9月13日活元会後記 体の波について

9月13日活元会を行いました。

事前のふれこみでは坐禅・活元会だったのですが、わたしが前半しゃべりすぎたために坐禅の時間はなくなりました‥。

教材は野口晴哉先生の講義録より「体の波」を選んで音読をして、みさなんに聞いていただきました。

整体法(野口整体)というのは実践哲学です。

なので、実践と並行して知的理解の両輪が必要である、というのが当院なりのスタンスです。

「両輪」ですから‥

左右の車輪のどちらかが大きかったり小さかったり、回転数がちがったりすれば、それでもうクルマはまっすぐ走れなくなります。

だから頭で理解するばっかりでもなく、理解したら必ず実践をする。

実践をある程度かさねたら、何のために、あるいはどういうことかを考える。

こういうことを行ったり来たり繰り返しながら、整体法をみなさんが体得していかれるようにと一応は考えています。

ちょっと話が横にずれましたが今回は「体の波」です。

人間には「波」があります。

これは科学的な検査でとらえにくい人間の生理機能といってよいと思います。

もちろん心電図や脳波計などではかろうじて「波」的なものがとらえられますが、レントゲンとか血液検査では完全にそういう時間軸はとらえられません。

そういう「点でとらえた」情報だけで、「生きた人間」がまるごと解るかといったらそれはおそらく不可能でしょう。

だから「生きて動いて絶えず変化する人間」をそのままとらえて、その波の低調高調を見極め、そのうえで波の間に間にポンポンとリズムや言葉や身体的な刺激を叩き込んで勢いを呼び起していく。

これが整体法の原理原則です。

しかしこれは決して「整体指導」という非・日常の特殊な空間だけにいえる話ではないと思います。子どもの躾のような家族間のコミュニケーション、家族以外でも人と人が心を通わせるためにはこういう生理的な波のあることを知り、その波の使い方を覚えていくことは大変有効です。

どうしたらそういうことが可能になるのか、といえばそれは自分の心身を通じて波のあることを勉強し理解していくことが一番の近道です。

心・体の微細な動きをよくとらえられるように敏感さを保ち、育てていくように、丁寧に生活をしていくことでそれは可能となります。

活元運動をこつこつやっていく、ということが王道ですが根底にあるのは自分自身の「たましい」とかその器である身体に対する礼、そして畏れの気持ちを持つようになれば年々歳々、心身は磨かれていくことでしょう。

ダイヤモンドと同じようなもので、磨かなければ誰の目にも止まらない石ころです。

身体もそういうものではないでしょうか。

有志のみなさまにはぜひ活元運動をお伝えしたいと思います。

次回は22日土曜日です。

8月25日活元会後記

毎月第4土曜日は坐禅・活元会です。

ご参加は比較的初心の方2名様でしたので、活元運動の準備動作をとにかく丁寧にやりました。

物事は何でもそうですが、準備、「仕込み」が大切です。

「仕込みが9割」です。

活元運動の場合なら、まずは呼吸。

「邪気の吐出法」という(ちょっと古めかしい名前ですが)、大きく口を開けて「はぁー」と吐き切る呼吸を最初にくり返します。

これで頭のはたらきを切り替えていきます。

とにかく現代の人はアタマの回転が早すぎて心の休まる暇がありませんから、それをまず「ゆっ‥くり」動く状態に導いていく。

言ってみれば「活元脳」みたいな、いわゆる「ポカン」の状態です。

「これだけで自然の健康を保てます」と断言できるくらいの重要なプロセスです。

そうやって横隔膜の動きを柔らかく大きくしてくことで、気持ちにもゆったりとした余裕が出てきます。

世界が変わる、といってもいいくらいです。

・それから背骨を捻じる動作。

・背骨に力を集める訓練。

これをきちんとやってあとは目を瞑って「だらん‥」、としていると身体が動きはじめます。

初めての方もしっかりそれらしい運動が出ていました。

このまま繰り返していけば、自律神経が整い身体のバランスを取るはたらきが自然に強化されていきます。

非常に簡単なうえに、スポーツのようにケガをする心配もありませんのでどなたでもできます。

来月は9月13日(木)、9月22日(土)に予定しています。

野口整体に興味のある方、自分で健康を保つ方法をお探しの方はご参加ください。

8月9日活元会後記

去る8月9日に坐禅・活元会を行いました。

なぜか前回と同じく台風の予報と重なりましたが‥。そして前回同様、予報に反して大したことはなく、みなさん無事にお集まりいただけました。

内容は脊髄行気から始まって、坐禅、野口整体の教材資料を使っての座学、そして活元運動です。

まずは脊髄行気について。

ちなみに「行気(ぎょうき)」というのは自分の身体のどこかに、呼吸を入れていくようなつもりで気を集める訓練法です。

だから「脊髄・行気」といった場合は、脊柱管という背骨の中心孔をイメージして、頭のてっぺんから尾骨に向かって息を吸っていく(つもり)。

「すーっ」と鼻から吸って、吐く方は特に意識しません。

目をつぶって静かにおこないます。

大体、10分くらい。

ひとしきりやって落ち着いてきたところで次は坐禅です。

坐禅はご存知の方も多いと思いますが、半眼といって目を開けておこないます。ただし、視線は45度下方(やや伏し目がち)になります。

そして、うちの坐禅会では「坐骨」を大切にしています。坐骨をぴたっと座布団に据えて背骨をまっすぐに立てていれば、「足の形は自由」ということにしています。

一般的には結跏趺坐(けっかふざ)という、いわゆる大仏様の座り方を推奨するわけですが、これがむずかしければ正坐でも結構ですし、アグラでも椅子坐でもOK。

そしてさらに、眠くなったら寝っ転がっていてもOKです(今のところ、ゴロ~ンと寝た人はいませんが‥いいんですよホントに)。

とにかく、

「何にもしない」

ということをやってみましょう、という集まりです。

本当に「何にもしない」でいる時、自分は、世界は一体どうなるのでしょうか。

どうぞ、やって確かめてみてください。

 

さて、それから休憩をはさんでお待ちかね(?)の座学です。

いや‥、脊髄行気と坐禅がおわった時点でみなさんエンディングモードだったのですが…一応スケジュール通り敢行いたしました。

資料は野口晴哉著『愉気法1』全生社の「質問に答える」より。

質問 活元運動の会で大変よいことを学びまして感謝しておりますが、年を取ると(六十五歳)、長患いをしないで終わりたいということを考えます。老衰死ということになりますと、一年近くはおしもの世話を受けるようですが、避けられないことでしょうか。

 こういうご質問ですが、死ぬ時はみな快感があるのです。老衰して人に世話をかけるというのは、まだ自分の力を発揮していない人です。力のある内に力を使わないでいると、そういうように動けなくなるのです。本当は死ぬ間際まで動ける。…<中略>…

…ですから、死ぬ前の一年間、人に小便をとってもらうことなど考えないでいいと思います。それまでは相互運動をし、人にも愉気をし、自分も愉気を受け、相互におやりになることがいい。人間はそういう力を持っているのだから、それを存分に発揮しなくてはいけない。専門家ではなくては治せないというのは嘘なのです。みなお互いに治し合う力を持って生まれているので、そういう人間の持っている力を発揮しさえすれば、お互いがお互いを助け合えるのです。ただ心を無にして触ればそれでいい。(『愉気法1』pp.75-80 一部太字は引用者)

坐学では整体の心得と世界観を知っていただくために資料を選出しています。

大切なことは価値観と世界観、そして死生観の共有と理解。

平たくいえば、生きているうちに「力を出し切ろう」と言っているのです。

そのために頭のはたらきを停止して、身体の方に任せることが大切だといいます。

整体ではよく「ポカンとして‥」、といいますが、何にもしないでぼやーっとしていることにも立派に価値があるんですね。現代的にはあまり好まれないかもしれませんが。

例えば、日本に曹洞宗を伝えた道元禅師によって、坐禅の要諦について記された『普勧坐禅儀』という指南書があります。これによれば‥

諸縁を放捨(ほうしゃ)し万事を休息して、善悪を思わず是非を管することなかれ。
心意識の運転を停め、念想観の測量(しきりょう)を止めて、作仏(さぶつ)を図ることなかれ。

という部分があります。つまり「心のはたらきをすべて開け放して、一切を忘れて休息しなさい」と言っているんです。活元運動というのも、形こそちがいますけどそういう訓練ですね。

どこまでいっても、「ポカン」として身体のはたらきに任せましょう、という話です。

そして、いよいよ実践に移ります。

みなさんでいっしょに息を合わせて活元運動を行いました。

活元運動にはこうしなければいけない、こうしてはいけない、ということはありません。ぱたぱたよく運動の出る人、とろーんと眠りかけている人、いろいろです。

丁寧に1時間くらいかけておこないました。全員の運動がある程度おさまったところで終了です。

最後にほっこりお茶を飲んでおしまい。

実際のところ、毎回毎回、これって一体何をやっているのかなあ、なんて思うこともあります。

でも何となくみんなお集まりいただくのだから、たぶん目に見えない功徳があるんでしょうね。

心がほんのちょっとでも洗われて、ラクになって帰っていただければ、本人並びにまわりの人たちにとっても良いことだと思うのです。

今月はもう一回、25日(土)にも行います。

ご参加を希望される方は前々日までに、メールフォームにてお申し込みください。

7月28日活元会後記

7月28日(土)は坐禅・活元会を行いました。

台風12号が南関東に上陸するとの報道もありましたが、開始と帰宅時刻にはちょうど雨足が弱まり、みなさん無事定刻にお越しになられました。

いつも通り脊髄行気から‥のつもりでしたが、今回は予定を変更し坐禅の時間を一部割いて座学からはじめました(久しぶりです)。

資料は野口先生の講義録「自然な健康とは(昭和49年9月 活元指導の会)」より、下はその一部抜粋。

ともかく、体の要求する通りに動けるような考え方をして、それで活元運動をしていただくと、みなさんの生活がひとりでに敏感に変わってくる。やってよいこと、悪いことも体ですぐ感じるようになります。例えば、危ない所へ近付こうとすると体がスーッと冷たく、寒くなって、何か皮膚が収縮してくる。そうしたら止めればよい。

体は知っているのです。体は妊娠すると同時に、九ヵ月先にはお乳を飲むということを知って、お乳を準備するのです。だから、生まれるとすぐにお乳が出る。体は生まれることを知っているのです。おそらく癌でも筋腫でも治る時期があって、体はそれを知っているのです。ところが皆それを掻き乱している。けれども、人間の体の中の全てのものはみんな経過するのです。妊娠でも経過するのです。だから体が準備しているのに途中で出してしまうと、他の準備は中途半端になって、そういうのが後になって乳腺炎や癌などになったとしたところで、それは体の間違いではない。体の準備を途中で止めてしまったからです。

そんなように、体は先のことを知っているのです。今のことだけではないのです。だから、体に聞いていくようなつもりで、体というか、或いは無意識といいうか、意識を閉じて無意識に聞く。後になってみると、その方が却って正確だったことがよくあります。…

…いろいろ頭を細かに使う前に、意識を、頭を一旦捨てて、無意識に聞く。それにはやはり敏感な体になっていなくてはいけない。そういう意味で活元運動をおやり願うと、何回かやった後と前とではご自分の動作の全体が変わってくることがお分りになるだろうと思います。(『月刊全生』平成23年12月号 一部改行、太字は引用者)

こうして改めて読んでみるとわかりますが、活元運動は本当に固有のもの、整体という独自の理念に則した身心の調整法です。

これから何か訓練をして獲得するのではなく、生まれたときすでに最初からあった感覚を取り戻していく。その身体の感覚(無意識の感覚)を敏感に保って日々の生活を築いていこうというのが「整体」という態度なのです。

妊娠の例も記されていますけれども、現代ではいろいろなことを人間が管理し過ぎたために、かえって出産をむずかしくしているようなことが沢山ありますね。

例えば「予定日」「正産期」を決めてしまうことも妊婦さんを余分に緊張させる材料になる、と私は思っています。「いついつまでに生まれなければ‥」ということが余分な空想を生んで、身体の微細な感覚が判りにくくなってしまうのです。

本来であればもっと頭を空にするように、ポカンとするようにして日々の生活の中で快感を大切にすればそれでいいわけですから。

ごく簡単なことだけれども、普段から知識に頼った生活に浸っている私たちにはこれがなかなかむずかしい。そこで活元運動を丁寧に行っていくと、だんだんと自分の「感じていること」がわかるように、敏感になってきます。

世の中にはいろいろな健康法がありますが、その多くは人間が考案したものです。活元運動はそういう人間的なはからいをすべてやめてみたらどうなるか、というところが出発点になっています。

年を取っても病気をしていても、一生付き添っていくのが自分の身体ですから、この感覚を鋭敏に保つことがいかに大切かおわかりいただけると思います。

みんなが自分の心や体に関心を持ってこれを自然に保つように心がけていけば、少しずつ世の中が明るく朗らかになっていくはずです。一人ひとりが自分を整えればいいのですから、道は近くにありますね。

8月も2回ほど予定しています。有志の方はごいっしょにやりましょう。

整体の臨床を考える

ここしばらく野口整体とユング心理学の統合を謳っているけれども、改めて何をどうするのか訊かれるとなかなか上手く答えられない。

一つ言えるのは、ユングの提唱した「個性化」ということを整体指導の臨床で実現したいというのは外せない「ねらい」である。

ユングの言う「個性化(individuation)」というのは、俗にいう「個性『的』に生きる」ということとは別物である。その真意は、自分の原初的な〈こころ〉につよい関心を寄せることで「本当の意味で、私らしく生きていこう」という態度なのだ。

整体流にいえば「裡の要求に目覚める」という表現がこれに近いように思われる。これは身体の中心(深層意識)にある〈思い〉に目を向けることで、自分が芯から望んでいる生き方を真摯に考える、という極めて敬虔な態度なのである。

この両者のプロセスにおいて共通しているのは、いずれも顕在意識の活動水準をひたすら下げていく、ということだ。

これについて野口整体ではよく「ポカンとする」という表現を使うけれども、このポカンというのが顕在意識の活動水準が充分に下がった状態を指しているのだ。

現代的にはどうしても「思考力をいかに高めるか」という方に価値が置かれやすいのに対して、敢えてそのウラをかく行き方ともいえるだろう。

深く考えたり内省したりするような「意識的な」活動を積極的に放棄することで、自身の行き詰まりに対する「打開策」や「活路」を見い出そうというのである。

イメージとしてはアニメの一休さんが頓智をはたらかせる際に、坐って目を瞑りポクポク‥チーンとやるのがひとつの典型である。いってみれば覚醒した意識の統制下において、大脳の活動を休ませる状態を作り出したい。

そこで鍵となるのが「身体」なのである。

一般的に「意識」とは脳の活動状態のみに従属するものと考えられやすいが、実際は「全身これ意識」といった方が正しい。特に幸福感や心の余裕度といった面においては、もっぱら脳よりも下腹部や腰部の「姿勢」や「体勢」といったものが大きく影響するようである。

特に腰椎部(ヘソの裏側あたり)に生理的な正しい湾曲(反り)が現れると、余計な心配事や不安感は消失する。いわゆる「大丈夫」とか「大安心」の境地というのは、下腹部を中心とした「修養」を正しく積むことで得られる「身体能力」なのである。

換言すれば整体指導というのは個々人においてこの「大丈夫」を顕現するためにある、といっても間違いではない。

それは頭のはたらきを一定に鎮めることで、腹脳と呼ばれる二次的な(より高尚な)意識の覚醒を試みることである。東洋的な身体観において「上虚下実」という状態が好まれるのは、上記のような理由によるものと考えられる。

そしてこれこそが最初に書いた「個性化のプロセス」や「裡の要求に目覚める」ために必要な心身の構えとなっていく。

これに因んで、ユングは自身の精神的危機を乗り越える際にヨーガをやったと言われているけれども、クライエントに対して身体的な「行」を勧めたというような記録は今のところ目にしたことがない。

実際はそういうこともあったかもしれないが、やはり当時の西洋社会においては「身体」の中に精神を開拓できるほどの可能性を見出してはいなかったのではないかと思われる。

その辺りを現代日本人の心と体の教育に適用して成果を上げようというのが、現行の整体指導のねらいなのだ。開業して9年ほど経つけれども、多少なりとも概要がまとまってきた感がある。

一方で、自分の職業の可能性があまり小さくまとまってしまうのもつまらない。だから「整体指導とはこういうもの」という概念の固定化はできるだけ避けるようにも心掛けている。

実際の臨床においては、よくわからないけれども会っていると「なんとなく」元気になっていく、というような余裕のあるテイストは大切に残しておきたい。そのためにも人間的な大きさとか、徳性を養うことはライフワークといえる。

そういえばむかし手相鑑定士に「あなたは哲学や宗教学のような『正解』のない学問をやり続けるのが性に合っている」と言われたことがある。ふと気がつけば大体そんな人生になってきているの気がするのだが、まあとにかく‥。

何にせよ導き手というのは、自分の人生、「私の道」を日々創造し続けることが責務である。坐禅と活元運動の励行は無意識からのエネルギーの流れを生み出して、自我の再構築を進めてくれる貴重な行法なのだ。

そうやって自身の自由性を充分に発揮していくことが、他者の自由度を拓く力になる。そういう意味で「整体」という生き方は、生の終着地点としての死を最良の状態に仕上げるための指針のようなものである。

ひたすら死に抵抗し続ける「自然科学」に対して、死を積極的に迎え入れることで生を輝かそうとする「宗教」としての位置に、ユング心理学と野口整体は座しているのだ。

あとは洋の東西を越えた視点に立って、「現代」という同次元の中を生きる「人間」に対しどう向き合うか。その術を生み出す過程において、先の両者の統合が非常に有効な手立てになると考えている。

いずれにしても「個人」に真正面から向き合うことは原則である。臨床における術(すべ)に普遍的な具体案はない。

それだけ、生きた「人間」ほど解らないものはないのである。人間は策を弄するほど〈いのち〉の原形からは遠ざかる。

この無限の不思議さに有限の生を以て追い続けた先達に範を求め、自分自身のいのちの真相を解き明かすことが自ずと両者の「統合」に至る道ではないかと思っている。

『肚-人間の重心』を読む

しばらくユングを中心に心理学系の本ばかり読んでいたが、久しぶりにカールフリート・デュルクハイムの『肚ー人間の重心』に目を通した。

スピリチュアル・ブームも下火になって久しいが、いつの世も浅薄な精神論に偏ると身体性は堕ちる、というのがもっぱらの自論である。

身体性を度外視した精神論や思考活動「だけ」で心の全体に取り組もうとすることは適当な器を持たず水を得ようとすることに等しい。

個人の思考の方向性というものは、常に彼の「体勢」に依拠しているために身体が偏れば思考も偏るのだ。

例えば「坐、禅」という体勢から生まれる精神状態にはある種の充溢感があるもので、これは坐禅を僅かでも行なえば誰もが体感できる主観的事実である。

仏道の方ではこのような(東洋的)身体行を一定期間、正確に執り行うことで起こる快情動体験のことを「法悦」と表現する。また、これをもって「悟り」を自覚するための通過儀礼とする向きもある。

ともかく前掲書では人間の重心を下腹部に置くことで、より高次の自我へ再構築を図ろうという態度を唱導しているのだ。

わたしとしてはこの「肚」を如何にして養うか、ということをずーっと考えてきているわけだけれども、汎用性の高い「正解」というものはどうも見つからない。

どうやら万人を貫いて「こうすれば肚ができる」という固定的なメソッドなどないようである。

とにかく治療でも教育でも、全ての「ヒト」に一定の方法を押しつけるという粗雑な態度では何ら有益な現象は起こらないのである(ともすれば害になりかねない)。

しかしながら、これこそが自然科学を母体とした現代の医療・戦後教育の基本モデルなのだ。現代に至って、「個人」ということを本当に考えて再出発しなければならない時代に来ているのだなと痛感する。

もちろん野口整体の「整体指導」というのはまぎれもなく「個人の理解」から出発したもので、技術的にも知識の面においても常に新たな出会いに対して新鮮な智慧を働かせることが必定である。

自身で体験を積み、カンを研ぎ澄まして新しい術理を生み出していくことが整体操法の実体だ。このカンを働かせるためにも自身の重心を常に下腹部に置くことが大切である。

無論、頭を熱くしてしては、「感ずる」という機能を高めることはできない。

「肚を作る」話に戻るが、実は野口晴哉先生は十九歳のときに「正坐をすれば万事よし」と喝破している。しかしながら現代的に考えれば環境や文化がそれを許さない。

坐の文化が消失しているために、自分の重心のホームポジションを知る人も少ないのだ。よって少しばかり活元運動を行った程度で正しい位置に重心が落ち着く人も稀である。

やはりお会いする一人ひとりの方と毎回、オリジナルの「体育」を考えだすのが正攻法となる。そのため、当然のことながらいくらやっても方法論の完成はない。

何にせよ身体性なき時代をまっすぐに生きていくためには、自分の責任下で自分流の身体性を創造し、その質を高めていく気構えが必要であると思う。

身体のこと、人生のことを学び考える上では、最初に揚げた『肚-人間の重心』は質・量ともにかなり重厚な本である。身体論に携る方なら一度は触れる一冊だと思うが、何らかの人生上の壁にぶつかっている人にもぜひにお勧めしたい良書中の良書である。

空手コンステレーション

ふり返ってみると、自分で自分の人生を歩みはじめた第一歩は高1で空手の道場に入門したときではないかと思う。

あそこから身体・心理・人生に対する態度が大きく変わった。

とはいえその当時はなにが何だかさっぱりわからない状態で生きていたけれども、今にして思えば自分にとって武道は「補償」である。

それまで大分オタクな子供だったので肉体の鍛錬でバランスを取ろうとしたのだ。

そしてフィジカルに偏り過ぎた結果精神世界に興味を持ち、さらにまたそのあとで身体性に戻ってきた。

空手も整体も理屈ではじめたわけではない。なにかその方向に惹かれたからで、いずれも自分らしい「個性化」に向かう無意識の動きに他ならない。

ところで、人生は個人の意思ではなく偶然の「めぐり合わせ」で構築されていく、というのがユングのコンステレーション理論である。

自分の中に息づく、自分のあずかり知らない無意識のエネルギーが次々と実体化していくことでその人だけの「人生(=物語)」が生まれていく。

スティーブ・ジョブズの有名なスピーチの中で人生の「点と点をつなぐ」という話があるが、この「点」が連続してつながることで形成されたのが現在の「私」である。そしてその現在の私もまた「点」なのだ。

全く光が見えずにこわごわ歩んでいた時も、結果的にはずっと何かに導かれていたことになる。

「行きたい場所」はあっても、実際に自分が「どこに行くか」はわからない。それは海流の中でボートを漕いでいるようなもので、自力で進んでいるつもりでも本当はみんな流れの中にある。

少しばかり半生が俯瞰で観えたところで現在も「流されている」ことには相違ないのだが、今はもう流されることに対する不安はない。

空手がそうであったように、今まで出会い経験してきたものたちが同じように自分を「然るべき場所」へと運んでくれると信じている。

もちろん努力を否定はしないが、自分の持てる力を一とすれば「流れ」のエネルギーは百とか千をはるかに上回る。

今となっては流れに逆らう力を養うことよりも、流れに乗れる自然な心を大切にしたい。

今という「点」の連続が一体どんな「線」を描いているのか、それはずっと後になって見なければわからないけれども、「いのち」は絶対に自分を裏切らないのである。

そういう確信が芽生えたのは、この仕事でいろいろな方とお会いしたことで得た一番の収穫だ。今日一日、目の前に何が出てきても、それはまぎれもない「私の姿」なのである。

全ての現象に畏敬の念をはらって静かに頭を垂れるとき、世界と自分の「いのち」の歯車ががっしりとハマり込んで動き出す。

少しおもむきを異にするが、孟子の説いた「大丈夫」とはこのような人間像を指したものと私には思われる。

運命のめぐり合わせを過酷にするのも安楽にするのも、自分の息の深さ次第である。

世界を整えようとする前に、ただひたすら自分の息と身体を整えればいい。

そう思えるようになったのは、ごく最近のことだ。

意識の限界性

しばらくブログの毎日更新を自分に課してみたところ「意識」の限界性というものがなんとなくわかってきた。

巷では「潜在意識」が流行りのような気がするのだが、日本語では意識できない心の領域のことを「無意識」とか「潜在意識」と呼んでいる。

その無意識が「開かれた」状態になることでさまざまな恩恵にあずかれる、というふれ込みのもと結構な量の書籍やセミナーが出回っているようである。

アニメの一休さんで有名な「とんち(頓智)」というのも、この無意識領域からヒョックリ現れるヒラメキのようなものである。

今となっては古い話だが、禅僧のたまごである一休さんは何か難問に出くわすと「ポクポク‥チーン」という効果音にのって坐禅を組む。

この「坐」によって意識が一時的に休止して、それまで外に向かっていた心のエネルギーは逆行(退行)をはじめ無意識の活動領域に流れ込むのである。

その結果、活性化した無意識界から自分でも「思いもよらない」答えがコロッと生じてくるのだ。

いわば瞑想・黙想・禅といわれるような精神活動は〈私〉の意識的責任下を離れた、心の無軌道な活動である。

これに比して、一般社会で好まれる「努力」というはたらきは極めて「意識的」な行為なのだ。

それは言いかえると「私くさい」とでもいおうか、いわゆる「我」と言われるような働きによって〈私〉を含めた「世界」に対して挑戦していく動きといえる。

見ていると、一般にこのような努力的な動きというのは遅かれ早かれ「行き詰まり」が生じやすいようである。

広大な心の領域内の「意識」という狭い枠組みの中だけでがんばっているわけだから、それは必然である。

一般に「努力」が功を奏するのは、その行為が同じ様に狭い枠組みの中に限られた場合のみであろう。

例えば学校の試験や会社の業績というような「レール」と「ゴール」が極めて狭く固定的な枠組内においては、努力の総量に応じた結果につながるわけである。

しかし実社会や実人生における生活の場では常にさまざまな事象が複雑に絡み合って存在しているために、例えば「東へ行こう」と努力したからといって必ずしも直線的に結果が出るとは限らない。

つまりはそれだけ意識で捉えられる「現実」というのは非常に狭く、また個人的主観によって一定の偏りを有している場合が多いのである。

そのような時に意識の活動水準をぐーっと下げて無意識のはたらきを活性化させることができれば、膠着しかかった現実認識に新たな視点が与えられ、意識と世界に新鮮な風が吹き込んでくるのである。

これは「瞑想」で得られる効用の一つである。

経験上、うつ状態などで困って来院される方の多くはまじめで努力家タイプの人が多い。この様な方々は自分では自覚はないけれども「意識(≒情報量×思考力)」を鍛えて、人生の難局を乗り越えてきた人たちである。

しかしこのような態度では、思考の枠組みだけで乗り越えられない「壁」に直面した時に意識が過剰亢進して疲れ果ててしまうのである。

よって思考力に長けた人ほど意識の休め方を訓練する必要があると言える。

身体というものは(もちろん脳も含めて)、「使い方」と「休め方」の両方をバランスよく鍛えていく必要があるのだ。

現代人は義務教育の過程からすでに意識の訓練に偏りがちなので、成人に至る過程のどこかで無意識を活性化させる時間を「意識的」に設けるべきである。

これに気づくためのプロセスとして、一度は考えに考えた結果疲れてヘトヘトなることも有効かもしれない。

非常に大まかにいってしまえば、意識は有限、無意識は無限である。

誤解が生じるといけないので敢えて書くが、有限の枠組みの中で論理的に考える力が必要なのは当然である。一方でそれと同等かそれ以上に、枠を解き放って無制限に心のエネルギーを活性化させる訓練にも注力したい。

いってみれば「行き詰まり」というのは意識が生み出す幻覚なのである。これを飲み込み、新たな世界観を構築するための無意識を活用するすべを学ぶことが自身の世界をより豊かにする。

これは人間に失われやすい「野生」を善用する態度でもあるのだ。無意識に対する信頼を養うことは、野口整体とユング心理学に共通する要諦でもある。

くり返すが「限界」とは意識が生み出す幻なのだ。意識を休め、無意識の活動レベルを高めれば、目の前の壁は消えさり四方八方に広がる道が現れる。

自身に内在する光に目覚めることだけが、自分を根底から救う唯一の道なのである。

養生

久しぶりに河合隼雄さんの『無意識の構造』をめくっていたら「自己実現(個性化)」における「時」の重要性について綴られていた。昨日の記事で時のことを書いたのは、記憶の片隅にあったものが出てきたようである。

何であれ、人生には誰にでも「ここぞ!」という「時」があるものだ。その時が来なければいくら努力を惜しまず、気張っても「何も変わらない」という非常に歯がゆい思いをする時期がある。

かといって時を逸しておこなう「努力的」な行為が全て無駄かというとそんなことはない。

昔から「念ずれば花開く」などというように、われわれが「人生」を考える際にはとかく花がついたとか実を結んだというような瞬間だけにフォーカスしやすい。

しかし何ごとも「プロセス」あるいは「仕込み」というものが大事で、始めに発芽して根を張り、茎を太くし幹になり、といったいわゆる「根幹」を形成するためにも相応の「時」を要するものである。

とかく心身の異常からの回復や人格の成長を願う折には、少しでも有効な治療を施して一日でも早い好転を期するものだが、人間が少々あがいてみたところでどうにもならないものが「自然」である。

その自然の力を我がものとするために心得るべきことは、「時を待つこと」そして「波に乗ること」というこの二点に尽きる。

つまり何か大きなものに「任せる」ということが根本の考え方だが、いざという時にも心を落ち着けてじっとしているためには日ごろから息を深く保たねばならない。

身体を使った修養の必要を説くのはこのためで、体を整えることで呼吸は自ずから深くなる。結果、自身の内界・外界を区別なく「自然との一体感」を味わうことになるのだ。

極論をいえば、自然の中に流れる時と自身のバイオリズムをシンクロさせることが養生の真髄といえる。

そのための方法としてせい氣院では坐禅と活元運動を行っているけれども、本質的には行なう人にとって「思考が一瞬でも休まる行為」なら何でもいいのだ。

大自然の中を流れる、早くも遅くもない「中庸の時」を自得するためには、意識を閉じて無意識がその生活に現れるようにすることである。

私の中には私の知られざる〈わたし〉がいることを自覚して、時々この〈わたし〉に深く頭を垂れるべきなのだ。

このとき身体は自然の秩序を現す媒体になる。時の流れを疑い、乱す人は自分で自分の〈いのち〉を乱してしまう。時を敬い、その流れにそっと自分を浮かべることができれば養生は自然と完成する。

時の力

本当に生命を癒すことができるは「時間」だけではないかと思う。

そもそもが限られた人間の知識で、無限の生命を癒そうということに無理があるのかもしれない。

生きている人間はその生命の一部をどのようにこわしても、「時」はその様相を次々に変えていく。

元来「時」に宿る自然の動きが滞ることなく、円かに流れていれば健康なのである。

全き生命の実現を志す我々にできることは、自然の動きを乱さないようにその波に乗ることだけだ。

しかして氣を乱し、心を固くすれば時の治癒力はたちまちにして失われる。

氣を鎮め息を深くすることだけが、時の力を自在にする。

整体であれば自ずから気は鎮まり、その息は自然と深くなる。

万人に整体の必要を説く理由は、時の力を活用するためなのだ。