木に学べ

宮大工の西岡常一さんの話を一冊の本にした『木に学べ』(小学館)。伝統の職人による木と日本古来の建築、そしてそれにまつわる周辺のお話で、現代文明の在り方を当然と思って生活する我々に内省を促す内容だ。

木に学べ

全編どこを切っても含蓄の深い話ばかりである。その中でもわたしが最も気になったのは下の引用部。

自然の木と、人間に植えられて、だいじに育てられた木では、当然ですが違うんでっせ。

自然に育った木ゆうのは強いでっせ。なぜかゆうたらですな、木から実が落ちますな。それが、すぐに芽出しませんのや。出さないんやなくて、出せないんですな。ヒノキ林みたいなところは、地面までほとんど日が届かんですわな。

こうして、名百年も種ががまんしておりますのや。それが時期がきて、林が切り開かれるか、周囲の木が倒れるかしてスキ間ができるといっせいに芽出すんですな。今年の種も百年前のものも、いっせいにですわ。少しでも早く大きくならな負けですわ。木は日に当たって、合成して栄養つくって大きくなるんですから、早く大きくならんと、となりのやつの日陰になってしまう。日陰になったらおしまいですわ。

何百年もの間の種が競争するんでっせ。それで勝ち抜くんですから、生き残ったやつは強い木ですわ。でも、競争はそれだけやないですよ。大きくなると、少し離れてたとなりのやつが競争相手になりますし、風や雪や雨やえらいこってすわ。ここは雪がふるいからいややいうて、木は逃げませんからな。じっとがまんして、がまん強いやつが勝ち残るんです。

千年たった木は千年以上の競争に勝ち抜いた木です。法隆寺や薬師寺の千三百年以上前の木は、そんな競争を勝ち抜いてきた木なんですな。(『木に学べ』pp,15-16)※太字は引用者

少し長くなったけども、いわゆる自然淘汰の摂理を著者の職業的な体験を通じて語られている。

こうした淘汰作用に人間味を加えた表現が「生存競争」ではないか。しかしもう少し冷静にみていくと、これは競争というより適応と言うべきかもしれない。

芽が出せないときは出ない、けれども環境が発芽を許せば出てくる。努力したからそうなったわけでなく、タネの内と外が同調して自然(じねん)にそうなるのだ。

芽の伸び方によって早く、高く茂っていく木は伸び、日陰になった木は朽ちて菌類の温床となり、やがて土に還ってまた他の生き物に化けていく。

こうして無限に循環する生態系を「競争」とみるのは人間の視野狭窄かもしれない。もう少し公平な見方をすれば、それぞれのタネがその個性に応じた生を全うするだけなのだ。

これによってその種(しゅ)はより環境に適応した個体だけが命を繋いで存続していくことになる。

こうした淘汰と適応の相克の狭間で生きているのが地球の生命体であって、人間と言えどこの作用から遊離して生きていくことはできないのである。

しかしながら、いつの頃からか人間はこうした自然の摂理をコントロール下に置こうと努めて知能を働かせてきたのだ。

そうして個体生命の生存率を高めるために発展してきた方法論の一つが「科学」である。科学技術というのは一般に外的環境を分析によって理解し、これを自分にとって都合のいいように再構築すべく活用されてきたのである。

これと対照的に、外界になるだけ手を加えず身体の適応能力を最大化して個体の生命を全うしようというのが整体法の根本理念である。

よく誤解されていることだが「体が整っている」ということは、肩の水平や骨盤の正対称といった幾何学的均衡をいうのではない。「整体」とは刺激に即応して再適応がはかられる、弾力に満ちた身体のことを指している。

これを裏付ける説話として次のようなエピソードがある。野口先生の存命中に行われた整体指導者の資格を付与するための段位審査のテストにおいて、「整体操法を行う目的は何か」という設問があったそうである。これに対する解答の一つが「感受性を高度ならしむる」であったという。

自然界は感受性の鈍ったものから姿を消していく。

だから丈夫とは何か、それから健康と何か、といった場合に一般の感覚と整体法の考え方にはずいぶん乖離がある。

「丈夫」とか「健康」という目指すところの定義の確認から出発しないと、整体指導という共同作業は成り立たない。

先にも述べたように弾力と適応作用の保持というのが整体指導の唯一の目的で、これは科学的医療からするとほぼ死角になっている。

これは現代医療と整体法のどちらの方が優れているかという卑小な話ではなくて、それぞれの持ち場、技術が使われる枠組みをはっきりさせようという思考態度だ。

言うまでもなく整体の方が圧倒的にマイノリティではあるけれども、病気の原因を身体の内的事情に求め、また病症に生命保全の合目的性を認めるスタンスは、コロナの対応で閉塞感に悩まされている現代にこそ公正な評価を下す必要があるだろう。

旧来から野口整体を前近代的(≒非科学的)な迷信として軽視する向きもあるけれども、本来の整体法のパラダイムは後に発生したニューサイエンスと同様、西洋近代から急成長した自然科学の補償に位置している。お互いに理解を深めつつ補填、補完していくことで頻発する感染症の対応策にも新たな視点と展開が期待できると思われる。

このような観点に立つと、今から千年以上も前に人間の知恵と技術、そして自然の妙機を組み合わせて法隆寺を建造した飛鳥時代の技法は、科学至上主義の限界に立たされている我々に多くの示唆をもたらすと言えそうだ。

タイトルの『木に学ぶ』というのは、換言すればいのちに学ぶということである。今の自分の脈にも息にも、いのちのリズムは正確に刻まれている。心が自然なら人間と言えど自ずから整うようにできているのだ。

いのちの秩序から学び、そこから技術を生じでき上がった整体法にも、千年の風雪に耐え力が具わっている。その力に気づき使いこなせるかどうかは私たち一人一人の感受性にかかっているのだ。

事故

家から三本前の辻は車道になっている。どういうわけかこの道はしょっちゅう事故が起こる。

ちゃんと数えたわけではないけれど、だいたい1、2か月に一回は車かバイクが事故を起こして傍らにパトカーが止まっているのを目撃するのだ。

今朝もあったのだが車と原付が接触したらしく、どういうわけか車の方が横転していた。

俗に「魔の交差点」とか「魔の時間帯」という言葉もあるように、事故が起こるには起こりやすい環境や条件があるようだ。

またこういう外的な条件とは別に、身体や心理の方にも事故を誘発しやすい内的な条件というものはある。

例えば今日みたいに週末に雨が降り冷え込んだ後でさーっと晴れて気温が上がったような場合、事故を起こしやすい。

体が余分に動的になって上気するのだろう。

こんな時に自分自身がいつもと違う「妙な感じ」であることが事前に分かれば事故を防ぐ手立ても生じてくる。

ところが現代のようにのべつスマホをいじっているような気ぜわしい状態だと、こういう自分の内的な感覚が解らなくなる。これが内的要因で、どちらかと言えば怖いのはこちらの方である。

養生の基本は「意識を鎮める」ことにはじまって、最後もここに帰る。

それを思えば現代ほど坐禅や整体法といった身心修養の必要な時代もないだろう。

とは言いながら、こういうことも昔から言われているもので道は足下にありといえども実践する人は極めて少ない。

いつものオチだが人のことではなく禅も整体も自分がやることなのだ。さて今日の自分、今の自分はどうであろうか。

こればっかりは人に尋ねても、ググってもわからないのである。外に向かう意識活動が止んだとき、はじめて自分の感覚が生ずる。そして自己の本当の姿もここに現れるのだ。

自己を見失うと事故に遭いやすくなる、というのはシャレにもならない話だが、「体が整っている」ということの功徳は知られていないだけで実は計り知れない。

さて今日の自分、今の自分はどうであろうか。こういう時間を持つことが人間にとって最高の贅沢なのだ。自分の目はいま本当に覚めているだろうか。

尋常小学校

子どもが6さいになり、4月から小学生になる。

そんなタイミングで夜眠る前か朝起きたときに小学館から出ている尋常小学校の文庫本を一緒にポソポソ読みはじめた。

内容としては戦前まであった修身という授業に使われた教科書がベースになっている。

人間の生き方や道徳にまつわる話の短編集で、日本史上の偉人だけでなく外国の人物まで例に挙げて、人間の徳行というものを文字で学ばせるのだ。

こうして書いていくと「そもそも人に道徳を教えられる人間だろうか」と自分に突っ込みたくなるけれども、そこは自分の勉強のために子どもに付き合ってもらうという体(てい)で収めている。

実際読んでみると道徳観念の薄弱な自分には真面目に勉強になる話が多い。日本国内の偉人のエピソードだけでも知らないことだらけである。

目次から抜粋すると、素直な心を持つ、自分を慎む、礼儀を正しくする、夢を持つ…といった幼児教育の王道とも言えそうな直球フレーズが縷々続いていく。

現代社会は人心の興廃、モラルの低下などということが叫ばれて久しいが、その要因の一つとして戦後にこの修身(道徳)の授業が消失したことも無関係とは考え難い。

言わずもがなだがGHQの敷いた文教政策の余波は戦後70年以上経った現代の義務教育にも踏襲されているのだ。過激な言い方をすればそれは愚民政策の典型であり、日本の弱体化を狙って放った終戦後の見えない兵器である。

そこに日本人のマジメさと全体一致主義が加わり、さらに変革や意見の衝突を好まない穏便な性質が微妙に組み合わさった結果、その兵器はいまや国産品まで混在する据え置き状態、精神的な戦後復興は遅々としてはかどらないのである。

はかどらないどころか他人の掘った落とし穴に堕っこちた上に、今度は自分からその穴を深くして泥まみれになっているのだから困ったものである。

まあそれはいいとして。

前掲書の中身はなかなか盛りだくさんである。先ほどの抜粋に続いて、一生懸命働く、とか、つらさを乗り越える、思いやりの心をもつ、みんなのために、など当たり前といえば当たり前の話だが、「働いたら負け」とか「そんなの関係ねえ」といった言葉が冗談としてまかり通ってしまう現代にあってはむしろ前衛的である。

このような学校で行う「文字」や「言葉」の教育だけで人間が作れるか?と問われればそれにはもちろんノーと答える。

だからといって現代式の、既存の学問知識の切り売りに特化した教育を是認し続けていいとは全く思わない。

当然だが一人の人間が育つにはその間にさまざまな時間と場所で多くのコミュニティに接触する。

そうした中で幼児期から思春期に深く関わる義務教育の9年間だけ見ても、学校の占める比重は高い。もちろん学校が全てとは言わないが、学校で過ごす膨大な時間を軽視することはできないのである。

そうは言ったところで文科省はおろか、いち小学校の方針だって一人の人間の主義主張で変えることは難しいだろう。

そういうわけで家庭内でポソポソ読んでいるところに話は戻る。

ところで今アマゾンで「尋常小学校」を検索してみたら、意外にもこの戦前の教科書関連の新刊本が数冊出ているではないか。

それだけ関心を持つ人は増えてきているのかもしれない。戦後の科学至上主義と知識偏重教育に対する揺り戻しだろうか。

何であれ人様のことはともかく、勉強とはつまるところ自分のために自分がやるものである。

1日せいぜい10分、15分だから子どもと二人で一回通読するだけでも小いち年はかかるだろう。子どもには申し訳ないがお父さんの趣味に気長に付き合ってもらうつもりでいる。

治癒までの距離

結婚する前の妻と単発の気功セミナーに行ったときのエピソード。

その時の50代とおぼしき講師がすこぶる行動的な人だった。若い時分から勉強のために台湾にも行くし、インドにも行く。そして話が興に乗って来たあたりで「今年アメリカで開催されるヒーリングセミナーにみんなで行きましょう!」と言い始め、参加者一同閉口したところでお開きとなった。

どうも話を伺っていると、成育歴から何からいろいろあった方で一筋縄ではいかない苦労人のようだった。

これまでの臨床経験から学んだことは、心理的な症状の重い人ほど治療のためにあっちに行ったりこっちに行ったり、長距離を移動する傾向がつよい。その中でもインドは人気スポットである。

とはいえ、遠くに行ったから治るかといえば、勿論そんなことはない。

本当は近所の臨床心理士のもとで地道にカウンセリングでも受けた方が費用対もいいし、治療もはかどるかもしれない。しかし問題の大きい人、傷の深い人ほどうかつに傷口に手を付けるわけにはいかない。

心理療法は劇薬である。治そうとしてかえって傷が深くなる可能性もあるので、時間をかけて外堀から埋めていくのが定石と考えられている。

心でも体でも本当に治るときはかなりきつい。

クライエントもそれを知ってか知らずか、最初は問題の外周を遠巻きにぐるぐると廻り続ける。そうこうしてる間に機が熟したと見るや力のある治療家を自力で探し出し訪れるのである。

そう考えていくと、外国こそ行ってないが横浜から毎週片道2時間かけて熱海に通い、奈良まで7泊8日の山岳修行に行った自分もまあまあの重症患者かもしれない。

そんな自分も最近は地元から離れることは減り、その辺はおとなしくなった。知らない間にほうぼう治ってきたのか、老けて腰が抜けたか、治療から逃げているだけなのかは判らない。

少し角度を変えて考えれば、臨床を通じてクライエントと一緒に互いのこころを洞察していく作業は実は大変な旅路である。こころは一番身近にありながら、最も遠い、広大な世界といっていいだろう。

そのこころを離れて生きている人は一人もいない。世界中どこへ行ったって、自分のこころに環境が映し出されて生活が生み出されていく。

そう考えれば誰もがはじめから治療の道を生きている。ことさらに治療家のもとを訪れる必要性も疑わしくなってくるが、自分をそこまで連れていくものはやはりこころの作用なのある。

換言すれば、私の中にいるもう一人の〈わたし〉。大切なのは物理的な移動距離の長短ではなく、私と〈わたし〉との距離感が治癒の鍵を握っているとも言えそうである。

気持ちに余裕のある時は積極的に私の中の〈わたし〉と連絡を取るのもいいだろう。外界からの情報をカットして一人ぼんやりしていると、だいたいは向こうからやって来る。

ほんの少し勇気を出して〈わたし〉との距離を縮めてみると、この無二の親友は自分の宿敵にもなれば、最高の名医にもなる。いつだって答えは外ではなく中心に居て、じっと息をひそめて自分自身の来訪を待っている。

この中心である〈わたし〉は、見ようとすると途端に離れてしまう。見るのをやめると、見ている本体がすでに中心であったことに気づく。こうして考えていくと、病気と治癒は一心同体であり、最初から「距離」などなかったのである。

裡なる感覚

ニューズウィーク日本版に掲載された大江千里氏のコロナワクチン体験記を読んだ。なかなか興味深い。

ニューヨーク在住の同氏がワクチンを打った後の反応について時系列で細かに綴ってある。摂取した晩に重度のアナフィラキシーショックで苦しんだが、免疫抗体がなくなる3ヶ月後には「もう一度受ける」と結んでいる。「科学を信じる」からだそうだ。

人物としての大江さんは昔から好きだが、科学に対するこのような態度は科学的であるとは言い難い。科学はイデオロギーではないのだから、もとより信じたり疑ったりするような対象ではない。事実の分析を積み重ねて外界の理を実証していく態度であり方法論なのだ。

公平かつ客観的態度で検証した結果「そのことはそうなっている」ということが判る、ただそれだけのモノである。

だから実証主義の科学を「信じる」という言葉には違和感を覚える。その背後には大自然の複雑性に対する怯えや不安があるようにも思える。人は本当に信じている事に対し、わざわざ「信じている」とは言わないものだ。

因みにこれもよくあることだが、既成の科学に実証された事だけを信奉して未科学を否定するという態度も非科学的である。これは疑似科学というべきで、似て非なるものだ。

しかしこうしたあり方は現代の主要先進国と言われる国々のスタンダードではないかと思う。

未来へ向けて実証的なデータを集めるために、今生きている人間の命を未知の危険にさらす。こういう蛮行が「医療」としてまかり通っているところに科学至上文明の陥穽がある。

アメリカはヨーロッパの風土から合理主義と開拓精神が凝縮されて出来上がったような国だ。合理性を過剰に優先すれば、いきおい感情や情動は下位に敷かれやすい。しかし感情は意識されなくとも、潜在意識化において力強く人間を動かしていく。

科学を否定しているのではない。見えざる感情につき動かされて科学が真の科学性を失っていることに気づく必要を説いている。

生きる、死ぬ、こういうことに動揺があるうちは物事の実態がその通り見えない。研究方法と結果をみる目にどうしてもバイアスがかかるからだ。もっと冷静な心を養い、事実を正確に見据えることで科学は真の力を発揮する。

すると神秘主義と科学も矛盾しない。「自然の法則が神であった」というアインシュタインの気づきは2500年前の釈迦の悟りと何ら変わらないのである。「事実以外に権威はない」と言ったヒポクラテスも同じである。宗教と科学は真理に向かう二艘の船だ。これからは科学の利点と限界性を認めて、これを補完するような世界の捉え方が新たに開拓される必要がある。

今はコロナから自然界の複雑性と合目的性を学ぶことができる。心を鎮めて冷静に見れば、そのミクロとマクロの動向に整然とした宇宙の息を感じられるかもしれない。

スタートはいつも自分の感覚から出発すべきである。冷暖自知とはまこと古人の至言で、主観を抜きにした客観性は時に人間を破滅の方向へと走らせる。逆に客観性を欠いた主観は第三者を無視した自分だけの世界に埋没しやすい。

戦後の日本は客観性に偏り過ぎたと言える。精度の高い主観を再建すべきで、それには身体性が鍵となる。意識を静めて自分の裡なる感覚を大事にする生活を心がけたい。

個人の健康

「集団免疫」という言葉を最近よく耳にするようになった。

わかっているようで曖昧な語句なので調べてみたところ、どうもこれは「社会」とか「国民」みたいな言葉と同じで、概念だけがあって実体はないようである。

社会学者や経済学者が便宜で用いる観念語で、医学的には定義がシッカリとは確立していないのかもしれない。

おおよその意味としたら、特定の病気に対する抵抗力を具えた人の割合が一定に達っした状態を指しているようだ。

この集団免疫なるものが具わる過程では、個体生命はそれぞれの運命をたどる。大別すれば、細菌もしくはウィルスに感染しても発症しない人、感染したのち病症経過に耐えて免疫を獲得する人、耐えきれずに絶命する人、とおよそこの三通りである。

こういう自然の「はたらき」のことを日本語では「淘汰」という。地球上の生き物は誰もこの自然淘汰の摂理から逃れることはできない。だから極論を言えば、個人も全体も遅かれ早かれその方向に流れていくもので、ことさら集団に向けて免疫を付けようと頭を熱くする必要はない。

コロナに関して個人的に気になるのは「どういう身体の人が罹っているのか」という、これにつきる。また重症化するのはどういう身体なのか。

同じ型のウィルスが接触、侵入しても、A氏とB氏の体内では全く異なった動きをする。このときA氏のことはA氏からしか学べないし、B氏についてもまた同様である。

こういうことは現代科学の視野からはもれているから、一生懸命研究しても「ウィルスに対する薬」という枠組みの中に収まる。これはこれでもちろん「社会」の役に立っている。

ただこの線で行くとどうしても新種の病気を前にしては薬がないので対応できない。研究がある程度進んで「標準医療」が制定されるまでは現場はただ見ているより他ない。

ただし病気の実態がわからなくても、個人としてできることがある。それは自分の身体の弾力を保つように心掛け生活をすることである。

筋肉は裏切らないという標語は浮薄な世相を象徴する空念仏のようなもので、本当に裏切らないのは「弾力」なのである。

どんな生き物でも生まれたての赤ん坊がもっとも柔らかく、老衰するとほうぼうが固くなっていく。身体に問題や悩みを持つ人は必ずどこかに偏った固さがある。

死は全身の麻痺であり物化なのだから、弾力を失うことはそれだけ死に近づいたことを意味するのだ。これはどんな場合でも良いことではない。

ところが病気にかかった時にこれを徹底的に使いこなして経過すると、身体に偏在する部分的麻痺状態が快癒する。野口晴哉が『風邪の効用』で訴えた核心はこれである。

つまりは病気そのものがこわばった身体に弾力を取り戻す回復作用になっている。だから肺炎が流行るには肺炎を必要とする身体が先に流行っている、という見方もここに生じてくる。

社会や集団について漠然と思いをめぐらすよりも、個人の身体を丁寧に観察していくことの方が結果的に社会を健やかに導くはずだ。一見遠回りにみえるこの道は健康生活の基礎として案外着実でないだろうか。

コロナ禍をきっかけに個人の健康、個人の身体を丁寧に見るようになったら禍も転じて福となるだろうが、現状を見る限りそういう気配はまだない。

時期が早いだけなのか、どうなのか。わからないけれども自分は整体法と活元運動の種を撒く。

臨済は法を伝えるたえに松を栽え、ルターは人間の未来を信じてリンゴの木を植えた。それらは巨木とは言えないまでも、何世紀もの風雪に耐えて深く強く根を張っている。物の興廃はまったく人に由る。

いつの世も嘘は好まれ、真実はなぜか歓迎されない。嘘で物質的な飢えは満たせても、精神的な飢えを満たせるのは真実だけである。知った以上は世に問い続ける責任があると思っている。

「科学的」であるために

息子(6歳)が保育園で友達とケンカしたという。6歳児ならケンカぐらい毎日するだろうと思ったが、問題の焦点は石鹸で手を洗うべきか否かだったそうで、これでは先生も報告せざるを得ない。

息子が「ばい菌はちょっと残しといたほうが(体のバランスとして)いいから石鹸は使わない」というのに対して、相手のAクン(仮)は「ばい菌はキタナイから石鹸でしっかり洗い落とさなければならない」と言う。

そのままお互い譲らずワー!となったそうだが、先生が間に入って「いろいろな考えの人がいていいんだよ」と収められたそうである。

後で息子には「うちの考え方は少数派なのだ、(ばい菌を)怖がっている人たちの前では石鹸を使うという気遣いも必要なんだよ」と釈明したが、時節がら私がもう少し配慮しなければならなかった。

さて、この話を取り上げたのは「どちらが正しいか」を後から追求するためではなく、別な角度からこのやり取りが気になったからである。

それは「科学的」という視点についてである。「科学的に正しい」ということは言うまでもなく現代においては錦の御旗である。

一般にはAクンの主張は「科学的に正しい」とみなされがちである。免疫学による人体の抵抗作用の考え方よりも細菌学の感染症恐怖の主張が優勢なためにぱっと見正論に見えるのだ。

しかし事実に即して考えるなら、洗わない手でお菓子のつまみ食いをした人たちが毎回お腹が痛くなるわけでもなく、またほとんどの病気にもかからない。

石鹸で手を洗うのは人間の中でも一部で、それ以外の人間やもっと「不衛生な」環境下にいるネズミとかゴキブリがいつの世もあふれているのは野生が衛生知識に勝ることの実証であり、生命の恒常性(錐体外路系)の力を認めざるを得ない。

だからといって息子の態度がより「科学的である」という考えには当然至らない。

そもそもこれだけ科学の大好きな先進文明国の人間が、「科学的とは何か?」ということをどれだけ明確に答えられるかとなると、だいぶ怪しいように思われる。

「科学的」ということの定義をどんどん科学的に突き詰めていくと最後は大分あいまいになるそうだが、私流に言わせれば「それは本当だろうか?」という思考態度になる。

おそらくだが息子もAクンも「ばい菌」など肉眼でも顕微鏡でも見たことはないのだ。

息子は親の言葉を鵜吞みにし、Aクンにも世間一般の論理に対する鵜呑みがある。

お互いが「人がこう言っているからこうなのだ」という考え方を持ち寄り、それを比較してお互いの非をつっ突き合う。人間の争いのひな型がここにある。俗人の神学論争、宗教戦争といえどこの域を出ない。

もしAクンにジェンナーの種痘の話を聞かせて、「予防接種の注射器の中身にはばい菌も使うんだ」と教えたらどうなるだろうか。「鵜呑み」という態度の問題点に気づき、人の話を聞くときにもっと慎重になるかもしれない。

「毒をもって毒を制する」というのは古人の観念論ではなく、毒も薬も同じ物質の二つの側面であることを感覚的に掴んでいたことを匂わせる。

生活に直結しない知識の押し売りよりも、自発的に沸いた興味を丁寧に見つめ「事実に学ぶ」という意欲を育てることはもっと重要ではないだろうか。

息子にもコッホやパスツールの細菌学の話をしたら、ばい菌の怖しい面を理解するだろう。

一人の人間の身体には数えきれない微生物が共存しているが、その数はそれぞれが拮抗し、均衡を保ち、お互いの個体生命の全うに向かって動いている。

このはたらきがなくなったらいくら全身を消毒液で洗おうとも、予防接種を毎日打っても追いつかない。亡くなった人を一週間も放置した姿を思い浮かべればそれは明白である。

生きている間はその個体を腐乱させない「何か」がある。しかし腐乱と言ってもその腐って乱れている中にもやはり「いのち」は在る。

だから一つの微生物を取り上げればやはりそこにも生滅があり、個々が生まれたり死んだりしながら「全体が生きている」という事実が、我々には絶えず死角になりやすい。

これを禅の方では「万法一に帰す(ばんぽういちにきす)」と言ったりするが、その帰る「一(イチ)」というのが私であったりなかったりするから、結局この世は捉え処が無いということになる。

果せるかな、ばい菌を生かすもよし、殺すもよしということになろうか。ばい菌を自らの免疫活性の糧とするか、これを過剰繁殖せしめて死に至るかは宿主の「勢い」ということにかかっている。

畢竟いまの衛生観は人間からこの勢いを削ぐようにも見えるが、確かに先行きの不安に怯え委縮する人もあるかと思えば、苦境に負けないよう自分を鼓舞して働く人もある。またストレスを感じておらぬ人もある。

氷雨に濡れて風邪をひく人、冷水をかぶって丈夫になろうとする人、何もせずに平気に生きる人の違いはここにもあると見え、社会情勢がどうであろうと人間の傾向は変わらない。

「意欲」と「勢い」、この二つは依然として科学で取り扱うまでに至っていない。

結局この世界はよくわからないものがいつも無限の活動をしているだけである。科学はその中から一個を取り上げて、分析により理解させてくれる貴重な道具だが、その道具の使い手は何なのかを一人一人が自覚する必要があるのではないか。

その答えを「外に求めてはならぬ」といった臨済は、一体人々の目をどこに向けさせようとしたのか。頭が大きくなり過ぎた現代の人間こそ、この事を本当に見極めねば自分で自分の始末がつかない、納得がいかないということになりはしまいか。

出だしから話しの論点が大分ずれてきたが、科学を好む好まざるにかかわらず、現代人と呼ばれる我々は自然科学を基盤に思考していることをもっと意識する必要性を感じる。

科学的であるために科学の性質(利点と限界、問題点)を理解し、そのうえで活用すれば、やはり便利なものだのだ。このような冷静かつ公平な態度は次代を生きる子どもたちの思考態度をより上質に導くはずである。

人間の進歩とは、膨大な知識の上にさらに知識を積み上げていくことではなく、自己に対する信頼を代々分厚くして、惑わされない人間を作る術を磨くことにある。

これは「本当にそうだろうか?」という自分自身の眼で真理を求める本当の科学的態度と矛盾しない。人間のものの見方は依然として進歩が要求されている。

「コロナ禍」だって冷静に数字を観れば、他の病気に比して飛び抜けて恐れる必要のないものであることが解る。今までも病原菌は飛散していたし、口も鼻も肺もそれ自身がマスクの役目を果たしていた。泰山鳴動してネズミ一匹とはよく言ったものだが、現代的にはネズミ一匹に大のおとなが右往左往しているようなものである。これが果たして万物の霊長なのだろうか。

最初に戻って子供の問題行動と呼ばれるものを丁寧に観ていくと、それが大人の世界の不自然さや不均衡を代弁していることが多い。大人はうっかり見落としがちだが、よくある「子供のケンカ」と看過してはならに面はいろいろな所にある。

子供の無智を大人の無知と混同してはならない。子供の自然を守ることは次代の自然保護に直結する。真の冷静さや客観性が人間を愛する情熱によって支えられることも矛盾しないのだ。

冷たい試験管の中で展開される科学の世界に、温かい人間の血を通わせることも可能だろう。そうすれば真理を求める意欲はいよいよ増し、巷に横行するにわか科学でも、より科学的になるべく錬磨されていくのではないだろうか。

相変わらず

新年最初のネタを考えながら窓の外を眺めたら、今日は春一番を思わせる強風に、突き抜けるような快晴だった。

ふいに「青天白日」という『碧巌録』第四則の冒頭が頭に浮かんだ。

『碧巌録』は禅の愛好者なら誰もが知る宋代中国禅の指南書である。青天白日とは雲一つない青空のような禅の世界を表す一語だ。

人間の感覚を取り除けば、元々この世界には西もなければ東もない。加えて天地もなければ、過去も未来もない。どこにもとどまらない掴まえようのない世界である。

人間の世界からゴタゴタが尽きることはないけれども、その「人間の世界」とは何かを丁寧に突き詰めていくと、それは取りも直さず「自分の世界」である事がわかる。

世相がゴタゴタしているのではなく、そこに思いを巡らせている自分の頭の中が妄想しているだけなのだ。

妄やめば、寂生ず。自分自身のいろいろな想念に捉われなければ、誰もがそのままで、静かな世界に住めるのだ。自分の本当の世界は最初から何もない、澄み切った空の如しである。

達磨の廓然無聖(かくねんむしょう)も、このいのちの真相を武帝に示すために仕方なく吐いた言葉だ。

はたして武帝は達磨を見誤ったが、我々はこの事がわかれば相手にするのはいつも自分一人でいい。そしてその自分の母体である身体を整えることは何よりも尊い行為である。整った体は鏡の如くこの世界の真実をそのまま映す。

だからといって整えるために何かをする必要もない。むしろ「何かしなければ」という焦りはかえって自然の息を乱す。

「何もしなくても健康だ」ということが自覚されるためには人間の場合周到な訓練がいるが、整体法はそうした訓練法の集積であり総称だと考えたらよいと思う。

その基本となるのが活元運動なのだから、これを自ら実践して人の興味を刺激し伝播させることが整体指導者の役目だろう。

こうやって縷々考えていくと、年が変わっても結局自分の願いは変わらない。従来からずっと今を生きているのだから、以前の念から続く現在のこころはいくらでも進歩するし、また進歩などしない。

親の生まれぬ前から、相変わらず自分はずっと自分のままだ。

どうも「相変わらず」ということはすべての人間の出発地点であり、終着地点であるようだ。窓の外は変わらず日が差している。自分はやはりここにいる。

二元対立を超えた活動

…前回のナウシカの記事からの続き。

分解や分析によって自然界の法則を明らかにして、人間に有益な文明を作り出そうというのが今日まで科学を発展させてきた大きな動機であった。

しかし部分の解釈にこだわりすぎると全体が見えづらくなる、というのが分析知につきまとう最大の陥穽である。

我々の理性はどうしても物事を是非、善悪、優劣…といった具合に、二つに分けて理解しようとする習性がある。「分かる」とはまさに「あれ」と「これ」を頭の中で別にする、ということだ。

これは思量分別(しりょうふんべつ)とも言われる認識作用であり、この分別のために自分にとって不都合なものを見つけるとすぐにそれをコントロールし、修正したくなる。

『風の谷のナウシカ』の世界では腐海や虫が「負」のものとして捉えられている。これらが人間の生活を脅かす存在であるため、知恵と力で抑えつけようと考えるのは人間的な理性のなせる業(わざ)であろう。

しかしながら自然界はどこかに圧力が加わると即座に反動が起こる。これを大自然の平衡要求と考えていいのかもしれないが、それとても人間の一見解にすぎない。

このように人間の理性に主体をおいて自然をコントロールしようとし過ぎると、このバランスをとるはたらきによって反動が絶えず起こる。これは歴史の証明とともに多くの人の知るところである。

かつて高度経済成長期に多発した公害などはその一例として考えられるだろう。また近年では東日本大震災における原発事故においても、自然というものが質、量ともに人間の統制下には収まらない規模の一大活動体であることを改めて痛感させられた。

さらに加えれば2020年12月現在、新型コロナウィルスの発覚に付帯して生じてきた諸問題を見逃すことはできない。

除菌、手洗い、マスク、ソーシャルディスタンス、外出自粛といった数々の対応が短期的には感染拡大を抑止したとも言えそうだが、少し冷静に視野を広げて見れば人間の打ち出した抑制行為を跳ね飛ばすかのように現在罹患者の数はうなぎ登りである。

どう足掻いても人間の視点が切り替わらない限りこの世界から「病気」という現象はなくならない。病気とはそれそのものが生命活動の一側面であり、そのものがすでに健康という全き活動の一部なのである。

この健康とは現代流の、いわゆる病気と対置された相対的な「ケンコウ」ではなく、世界のど真ん中に鎮座する不滅の「健」である。『易経』の冒頭、天行健の一句であらわされた絶対の健、そのものを指す。

その健やかなるはたらきから一部を切り出して「病気」と見立てたのだから、人間の見解が在るかぎりこの世界から病気はなくならない。

天然痘が姿を消すと間もなく結核が増えた。結核を減らすと癌が増え、脳炎が減ると精神を病む、というように身体の平衡作用は無くならないのである。

人間の生み出す善悪や正負といった二元対立概念は、どれも固定された視座から生ずる偏見に過ぎない。

『風の谷のナウシカ』にはこれを戒めるセリフとして次のようなものがある。

「永い間の疑問でした」「世界を清浄と汚濁に分けてしまっては何も見えないのではないかと…」(『風の谷のナウシカ 7』p.130)

「その人達はなぜ気づかなかったのだろう/清浄と汚濁こそが生命だということに」「苦しみや悲劇やおろかさは清浄な世界でもなくなりはしない/それは人間の一部だから……」(同書 p.200)

これに対して1000年前の人間が人工的浄化活動の守護者として作り上げた生命体であるヒドラは「お前は危険な闇だ/生命は光だ!!」とナウシカを恫喝する。

このヒドラは自らを古代の人々が善意によって生み出した完全な生命体であることを疑わない。そこに落とし穴がある。闇は負であり悪である、これに対して「自分は光」という片岸に立ち、自らが人間的二元論の産物であることにヒドラは気が付かないのである。

ナウシカはこれに動じることなく「ちがう/いのちは闇の中にまたたく光だ!!」と喝破する。

言うまでもないが、ここのやり取りが本作の圧巻だろう。

「闇」とは一つの活動から「光」を切り出したために生じる概念である。仮に「昼夜」などといった場合も、「一日」という概念から「昼」、もしくは「夜」を抜き出すと、抜き出された元のほうに夜もしくは昼、という概念が残る。

我々が「夜」という概念を打ち消せば「昼」もなくなり、また元々の「一日」という概念にたち還るのである。

これと全く同じ構図で、生も死よって支えられている。生と死は「いのち」というこの世の一大活動体の両側面である。

『ナウシカ』の世界の人々は我々の現実と同じように病を恐れ、自然を恐れ、死を恐れ、これを回避せんがためにあらゆる手段を講じる。その結果科学技術の発展は言うに及ばず、強大な軍事力を背景に闘争と搾取に奔走する者もいるかと思えば、土俗的な信仰裡に自我を埋没させて仏教的空見に逃避せんとする者、または政治権力の濁流の中で浮き沈み、喘ぐ者たち、などを次々と生み出した。

前出のヒドラはこうした人間存在から切り離すことのできない宿業の数々を「光」によって断ち切り、永遠の救いと安楽への道を切り開く目的で作られた人工の生命体だったのである。

しかし先ほども述べたように、この企てがすでに人間の作為から出発していることを見逃してはならない。いかに高尚な思想を持ってきても人間的な考え方や計らいをもってこの世界を完全に救い切ることはできないのである。思想でも行為でも、人為的に何かを成せばそこには必ず取りこぼしや対立が生じる。

ところがこの世界の真相は、人間的な活動、思想、価値観、評価とは一切関係せずして、最初からみな一人残らず救われているのである。

「いのち」とは、いま目の前に展開している完成された活動のことなのに、誰もこの事実に気が付かない。いやすでに覚知はなされているのに、人間はこれを疑い、あるいは知らずに自らの足元でぐしゃぐしゃに踏み潰して生きていく。

仮に気が付いたとしても、うっかりすれば今度は「気づき」に捉われて身動きが取れなくなる。

人間の見解というものはいつでも人間から自由を奪い、時に死に至るまで苦悩せしめる。人を救わんと思えば、その見解が生ずる前の「今」に目を向けるより他はない。

古来から多くの宗教家が骨を折ったのも、最終的にはここである。一言でいえば「真理に目覚める」ということであり、次いでこの妙薬をどうやって人々に飲んでいただくか、ということだ。

劇中の神聖皇帝なる人物は、この世界の仕組みを解き明かして生命を救おうと東奔西走するナウシカに向かって、罵りとも嘲りともつかない次のような次の言葉を浴びせかける。

「巨神兵をくれてやろう/ヒドラもお供につけてやる」「みんな清浄の地とへやらに連れていくがいい」「腐った土鬼(ドルク)の地も土民共もみんなくれてやる」「全部しょって/はいずりまわって世界を救ってみせろ!!」(『風の谷のナウシカ 6』p.154)

「救い」、また「救う」ということを煎じ詰めると、ついには自らを生死のぎりぎりのところに投じ、苦しみの真っ只中にありながら活き活きと躍動する自己に一切を委ねる行為に至る。

地獄の業火の中にありながら、その苦しみの中に自己を滅却し、ひたすら隣人に手を差し伸べる、言わば大乗の精神である。

人間におけるこの至難の業(わざ)を一人の「風使いの少女」に任せた、という本作の設定がまさに絶妙なのである。

ナウシカは先の神聖皇帝の言葉に呼応するかのように、最後のセリフをこう結んでいる。

「さあみんな/出発しましょう/どんなに苦しくとも」「生きねば………/………」(『風の谷のナウシカ 7』p.223)

ここに至って「救い」というものなどこの世にはないのだ、という諦めと希望を包括したようなナウシカの一句が吐き出された。

これは追い詰められた人間の最後の手段としての、「それでも生きていく」という全身全霊をかけた叫びのようにも聞こえる。

たとえ二元対立を超越した活動に目覚めたとしても、それで「苦しみが消える」といことはない。ナウシカの旅の執着地点はついに元々居た所、解決など望めない、原初の混沌へと帰ってきた。脚踏実地そのままに、人間が苦しみ、のたうち回って生きる元の世界に回帰したのである。

しかしながらその苦しみの真っ只中に居ながらにして、生きる歓喜を見い出せる強さを身に着け彼女は虚無の深淵から生還した。この全身心をなげうって行われた大いなる旅路がここに至ってようやく終焉を匂わせる。

そして「語り残したことは多いがひとまずここで、物語を終わることにする。…」という末文へと繋がっていく。

今さら言うまでもないが、この物語は決して古くはならない。人間存在の矛盾と苦悩の生ずるメカニズム、そして厳粛なる救済の在り方が随所に余すことなく暗示されているからだ。

コロナ禍と言われた本年は多くの示唆に富むこの物語からいろいろなことを考えさせられた。この無限の物語『ナウシカ』をもってすれば、ここから先いくらでも駄弁を弄することは可能であるが一応は今回で結びとしたい。

とが言いながら、自分のブログは一貫性がないという点で終始一貫してきたのでまたふいに続きを書くかもしれない。その時はどうかご容赦を願いたい。

何にせよ、更新回数の貧しいこのブログに本年もお付き合いいただき、ありがとうございました。

ナウシカの目的論的自然観

人間によって汚染された地球を如何にすべきか、というテーマはSFではお馴染みである。

ナウシカの舞台における汚染の象徴は「腐海」であり、この腐海に如何に対処して生きるか、というのが作品全体を包み込む大きな難題である。

腐海の植物は1日の中のある決まった時間に一斉に胞子を飛ばす。この胞子には強い毒性があり、腐海に立ち行った人間は特殊なマスクをしなければ五分で肺が腐ってしまうという。

腐海が生まれてより1000年、これまで人間たちは腐海の拡大を阻止しようといくたびも試行錯誤と行動を繰り返してきた。

そしてついには1000年前に起きた「火の七日間」で世界を焼き尽くしたと言われる旧世界の怪物、「巨神兵」をも復活させて腐海を一気に焼き払おうと試みる。

この目論見は失敗に終わるのだが、このように自然の猛威に正面から対立し制圧しようとする態度は、人間と自然界の断絶を前提とした非・連続的自然観を起点とするところに注目したい。

確かに人間の世界の理屈から出発して、腐海やそれを守護するように共生する蟲たちの世界を眺めれば、それらは人間的秩序を脅かす混沌でしかない。

その混沌を統制べく、洞察と分析によって自然をコントロールしようとして発達してきた一つの思想体系が「自然科学」である。

たとえその分析がどれほど融和的に行われようと、そこには「観るもの」と「観られるもの」という二元対立の構図から出発していることに変わりはない。

現代の日本を生きる私たちが落ち込みやすい最大の陥穽は、この「カガク的な」ものの見方を唯一絶対として世界を眺め、それ以外の見方を「非・カガク的」と断じて最初から検証の余地を切り捨ててしまうことである。

ここまでくると、これは一つの信仰といってもよさそうである。信仰の極まった状態が「当たり前」とうもので、そこにはもはや「私は、信じています」という手続きすらも消え失せ、信仰の気配というものは存在しない。

こうなると人はそれ以外のものは在り得ないと見なし、はなから分析・検証の対象から除外てしまうのである。

本来ならば「事実→認識→仮説→検証」という流れこそ、科学的であるための重要な導入プロセスでなければならない。

しかしながら多くの現実を見渡せば、昨日までに実証されてきた既存の理論を鵜呑みにすることが「カガク的である」という風にすり替わってしまっているのである。

言わばカガク的なものしか信奉しないというのは非科学的態度であり、真の科学者たらんとする者ならば、これは最も忌むべき偏狭な心の在り方なのである。

更に続けて「科学とは何か…」を語り始めると軽く数千字を越えそうなのでここまでにするが、この辺りのことは石川光男著『西と東の生命観』(三信図書)に詳しい。「科学とは…」が気になられた方には一読をおすすしたい。

上掲書の60ページから始まる「二 科学を支える文化と思想」を読んでいくと、「科学的」という思考態度が長い人類史上に現れた一つのパラダイムにすぎないことがよく解る。

前置きが長くなったが、風の谷の族長ジルの娘(姫)である風使いの少女ナウシカは、こうした態度とは全く違う角度で腐海や蟲たちと接していく。

彼女の心は自然に対して常に開かれている。のみならず、自己の内面に対して、より大きく開かれているようである。

タイトルにもなっている「風の谷」は問題の腐海のほとりに位置し、風車を主な動力として生活に活用するなど、自然界との融和に基づいた共生が営まれている。

そのような環境下でナウシカは、人々の心配を他所に腐海にもよく出入りをする。そして蟲たちとも親しみ、腐海を構成する様々な菌類の胞子を採取しては自分の「秘密の部屋」に持ち帰り密かに栽培していたのである。

こうした行動をただの興味本位からくるお姫様の奇行と見る者もあったが、実のところ彼女の行動の元には「自然を守りつつ人間たちを救いたい」という強い願心があった。そのために腐海のできた本当の「理由(わけ)」を自分の目で解き明かしたかったのである。

言うまでもなく、ナウシカは蟲や腐海の植物たちを研究して、自分たちの都合のいいようにコントロールしようとか、況や駆逐すべき敵として見ることは絶対にない。

谷に住む人たちと接するのと同じように木々や蟲たちに話しかけ、積極的に心の疎通を図ろうとする。このような態度は、自然と人間を分断する、近代以降に始まった西洋科学文明のパラダイムとは明らかに異なるものである。

つまり自分と外界、あるいは人間と自然の間に垣根がなく、滑らかな繋がりを感じさせる連続的自然観の中に彼女は生きているのである。いわば文化人類学から派生したフィールド・ワークという主観主義的な研究方法と同質の手法を彼女は取っていたと言えよう。

何がそうさせたのかはわからないが、一つには自然との共生がしやすい「風の谷」の風土も無関係ではないかもしれない。それより何より、彼女の胸の内に万物に対する博愛の精神が常に息づいていることは見逃せない要素だろう。

何であれナウシカの在り方は自然を支配の対象ではなく、何故そうなのか、どうしてそうなっているのかを学ばせていただく共生の相手として、敬意を持って接しているのである。

そして、そこにはきっと何か自然界の合目的的な「意味」や「意志」があるはずだ、という見えざる確信が彼女の中には当初からあったようである。

このことから彼女は「目的論的自然観」というパラダイムの中に生きていることを物語る。

元を辿ればアリストテレスによって提唱された目的論的自然観は一度デカルト によって排斥された。つまりこの世界には「意味」などなく、あたかも機械仕掛けの時計のように何かが「カチ…カチ…」と無機的な音を立てているだけだと彼は主張したのである。

その結果我々はその機械の一構成要素と見做され、「分析」によって個々の部品の性質は明らかになる。

そして全ての構成要素を明らかにすることで、元の「全体(総体)」をより深く理解できる(はずである)、という考えが定着していったのである。このような思考態度は自然科学を支える主要概念の一つとして「要素還元主義」と呼ばれる。

この考え方は人間の生活をより豊に、より安全なものにする、という点ではかなりの面で功を奏したのである。

事実分析によって様々のことがわかった。

例えば、それまでは病気は悪魔の仕業と考えられていた。そのために治療者は多くの場合宗教的な指導者や聖職者をかねており、目に見えぬものを目に見えない力によって統制しようと試みてきたのである(これはこれで「一定の」効果が認められていたのだが)。

ところが細菌学の発生によって、病原菌なるものが発見されてこれが梅毒や結核の治療にどれほど奏功したかは歴史が実証している。

しかし人間が生み出したどのような考え方や方法論も万能ということはあり得ない。

「分解・分析によって全てが分かるのでは」という考えすら芽生え始めたときに、そこに欠陥が認められたのである。

…長くなったのでまた次回以降へ。