体の現象の方は時間にしても規模にしても言語をはるかに超えている。

だからといってがっかりすることもない。真実・真理というものは誰一人として見捨てることなく、いつだってどこにも隠されていない。むき出しになって今も自分の目の前に展開されているじゃないか。そういう観点からいえば世界はいつも平穏であり、平等なのである。

いつの世もそうだろうが、何か事が起こった時に一緒になって騒ぐ人間にはまあ事欠かない。いくらでも、どっからともなく野次馬は沸いてくる。文明生活というのは基本的にエネルギーが余るようにできているもんだから、退屈しのぎがあればすかさず飛び付くようになる。

それも余剰エネルギーの鬱散をはかる生理現象だろうし、人間も自然の生き物であったことは否めない。そんな人間でも訓練次第では境遇に左右されずに静かな世界を生きられるようになるのだから面白い。

頭ではくだらない話にすぐだまされるような輩でも、いのちの方は絶対にだまされない。降っても照ってもその通りのことがその通りに、そのまま展開するだけだ。愚かな頭というのはあっても愚かな生命はない。いのちは太古の昔から未来永劫、完全無欠である。

それ故意識の活動水準を極限まで下げて、いのちとの深いつながりを自覚している者はいつだって事の真偽を正確に見分けることができるのだ。

そういう開かれた目のことを慧眼とか心眼とかいう。

臨済宗の禅僧である大森曹玄老師の『心眼』という本にはそういうことが書いてある。老師がまだお若い時分に関東大震災に遭われた。そのところを少し長くなるが引用してみる。

それは関東大震災のときでした。私は従兄弟の安否を気づかって、下谷の彼の家を見舞ったのですが、そこは猛火に包まれていて寄りつけるものではありませんでした。やむなく上野公園を迂廻して帰りかけると、偶然にも寛永寺坂付近で避難中の従兄弟の一家と逢いました。彼らとともに一夜をそこで野宿して、翌朝、彼と一緒に焼け跡に行き、焼け残った釜を拾って戻りかけた時のことです。

突如、どこからともなく「津波だッ」という叫び声が起こり、群衆はワーッとばかり、われ先に上野の山を目がけて走り出しました。私も釜を投げ出して、群衆とともに一目散に走りました。

空は雲煙に覆われて夕方のように暗いし、鷗でしょうか白い鳥の集団が上野の森を目指して飛んで行きます。たしかに津波の来そうな不気味な状景でした。

そのとき一人の壮年が立ちはだかって、大声で群衆を叱咤するように、

「馬鹿ッ、この近くに海はないぞッ!どこから津波が来るんだい!」

と怒鳴りました。この一声で冷静になってみると、なるほど津波の押し寄せる条件は上野の山下には何一つありません。群衆は悪夢から目覚めたように、ぞろぞろと焼け跡へ引き返して行くのでした。私の徴兵検査の前の年でした。

そのとき、私はしみじみと目覚めた一人の真実の叫びの力づよさを感じました。…

これは現代でも変わらず言えることだろう。東日本大震災の折にも大小さまざまなデマが飛び交ったことを記憶している人はまだ多いはずだ。私の知る限りでも、もうすぐにでも東京に直下型の大地震が来る、などといって地方に転居してしまった人までいた。

当然だがどこに行ったって地震もあれば雷もある。疫病も流行るし不況もくる。それで困るか困らないかは、自分の力量次第なのである。例え火星に行って住んだって、自分自身に煩悶があればその自分からは逃げられない。

これほどしっかりとした自分といういのちを与えられていながら、本来の自己というものに目覚めない限りは一向に主体というものが現れない。そういう者は絶えず時流に流され、人間に生まれながら風に舞う紙屑のように右往左往してしまうのである。

私がお世話になった整体の先生が言っていたけれども、何か事が起こった時でも昔なら「まあちょっと落ち着け」とか「まず座れ」とかいう人が必ずいたという。兎に角、ひと呼吸おいて冷静になれ、という「できた」人物がそこにもここにもいたというのだ。しかしながら今はみんな動いてしまっているので、周囲の動揺に冷静に気づける人物がいないことを憂いておられた。

野口先生も生前「こうも頭で生きる人が多くなってしまった」とか「気のしっかりした人がいなくなった」とおっしゃっていたそうである。またある所には「どれが正しいかは自分のいのちで感ずれば、体の要求で判る」とも記してある。これが判らなければ「鈍っている」と言うべきで、体を整え、心を静めれば自ずから判るのだと続け、身心の感受性を鋭敏に保つことの重要性を繰り返し説いている。

引用にあった「壮年」氏も、右往左往する群衆の中から必死こいて情報をかき集め、深慮のあげくに声を発したわけでないことは明白である。いのちの根源からこみあげる「直感」より発せられた一声であり、まさしく魂の叫びである。

これに類するものとしてキリスト教文化圏にはスティル・スモール・ボイスという概念があるそうだが、理性の過剰亢進によって意識が混濁しやすい現代人からしたら、こうした幽かな「魂の声」や「神の声」を聴くことは困難を極める。

逆に言えば、多忙な現代を生きる今だからこそ、自主的に意識の鎮静化に努める時間を持つことが求められるのではないか。野口晴哉も「意識がつっかえたら、意識を閉じて無心(無意識)に訊く」と言い、ここでも心を落ち着けて行う瞑想行の必要性を暗に示唆しているように思われる。

「落ち着く」というのは一見すると体とは別個にはたらく精神力のように思われるが、その実、精神を支える土台となるものは身体に他ならない。換言すれば落ち着きとは即ち身体能力なのである。

話を病気の方にシフトすると、結核でも克服して丈夫になっていく身体もあれば、風邪を乗り越えられずに死ぬ身体もある。これは学説ではなく事実である。

つまり生きた人間が持つ抵抗力ということを度外視したまま健康も治病も語れないはずなのだが、現実は無機的な研究室の試験管の中で病原菌の研究ばかりが盛んである。その結果病気に怯える知識は蔓延したかもしれないが、個人を如何に理解し丈夫に導くかという人間探求の道は頓挫したままである。

忘れないで欲しい。生きた人間は外境という風に吹かれて漂うだけの木の葉ではない。訓練と修行のやり方次第では、強い意志と主体性を確立して世界を幾重にも塗り替える力を持つ、可能性に満ちた稀有な生命体なのである。そういう人間に生まれたという僥倖に気づかないまま、真剣に悩むことも心底苦しむこともしないでただ飯を食って生きているようならこんなもったいない話はない。

先ほどの落ち着きの話と重ね合わせても、本当におそるべきは環境や外的ストレスではなく我が身体である。身体性の低下こそが諸悪の根源であり、身体性の再考、再構築こそが全人類を上げて取り組むべき焦眉の急なのだ。

いま横行する過剰な情報も発信者の身体性以上のものは出てこないだろうし、受信する方だって身体性が低ければその低い程度の情報に飛びついて延々と踊らされるはめになる。

そう考えると九年間も壁の前に座り続けただけで名前が残った達磨大師などは、やはり偉かったのだ。外界からの一切の刺激をそのまま享受し、またこちらかは無駄な言葉を一切発しない。禅の象徴ともいえる黙の精神の強烈な体現である。

意図的に一切の情報発信をしなかったということが逆に強力な主張に化けて、それが1500年も語り継がれるというパラドックス。それこそ水疱の如く出たと同時に消えていくSNSのつぶやきの対極である。ありがたいことに答えはいつも優秀な先駆者たちによって示されている。その教えを受け取れるかどうは個人の器量と努力に委ねられるのだが。

ここまでくれば何もあくせく出かけて行って世界を取り変える必要はない。自分を治めれば万事収まるのだから。静座して深い息をしよう。そして茶でも飲んで、無用な買いだめと動画のアップのをやめてくれ。いやだから俺も黙って深い息をすればいいのか。自分の掘った穴に落っこちてしまった‥。

結局いのちの真相は

しばらく前からタイトルに「いのちの真相を求めて」とか書いてあるが、実のところもう求めていない。気がついたら知りたいと思っていた自分は何処かへ行っていた。

この世界がどうなっているのか、自分とは何か、こころとは何か、四苦八苦しながら奮闘しているうちに、「そうか」という体験をいつのまにか通過して、その体験したことももうどこにもない。

30歳の頃だったが当時は整体道場と太極拳の教室に並行して通っていた。その太極拳の練習中にお世話になっていた先生に「お前は心はないのか!?」と詰め寄られ、数秒考えた挙句「‥わかりません‥」と答えた。するとそこにいた古いお弟子さんも交えて「コイツ心があるかわかんないんだって!」と笑われたことを思い出す。

自分としては慎重に答えたつもりである。こころとは一体何か、それがわからない、わからなかったのだ。だが今は答えられるようになった。ありがたいことである。

断っておくと、心理学で扱う「心のしくみ」は現在もさまざまなロジックが構築されているので、すべての学派の説を体感的に理解するにはもっと時間がかかるだろう。

しかしそれとは別の次元で、生命の源泉としてのこころなら、はっきりと捉えられているのだ。人にどういわれようと、自分の中には疑いようのない実感がある。だからもういのちの真相は求めていない。自分は。

しかしこれを人に伝えるとなるとむずかしい。たいていは現象化した実体の方に掴まって、実体以前の本体であるこころの方になかなか辿り着けない。

しかしこういうこともよく考えてみれば、理解者を求めようという心がすでに貧しいのかもしれない。苦労して美味しいものをようやく見つけたのだから、自分一人で味わっておけばいいではないか、と思わないでもない。

だけどもお釈迦さまもそこで本当に苦労された。36歳で自己の真相を明らかにされた。そこから何の苦労もなく平穏な世界を生きられたか、というとむしろそこからが本当につらい修行の連続だった。人々の苦しみをぬぐおうとして、その道の途上で肉体の方が尽きてしまった。

以来仏教は数えるほどのきちっとした指導者が実人生の責め苦に負けずに生ききってこられたからこそ、かろうじて種切れしないで現在までつながってきた。これは理想主義の観念論ではなく、まぎれもない事実である。

もちろん途中で変質したもの、道から外れたものも傍系直系を含めてあまたあったろうけど、そういう中に本当にわずかだけども立派な修行者が出たおかげで、現在でも我々がその教えの恩恵に預かれる。だったら、凡人が同じことをやろうとするならよほど気を付けないといけない、とか思ったりもする。

こころを明らかにすれば世界を覆っていた無明の蓋は一掃される。するとどうなるか。あれほどどうにかしなければ、と思っていた世界は整然とし、本来の姿を現す。最初から世界は泣きも笑いもしない、平凡そのものである。平凡を乱すものがあれば、それは自分の意識が作り出した雑音に自分が踊っているだけである。

このことを心底感得すれば先ずはひと区切りである。ようやく自分の人生のスタート地点に立てたと言っていいと思う。本当の答えは意識以前の感覚にこそある。

何も科学の進歩を放棄しろとは言わない。科学は進歩すればいい。物質を駆使して、いのちの要求を満たすための道具たり得るからだ。

しかし科学の進歩の先に「幸福」があると信じたら、これまでの歴史が示したように何度でも失意のどん底に落ち込まねばならないだろう。

事実といわれる現象、その物体をうごかしているこころと呼ばれるエネルギーは科学ではわからない。認識以前の「何か」、それがいのちの真相だからである。それを誰にもやさしく説ける人があれば、その人は真の宗教者である。

一方でそれは当人が強く求めなければ得られない。やはり生を受けた以上一度でも疑念を抱いたなら、誰もがいのちの真相を求めるべきではないか。それこそが本当の人類進歩の道だと思う。

自己実現の前に

久しぶりにせい氣院のサイトにページを追加した。「自我と自己」。

もとを正せば「自己実現」に関するページを作りたかったんだけど、それを書くためにはその実現する「自己とは何か」を説明しないといけないことに気づき、さらに自己を説明するには「自我」について書かなないと、と縷々必要性が生じてきて「自我と自己」を先に書くことにした。

河合隼雄先生の『ユング心理学入門』や『影の現象学』で使用されている図をもとに、まあまあいい感じの作図もできたのでまずまずの解りやすさに仕上がったと思う、……と思います。

ともあれ自己実現の方も早晩アップしたいので妻とこつこつ作業を続けている。

自己実現という言葉には一つ思い出がある。まだこの仕事をはじめたばかりの時に相談に来られた方が、問診票の〔希望欄〕に「自己実現」と書かれたことがあった。

内心「ああ、それはすばらしいな」と思ったけど、その当時はそれが何だかわからなかったのだ。わからないけれども一所懸命やってればなんとかなるだろうという素人の情熱頼みで、とにかく頑張ったのを覚えている。

自己実現と言った場合一般的には「夢がかなう」といったようなニュアンスが濃いように思うけれども、これがユング派の心理学の中に留まった場合、その意味はだいぶ異なる。

もとを正せば「個性化の過程(process of individuation)」という、個人が他の誰でもない「自分自身になっていくこころのプロセス」を指した言葉であった。それがアメリカに渡っていつの頃からか「自己実現(self realization)」という言葉に成り代わり、やがて日本語としても定着したようだ。

これはアメリカン・ドリームというような、即物的で空虚な成功主義を創出したいかにもアメリカらしい語彙の変質のように思える。先にも述べたように原初的な意味での「自己、実現」とは、意識的な努力や勤勉によって富や名声を勝ち取るといったたぐいのものとは一線を画する概念である。

元にかえって個性化の過程といった場合、それは本当の意味での「個性」を確立するために、危険を顧みないでこころの深層に向かって掘り進んでいく、という極めて内的な修養的活動を意味する。

これは生を充実させることで死を豊かにしようとする、宗教行為の原型にも通じるものである。さらに言えばこころの奥底から湧出する純度の高い生命の要求に従って自分自身になっていく、「人格の変化と成長の途上」に重きを置く厳粛な態度とも言える。

ここで留意すべき点は個人が人格の変容と成長に向かって行くこころの動きは、必ずしも現状の社会に認知されるような普遍的価値観に則しているとは限らない、ということである。というよりは、むしろ一般に共有される成功の概念や社会的価値観に離反する形で「個性化」は現れることの方がずっと多いように思う。

現代的には「不登校」などがその典型ともいえそうだが、これを安易な見立てで「不登校=個性化」とみなして、無条件に容認するような態度は戒めるできである

多くの場合、個性化には長い道のりと独特の苦痛を伴う。子供が真の個性化の道を歩むには当然のことながら周囲の関係者(多くは保護者や養育者といった親族や教師、あるいは級友など)を巻き込みつつ、その葛藤を共有する人たちの惜しみない共感と協力が不可欠だからである。

少し脱線したが、よく考えれば現世で財を成すことや社会的な成功を収めるという行為はそもそもが他人の作った価値観に依拠するものである。生まれてきた子供が「俺は大臣になるぞ」とか「他を押しのけてでも成功するのだ」などとは言わないもので、人間といえど一生物である以上、本源的には「ただ生きる」という要求が在るのみである。

それも分解すると種族保存の要求と自己保存の要求にわけられるが、要約すればそれは子孫を創造することと、そのために毎日食べていくことになる。

さまざまな欲求をずっと根本まで遡っていくと、究極的には花と団子しかないのが人間なのである。

そこに個人的な(個体独自の)感受性傾向というものが反映されて、まさしく独自の人生が展開されていくことが「自然な」生の営みではないだろうか。

ところが実際問題人として生きていくためには、個人的な感受性や欲求に基づいた生き方「だけ」を前面に押し出していく訳にもいかず、必ず外界(当世の価値観や宗教的な教義、政治思想など)との親和性を要求される。そうして当人は自身の内的な欲求と外的価値観の狭間で呻吟しながら生きることを強いられるのが常である。

そこで自分の裡から湧き上がってくる情動とすっぱり縁を切って(そのようなことはできないのだが、そのような「つもり」で)、外界適応に徹して生きる道を選べば一面的には安定を実感することだでき、まっとうに生きることができるかのようにも思われる。

しかしながら生きた人間というのは科学者が論じる非人間的な人間とは異なるものである。実際は複雑多様なこころをもった生体であるために、外界適応に徹し過ぎたあまり、意識との連絡を絶たれたことで積りに積もった「裡なる声」の反逆ともいえるような(ある意味で治癒的なはたらきとも考えられる)症状が現れることがある。

ノイローゼなどはこうした内的な無声の声が自我を圧迫して起こる、非自覚的な葛藤状態といってよいように思う。

いわば自己実現がはじまる一歩手前で逡巡している「待ち」の時期であり、自身の無意識の活動に畏れ、足踏みしているような体勢ともとれる。

俗にいう「生みの苦しみ」などという言葉もこのようなこころの性質に照らし合わせて考えると、そのメカニズムとの整合性と相まって味わい深く理解されるのではないだろうか。

少し長くなったが以上の内容をもってしても、世間で期待されるほどに自己実現が全面的に「善い」ものではないことが想像できるのではないだろうか。

もちろん巨視的には善としての顔も持ち合わせてはいるだろうが、その実体は善悪を超越した破壊的創造性を発現するダイナミックな精神活動であることを心に留め置いておく必要はあるだろう。

さもなくば無意識の強大な力を前にした途端、急激に自我の安定性が脅かされて精神疾患の様相を呈するやもしれないし、あるいはそうした危険性をそれこそ無意識的に避けようとした結果、意識の枠内で浅薄な理想論をあれこれ論じるだけの「自己実現ごっこ」に興じて終わる例も少なくはないのである。

まだ後者の場合は比較的安全な自我の防衛手段ともいえそうだが、このようなものが真の自己啓発や心理療法としてひろく世間に認知されることは、現在苦悩の淵にある多くのクライエントの可能性を摩滅させることになりかねず、大変に惜しいことである(かといって、あまり「本モノ」が流布するのも問題かもしれないが)。

ホームページには上に書いた内容も踏まえつつ、もう少し射程を広げて書こうと模索している。自分の体感的直感も織り交ぜて書くことになると思うので、少々信憑性は犠牲になるかもしれないが、人間のこころの成長モデルについて少し踏み込んだ内容にできたら面白いと思っている。

フランクル『夜と霧』

ようやくフランクルの『夜と霧』を読んだ。

知らない方もいると思うので一応概要を書いておくと、これは一人の心理学者(医師)によるナチス強制収容所の体験記である。そしてそこから醸成された人間心理に対する一大省察によって全章が結ばれている。

ちなみに『夜と霧』というタイトルは日本の翻訳者の手によるもので(なんという名訳‥)、原題は『強制収容所における一心理学者の体験』というものだそう。

最近では東日本大震災の折に被災された地域の方々にも多く読まれたらしい。生死の際から奇跡的に生還した人の体験記録が、静かでありながらも力強いこころの灯になったのかもしれない。

当然ながらかなり深刻な内容だが「高校生の時に読んだ」なんていう方も結構な割合でいるみたいで、40過ぎてから手にした自分に向かって「今さらですか‥」と思ったりなんだり‥。

まあとにかく、人間の心理、というか「人」に直接たずさわる職業についている人ならば、できるだけ早い段階で読んだ方がいいなと思った。

何しろ人類史上最悪級と言われる境遇の中で、「普通の人々」がどのように変貌し、いかに振舞ったかという貴重な、本当に貴重な体験記録なのだ。

本書にちなんでいろんなことが書けそうだが、何よりもまだ読んだことがない方には是非読んでください、と言いたい。

読みながら終始いろんなことを考えたので、所感についてはまた改めて書いてみようと思う。ひとまず今日はここまでで。

病気はからだの自然良能

2003年に『風邪の効用』がちくま文庫に入ってから今年ですでに17年経っている。

10年ひと昔という言葉に照らせばもうふた昔は前になろうかという話だが、当時は大手書店では平済みの状態が続き、まあまあのセンセーションをもたらしたようである。そこから比べれば「野口整体ブーム」も今はやや小康状態になったとみるべきだろうか。

それにしても野口先生の存命中は「病症が身体を整えている」というだけで、かなりのトンデモ説として非難されたそうである。

考えてみれば往時の日本はペニシリンやストマイを西洋から流入したおかげでようやく死病を克服できそうだと安堵していたさ中であった。

一見すると高度な合理性を提示する科学的医療の威力に目がくらみ、これこそが絶対的な善として信じ込んでいる人が大半の時代だったのだ。

その時にいち早くその限界性と問題点を指摘した慧眼は、もっともっと高く評価されるべきだと思う(この際評価などどうでもいいかもしれないが‥)。

現代はそこからまた少し科学の方が進んだので、例えば熱が出るとその熱で症状を引き起こしている病原菌が死滅するのだ、という解釈も所を選べばそれなりに受け入れられるようにはなってきた。

ただ注意がいるのは「病菌さえなくなればいいのだ」という見方に引っかかると、やはりそれは善悪の二元対立の世界に留まることになってしまうことだ。そうであるうちはどうしても是非善悪に苦悩する自我が取り切れない。

病菌自体の存在も地球規模というか、宇宙的視野でとらえようとすると、善も悪もない「ただそのようにある」という一大活動体の一部を切り出して見ているだけである。

だから苦しければ苦しい、痛ければ痛い、というそのことで終わっておけば、それも宇宙全体の健やかな動きとして自得できるときが来るのかもしれない。

科学を基盤とする近代的な価値基準に生きる人たちに対して、ある種のコスモロジーの転換を迫ろうとするのが野口晴哉の説いた整体法という世界である。

このような視点は別に真新しいものでもなく、とりわけ東洋ではおなじみ、といえばおなじみで、例えば禅という世界がまず一つそうだし、易の天行健もはるか昔から同じことを言っている。

是非、善悪、上下、苦楽といった対立概念はよくみればみな個人の裁量に過ぎないのである。そして同じ人でも昨日と今日ではもう変わってしまう。

そういう不確実な思惟や思索をもとに世界を理解し、コントロールしようとあくせくするより、「ただそのようにある」実態のほうに自分のいのちをそっくり浮かべて漂うな気持ちになってみたらどうであろうか。

親鸞がやったのはまさしくそれである。

もしも「唯一絶対」というものがこの世にあるとすれば、それは今こうして展開する「いのち」だけなのだ。

そこに信を置けるようになるまで自己を鍛錬しようというのが整体法の説こうとした道である。易経の自彊不息も同じで、そういう精進のありかたを一語で示している。

せっかくこうして整体法に触れるのだったら、しっかりとパラダイムシフトをしてその髄を味うべきだ。

病気はからだの自然良能である。

その病気も宇宙の健全な運行のいち側面である。

健全な動きの中にある一つの姿を人間が切り出して、その都度「良い」とか「悪い」とか言っているにすぎない。

そういう観点で『風邪の効用』にもう一度目を通していくと、整体法はもとからブーム足り得るようなものではなく、事実に即した覆しようにない生命観であり古今不易のものであることが実感できると思う。

とりわけ巻末の「愉気について」は圧巻で、風邪やその他の病名に拘泥して、不安に駆られたままあくせく治そうとするのではなく、先ず「病気しているその心を正す」ことが肝要であると説いている。

この辺りのところが本当に真髄といっていいのかもしれない。

ただしここからが難しいのだが、これをさらっと信じられる人と、どうにも受け入れられない人がいる。

後者のような人を「常識が豊かな人」というのだが、実のところこういう人たちのおかげで整体がこの世に生まれたと言えなくもない。

よくよく考えれば教義というのは「受け入れられない人」がいるからその存在価値もあるわけで、みんなが「そうだ」と信じていたら、今さら改めて説く必要もない。

キリスト教も仏教もいつまでもなくならないのは、その愛も慈悲も悟りもなかなか実現しないからに他ならない。

そういう世の中を「健全」に生きていくために、己の身体の感覚に問いかけながら一歩一歩あゆんでいこう、と野口整体は言っているように思う。

『整体入門』も『風邪の効用』も一般書の中に紛れ込んでいるのでうっかりすると見過ごしてしまいそうだが、その内容は教育、医療、宗教を分け隔てすることなく人間を全一的に導くための示唆に富んでおりその功徳は計り知れない。

折に触れて読むといつも偏りかけた自分の心の姿勢を正される気がする。これが本当の整体法なのだろう。