思春期の種

息子のジブリデビューが『ラピュタ』になったのはそれなりに理屈がある。

『ナウシカ』にすると蟲(むし)とか巨神兵が怖すぎてトラウマになる可能性があるし、『トトロ』にしてもモチーフに狭山事件が盛り込まれているだけあって何となくだがところどころコワイ。

だいたい4、5歳といえば、ほとんどが「思い出せない」時期である。

となると見たもの聞いたもの、体験したものは全部顕在意識を透過して潜在意識に入ってしまう。

入っただけでなく深層意識の中で延々とリピートしているのだから要注意なのだ。今風にいえばリマインダー機能が付いていると言ったら分りやすいだろうか。

この時期に入った言葉はずっと心の奥底で小さく響き続けると思ったらいい。そうしてその人の思考・行動・態度・習慣を本人の知らないうちに方向づけ、ようやく顕在化するのは大体17~19歳くらいだという(現代の場合もうすこし早いかもしれない)。

これがいわゆる思春期における問題行動の〈種〉である。

周囲の大人が問題視するのは早くてもこの思春期に「行動化してから」なのだが、その時に現れた行動「だけ」を相手に叱言や体罰を加えてもまず奏功しない。

本質的にはその子の生育過程のどこかで、周囲の保護者や養育者がそうした思春期の種を撒いていたのだ。

だから文字通りその根は深い。本当に根気よく軌道修正をしていこうという強い決意と忍耐力、そして正しく訓練された愛情がなければ、思春期の動きにみだりに手をつけるのは危険な行為である。

そもそも人間の行動のもとにある、「こうしよう」と思うその大本のエネルギー源は、何だかわからない「漠」とした観念である。

そういうよくわからない「何か」が誰の心の中にもある。

子どもの突発的とも言える行動も、あるいはそうした行為に過敏反応する親も教師も潜在意識下の漠とした「何か」がそうさせているのだ。

しかしながらそれが具体的に何なのかは、特に当事者には皆目わからないから難しい。

焦点を掴み得ないまま行われる叱言や体罰は、効果がないどころかむしろ「やめさない」という、その言葉が無意識の反抗を一層あおっている場合も少なくない。

いわば火の元を突き止めずに、ひたすら火事をうちわで仰いでいるようなものである。そういう人為の風が火の粉をさらに舞い散らし二次災害、三次災害を引き起こしている例は日々のニュースを見ればいくらでも見つかるだろう。

方々に散った火事だけに目を奪われて原因を解析しなければ、消火活動がいくら華やかに行われても到底間に合わないのは自明の理である。

こういうメカニズムから考えていくと、この思春期予備軍とも言える「思い出せない時期」の子どもに無闇に怖い思いや痛い思いを強いるのは、できるだけ避けたい。

絵本でもテレビでも音楽でも、そういう要素のあるものはできることなら物心がついてから見せるべきなのだ。

余談だが節分のような行事で5、6歳未満の子どもを脅かして、大人が享楽にふけるなどというのはもっての外である。

仮にそれで「言うことを聞くようになった」などと効用を説く人もあるかもしれないが、人間の子どもを育てるのは猿回しの猿を育てるのとは違う。

脅しや暴力で言うことを聞くことを覚えたら、それははやくも自発性を失ったということで、大人が管理しやすい子どもを育てるにはいいが子どもを丈夫にし自発的に行動できる大人に育てる方法ではない。

・・・とまあ長々書いたけど、こういう事情で一作目は『ラピュタ』になった(長い‥)。

実際観てみたらロボット兵が覚醒するあたり激コワだったけれども‥。

まぁしかし‥男の子がここ一番で勇気を出すというシナリオは古来から定番だけど、ここまでストレートなのも近年めずらしいのではないだろうか。

こういう冒険心というか、未知なるものに向かっていく好奇心を触発する内容もわるくないのではないか‥。

悲しいかな日々の生活を省みると、息子を決していい環境に置けているとも思えない。だからせめて映像ぐらいはマシなものを見せてやりたいと思うのだ。そういうわけで、これからしばらくジブリアニメにはお世話になりそうである。

ジブリデビュー

4歳9ヶ月の息子がようやくジブリアニメを通しで観ることができた。

実のところ「映画館」にもまだ連れて行ったことがなく、ドラえもんなりトーマスなり、何か観せてあげた方がいいのかなとか思ったり‥。

まそれはおいといて。

最初に何を観てもらうかを妻と協議した結果、やっぱり『ナウシカ』『ラピュタ』『トトロ』のどれかだろうという話になった。なんやかや男の子だし主人公が同じ男の子であるラピュタにしようかという所に落ち着いた。

実は2、3歳の頃に家にあった『紅の豚』にチャレンジしたのだが、流しはじめて5分くらいで「ホカモノシタイ‥(訳:他のものにしたい)」と言われ敢え無く挫折した経緯がある。

リベンジマッチともいえる今回は、開始から15分も経ったことにはしっかりと世界観を理解し食いついているではないか。これはイケるだろうと確信したものである。

まあ「悪者」とか「いい子」とかの配役もわかるようになったし、作品全体においてとにかくリズムというか、テンポというか、「間」がすばらしくいい。

言うまでもなく作画も声優も一級品である。夫婦ともどもスジを知ったうえで、久しぶりに観てもやっぱり面白い。

素人ユーチューバ―の無料動画に馴れてしまった弊も手伝ってのことだが、やはり天下のジブリであった。

親の趣味の押し付けでちょっと気が引けるが、折に触れて観てもらい肥えた目と心を育てていこうとも思う。

上昇志向の裏側

「草食系」という親しみと奇異の目が入り混じったような表現が生まれて久しい。

まあそんなにガンバらなくても‥という「そのままで幸せ主義」のふんわり男子が発生した一方で、世の中には依然として上昇志向の強い肉食の男性も一定数はいる。

学校の成績から始まり、会社でも社会的立場でもひたすら上を目指すようなタイプの方がうちにも年に何回かは相談に来られる。

この手の人は仕事の勉強のみならず、何らかの瞑想的トレーニングや、ものめずらしいボディーワークを日常に取り入れるなどして自分磨きに余念がない。

その求めていることを端的に言えば、身体を特殊な方法で訓練することで、より有能になって周囲を出し抜こうというのである。

例えば丹田を鍛えれば気力や集中力が増すとか、呼吸が深くなれば動じなくなるとかそういう系統の話なのだが、現実はそう単純ではない。残念ながら人間ちょっとやそっと身体を刺戟したくらいで、人格や能力まで飛躍的に変わるものではないのである。

いや、本当はなくもないのだが、その恩恵は取り組んでいるメソッドや指導者に対する信仰の力に依拠している場合が案外多い。

そんな事実とはうらはらに、世の中は全般にライトな手法が大流行りである。

健康・美容目的のエクササイズやボディーワークを見ればわかる通り、「一日10分で‥」というのが流行ったかと思えば、それがいつのまにやら「一日1分で‥」になり、ひどいのになると「たった〇〇秒で」などというのまで目にするようになった。

いや、これもあながちホラとは言い切れない。洗練された質の高い身体操法ならばそれも全く不可能とは言えない。しかしながら巷に横行する商業ベースの手法の大半は中身のともなわない空虚なものばかりである。

あたかも水泡の如く、出たかと思えば消えていく。流行ればすたれるのが世のならいだが、当然のことながら内容の乏しいものほどすたれるのも早い。

こういうメソッドを買う方の心にも問題はあるが、提供する側の罪はもっと深い、と思う。言葉がわるくなるが、「人間」をなめているように思われる。

話を戻すと「上昇志向」というものは、いってみれば特定の価値観や決められた枠組みの中で直線的に自分を高めていこうとする態度だ。

このような向上心の強い人に対して治療的に関わろうとする場合、その強い上昇志向が治癒の大きな障害になることがある。

全般に慢性病やノイローゼに悩まされている人の多くは、これまでの特定の価値観の中でがんばり過ぎて、結果的に身動きが取れず頭打ちになっているのだ。

このような人に対して治療を援助する立場というのは、アスリートを育てるコーチのようなものとは大分ちがう。

つまり固定された単一の価値観の中で「ガンバレ、ガンバレ!」というような作業ではない。

むしろ過酷な練習によって心身共に疲労困憊の極み、ボロボロになった選手の横に寝そべって、テレビを横目に雑談でもうながしながら一時的に競技者のアイデンティティを崩壊させるのである。

いってみればその人がこれまで頑なに歩もうとしてきた単一のレールを一辺取り外し、全く新たな地平に未知の可能性を想起させようとする。その具体的方法はどんなものでもいい。とにかく心と体の構造を一度バラバラにして再構築させることが治療という行為の根本原理である。

裏を返せば、こうした仕組みを伴わないものは治療とはいいつつも、みんな一時しのぎのまやかしと言っていいだろう。

先にいったような固定的な価値観にしがみ付き、ひたすら努力を繰り返しているうちは、このような自我の破壊と再生が容易にはかどらない。

そして、あまりに執拗な上昇志向の背後には無意識の劣等感が隠れているのも見逃せない。本人がこれに気づき「あるがまま」を受け入れることができたとき、はじめて世界の見え方が変わり始める。

理屈は単純なのだが、実際問題そこにはものすごく時間がかかるのである。いや、時間はかけなければならないし、時間をかけるだけの重厚さと価値がある。

心でも体でも本当の治癒には大きな苦しみがともなうもので、ゆっくりゆっくりと自我崩壊を進めていかなければ危険なことさえあるのだ。

まあともかく、政治・経済・医療と各分野が総じて頭打ち状態の現代にあっても、上昇志向の強い人への社会的需要はまだまだある。

しかし個人の生き方というのを大事にしながら一人の人間を見つめていくと、だいたい青年期の後半から中年期のどこかで、そのような強く固定された価値観は破綻を強いられるようだ。

実際は死ぬまで頑張り通す人もめずらしくはないが、そういう人は大体晩年がにぎやかになる。多くの場合は心の葛藤で味わうべき苦しみを、慢性腰痛とか癌のような身体的苦痛に転換して生きているために、最後の総決算で大仕事になってしまうのだ。

このような生き方は一見すると美談とか賞賛の対象になりそうな壮絶な人生にもなるので、大抵は表面上の忙しさや病気の苦しみにだけスポットが当たって「見えざる葛藤」の方はいつまでも俎上にあがらず「影」に埋没してしまったりもする。

そうやって表面的な、外界で起こるゴタゴタの対応に終始するのか、意識を閉じて無意識の葛藤に直面していくのかは、どうも本人の意思とはあまり関係がないようにも思われる。

それはその人個人の、あるいは集合的無意識とも言われる生命全体の「こころ」のプロセスに巧妙に組み込まれているのだと最近では思うようになってきた。

これは上昇志向が良いとか悪いとかいう客観的総論ではなくて、そのような生体と心理構造を見つめた個人的偏見なのだが。

健康を第一として観る立場からすると、何か上へ上へと絶えず努力している人を見ると、私的な興奮や躍動感と引き換えにいのちを削って生きているようについ見えてしまう。

 

ボディワーク考

私の先生は「ボディーワーク」という言葉を好まなかった。戦後世代としては横文字である上に響きからして軽薄なニュアンスを感じるのかもしれない。

いわずもがなだがワークとはおよそ仕事、勉強、研究といった意味である。先生に言わせれば整体法(野口整体)は養生とか修行という位置づけだったので、その観点からも受け入れ難かったのではないだろうか。

因みに英語には「修行」という言葉にぴったりくる訳語はないそうで、訳者はその都度前後の文脈から適当な言葉を探さなければならない。

まあともかく、巷にはボディワークがいろいろある。

そういうものをいろいろやってから、その一環として整体法(野口整体)に目をつけてうちに来られる人もいる。

実はこの「いろいろやった」というのがなかなかのクセ者で、いろいろやってきたことが引っかかって整体法の門をくぐれない人がいる。

どうも観ていると、雑多な情報や刺激が交錯・混濁して「自分の」身体がよくわからなくなっているようだ。さらにいえば直感が鈍っているようにも見受けられる。

健康に自信がないためにいろいろやる人もいるし、何らかの形で上昇志向を顕現するために複数のボディーワークをかけもつ人もいる。

しかし整体法はそういった方向性とは反対、というかむしろ裏側にある気がする。

「何かやる」ということの限界性を味わった人が、「何もしなかったらどうなるか」という考えの転換によって最後に行きつく場所がある。昔から「真理」とか「自然」というのはそういうものではないだろうか。

老子の「つま立つものは立たず」というのが短いながらも言い得ているが、人間立つにしたって、無理につま先で立つより普通にかかとを使って立てばいいはずだ。

余分な気張りは始めのうちこそ充実感があってよいかもしれないが、そういうものは何年何ヶ月と続けられるものではない。

まあどんなボディーワークでも楽しみでやっている人に横槍をさすのも無粋だろう。しかしはたから見ているとあまりに不自然なことをやって、かえってバランスをくずしている人がいるのは否めない。

そんな人でも無意識のレベルではその「違和感」をどうにかしたくて整体法に活路を見い出そうとしているようにも思えるのだが‥。

そうは言いつつ寄り道、回り道、振り返れば一本道という言葉もあるくらいで、何をやろうとやがては肥やしになるのが人生だろう。

ともかく自分が親しんできた整体法は他の多くのボディワークとは立ち位置が違うと思う。

何でもいいから手当たり次第いろんなことをやろうという鼻息の荒い人には、まず深呼吸して彼の足元を点検してもらうことにしている。それも頭に血が昇り過ぎているとわからないのだが‥。

まあ何にせよつま先立ちは続かないし、自分の歩幅を忘れたら歩きつづけることもできない。どんな人間でも自然からは逃れられないのだ。

ボディーワークをやめたら、どうなるのか‥。やるだけやってクタクタになったらやがてはそんな気持ちにもなるだろう。

限界まで疲れ切り、欲も得も完全についえた人が最終的に落ち着く場所が今の「いのち」だ。最後の砦は絶対にあなたを見捨てることはないのである。

メメント・モリ

六角橋の古本屋で『メメント・モリ』という本を見かけた。

メメント・モリとは「死を思え」というラテン語らしい。手に取って見ると藤原新也氏という写真家が青年期に外国を旅して撮りためた中から厳選し、それに言葉を添えた写真集である。

インドとおぼしき国では犬にかじられる遺体がそのまま写しだされている。ショッキングな内容だが、調べてみたらかなりのロングセラー本らしいではないか。

妻にそのことを話したらそれは思い出の本だという。なんでも最初の彼氏にプレゼントしてもらったらしい。どういういきさつそうなったのか気になるけど、まあ因縁の本だ。

中でも次の内容は印象的である。

死というものは、なしくずしにヒトに訪れるものではなく、死が訪れたその最後のときの何時かの瞬間を、ヒトは決断し、選びとるのです。だから、
生きているあいだに、あなたが死ぬときのための決断力をやしなっておきなさい。

昔から「息を引き取る」というが、人生の最後の息は「ぁー…」と吸ったあとに小さく「ぅん…」と肚にいきんで死ぬ、というのをどこかで聞いたことがある。

はじめてこれを知ったときは、人間最後の一息は自分で決断するのかと感慨深かった。

よく修行を積んだ禅僧などは、「今日の夕方に死ぬ」とか「明日死ぬ」と宣言し、その言葉通りの時刻になると「じゃあこれにて」とばかりに「ぁー…ぅん!」といって遷化したという記録も複数ある。

これなどは「決断力」をやしなった例といえるかもしれない。

ちなみに一休さんは八十八歳で遷化する際に「死にとうない‥」といったとい。真偽のほどはわからなけども、本当だとすれば一休さんいいな。

前置きが伸びたが、野口整体のスローガンは「全生」、すなわち「今に全力発揮」である。

男でも女でも老人も子供も、国籍も人種も政治思想も主義・信条・信仰・善悪そういったものも一切関係ない。どこのどういう人でもみんなみんな元気であらねばならないのだ。

そういうことを理想に掲げているけれども、何故かといえば「人はみな死ぬから」という、最初に死を思う視点に支えられている。

人間死ぬ時に余力を残してはならない。生き物はエネルギーを余したまま死を迎えると余分に苦しむのだという。だから生きている間に意欲を奮い、要求を使い果たそうと、そう諭す。

この本を読んで、メメント・モリという言葉を古代に創作した人も、もしかしたら同じ着想だったのではないかと思った。

たしかに現代社会で生活していると、平素死を思うような局面に出くわすことめったない。

現代人の多くの場合死が遠ざかっている状態が「幸せ」であると思うし、何処かに幸せになる方法があるとわかれば走っていって買い求めるよう群がる。

親はできるだけ死を遠ざけて安心を得る方法を身に付けさせようと教育するし、教育現場でも個人の生き方を掘り下げるような仕組みよりも、もっぱら場当たり的な社会適応に徹した「人間作り」に偏しているようにも見える。

その結果、「社会」への適応を遵守してきた人がある時ふと自分の中に息づく「個人」に目覚めるとき、必ずと言っていいほど何らかの苦しみを覚えるのだ。

その「苦しみ」は幸せではないかもしれないが、生きている喜びと表裏一体でもあるから厄介である。

一人の人間が「その人として」自分を生きようとするとき、そこにはじめて苦渋と歓喜の混在する〈今〉が現れる。

「中年の危機」などは象徴的だが、もっと早い人もいるし、老年になってからはじめて自己の問題に突き当たる人は大勢いる。

中にはお墓に入るまでそういう意味での危機に直面しない人もいるかもしれないが、おそらくは「健康であった」とは言えないだろう。この場合、死の意味は知っていても、「自分のこと」として深く掘り下げられなかったのではないか。

とにかく何を考えようと、人間という個体生命なら百年も経てばみんな時間という波の中に飲み込まれてしまう。それを思えばおのずと今日の身の処し方は定まってくる。自分の感性を拠り所とし、自分で決断実行していくより他はない。

整体を説いてその実践を促すのも、行動の出発点である「感性」の純度を保つためだ。自然の感性に従がう生活によって「生」が整えば、その終着点である「死」が整うのも当然の成り行きである。生と死は一つの現象の二つの側面なのだから、

memento mori

死について少しでも真面目に考えるなら、生の象徴である身体を先ず整えようと願うのが自然ではないだろうか。整体法が生命に対する礼といわれる所以もその辺りにあるはずだ。

それでも「努力」は必要か

「子どもの集中力が続かない」

「ものごとが継続できない」

「〈努力する〉というのは不自然なことでしょうか」

先週はなぜか努力というテーマでよく質問をいただいた気がする。

わたしがさも努力家に見えるのか、それとも努力もせずにぼーっと生きているように見えるのかはわからないけれども、職業がら何か面白い答えを言ってくれそうな気がするのかもしれない。

しかしあらためて考えると、みなさん「努力」は好きだろうか。

公の場でうっかり「わたしは努力は嫌いです」などと言えば、ヘタをすると怠け者のレッテルを張られかねない。

しかし一人きりになったとき、自分自身に「本当に努力は好きか?」と正直に問うたら、「できればそんなことはしたくない」という声をまったく無視することなどできないのではないだろうか。

それ以前に、そもそも「努力」とは一体どんな行為をさすのだろうか。

一般的には目標に向かって、心身の力を奮い努めることが「努力」の意味だろう。

ただし日常生活でこの言葉が使われる場合、「嫌なことでも無理をして」とか、「少々体をこわしても、精神的に辛くとも、目標に向かってひたすら努めていく」ような態度が求められることもある。

果たしてこのような態度で、本当に人間の力が最大限に奮えるのかどうかは怪しいものである。

孔子の言葉に「これを知る者はこれを好む者に如(し)かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如(し)かず」というのがあるが、これなどすでに「面白がってやっている者にはかなわない」と言っているのである。

つまり「興味」と「関心」、そしてこれらに裏付けられた「意欲」というものが人間の行動の元、真の原動力なのだ。

これに則して動いている場合、ハタから見てとてつもない「努力」をしているような者でも、本人からすれば欲も得もなくただ夢中になって取り組んでいるだけなのである。

またこんなとき、怪我をしたり病気をしたりというようなことはほぼない。

ところが世間で「努力」といった時には、子どもが友達と遊びたい欲求を「意識的に」抑えて、家にこもり机に向かって勉強をしているような場合がある。

あるいは少年野球などでコーチや先輩の睨みに抗せず、休みたい要求を押し殺してバットを振りをつづけたり、ノックを受けつづけるようなケースもあるだろう。

いまだにこのような前近代的「努力」がすばらしいと賞賛される向きもあるが、本人がいっさい興味を失っているにもかかわらず外からの圧力でやり続けているとしたら、そこにはすでに葛藤という心の摩擦が生じているのだ。

言うまでもなく摩擦というのはエネルギーを喰うものである。

この様な場合「そこそこの結果」くらいは出せるだろうが、「持てる力を最大限に発揮する」などということは不可能だろう。

もちろん心は物ではないがこれをもう少し「物理的に」考えてみれば、上の例の場合「勉強をしたくない」「練習をやめたい」という心に対し、意思の力によって「それでも勉強をしなければ‥」「練習しないと怒られる‥」などとやっているわけである。

これは自分自身の心の中で真逆のエネルギーがぶつかり、すでに相当なパワーを衝突によってロスしていることになる。

このような葛藤状態に翻弄されつつ、かろうじて行為しているような状態が「努力」だとすれば、その行為者は遅かれ早かれどこかで破綻するのではないだろうか。

「わたしは努力がつづかない」

「努力しているのに報われない」

もしもあなたがこんな境遇に見舞われた場合、まず自分のしている「努力」の中に葛藤による心の摩擦や衝突が生じていないかを点検してみた方がよさそうである。

さらに自分が遮二無二取り組んでいるその行為の背後には、どのような心象風景があるのかを冷静に内省することを勧めたい。

ところで最初の質問に「努力は不自然か」というものがあったが、わたしは少なくとも自然界には努力という態度はないと思っている。

人間でも少なくとも3、4才くらいまでの子どもなら努力などしないだろう。しかし夢中になって行うその「遊び」という行為によって周囲の大人が感動させられることもしばしばである。

そこには先に述べたような葛藤によるエネルギーのロスもなく、また失敗してもそれを失敗と思わずに、次々と最初にあった要求実現に向かって動いていく。

その姿をみると「努力」の是非など考えるのは、まったくもって大人の雑念ではないかと反省させられる。

それならばむしろ動物や子どもたちの素直な心に我が心を照らし、自分の中にある真の要求を見究めることに「努力」した方が、後々になってずっと大きな実りを得られるのではないだろうか。

そうはいっても、自分の心の深層を整理し、明らかにしていくことはなかなか手ごわい仕事である。このような心の仕事に取りかかる場合には、それこそ相当な努力が必要であることを事前に覚悟しておいた方がよいように思われる。

インフルエンザ

インフルエンザがかまびすしい。

自分が子どもの頃(昭和60年代)はまだこれほど世間がインフルエンザに対して過敏ではなかったと思う。いつの間にやらこうなってしまった。

たしか7、8年は前だったか、「インフルエンザが流行る」というだけで予防接種を主体として1億円の利権が生じるのだ、という内容の動画を観た。

どこかの団体が抗議を目的として集まっていたのだが、いま探してもその動画は見つからないので消されてしまったのかもしれない。真偽は確かめていないけれども、どことなく信憑性を匂わせる。

日本の報道機関も慣例にならってこの季節はインフルエンザの報道でもやっておこうか、といった所なのかもしれない。

それ以前に日本人が病気に対してずいぶん過敏になった気がする。

冷静になって症状に目を向ければ解るが、「インフルエンザは普通の風邪ではない」「高熱が出る」「是非とも予防接種が必要である」というのは少々いきすぎだろう。

「インフルエンザも風邪の一種ですよ」という医師もいるし、いわゆる「ふつうの風邪」でも本人にエネルギーが余っていれば39度を越す熱だって出るものだ。

そもそもウィルスや細菌というのはどこでも飛んでいる。マスクをしたとか手を洗ったからといって無菌になるなどありえない。

人間の行くところ何所へ行ったってウィルスや菌だらけなのだ。

それが朝夕満員電車に乗ってもほとんどの場合ウィルス性の感染症にならないのは、「身体にその必要性がないから」である。

人間は身体に「ある条件」がそろうと発熱の必要性が生じる。身体各部の偏った疲労を解消するために「熱」が必要なのである。

それは言うなれば天然の温泉、自家製の湯治みたいなものだ。

そういう「疲労の偏り」がなければどんな病気だって必要はないし、そういう「病気の必要がない状態」が健康かというとそうでもないのである。

必要なときに必要な病気にかかり、順当な期間を要して経過することが自然の健康を乱さないためのコツだ。

それはそうとインフルエンザに限らず特定の病気をこわがりすぎるのも、その病気にかかる要因になる。身体が意思とは逆の空想に引っ張られるからなのだが、これについてはまた改めて書こう。

10月21日 愉気の会後記

去る10月21日(日)、愉気法講習会を行いました。

愉気とは狭義においては整体法の気の手当てです。こまかな技術以前に「愉気をする人になる」ことが先ずなによりも肝要です。そのための下準備を念入りに行いました。

はじめは脊髄行気からです。

背骨に気(もしくは息)を通すような心で、スースーと呼吸をします。

しばらくすると気持ちが落ち着いてきますので、すっかり落ち着いたところで活元運動に入っていきます。

しっかり一時間弱、時間をとって行いました。

しかしながらこれもまだ下準備です。大自然のリズムと自分の呼吸を合わせるために、頭をぽかんとさせて身体の動きの中に没頭していきます。

この日ご参加されたみなさんは、よく体が動いていらっしゃいました。

愉気をしよう、人に手を当てて癒そう、と考えるような方はそれだけ心が自然に近いのかもしれません。

そうして活元運動がおわったら今度は坐学です。

教材は野口先生の『健康生活の原理』から。下に一部を引用しておきます。

私は医学的な考えというもの、あるいは体の解剖学的構造というものについて、何も学ばない十代のころから、大勢の人に愉気をし、また活元運動を誘導して健康をたもつように指導してきました。痒いところを掻くと、痒みがなぜ止まるのかは判らなくても、掻くと痒みが止まるようなものだったのでしょう。そのための体の構造も知らなければ、何を食べたらよいか、そういうことも知らないのに、相手を健康に導き得たのです。

何を基準に導いたか。強いていえば、人間はどうしてい生きているのか、生きている力を潑溂とさせるにはどうしたらよいか、人間の勢いということ、気の集注分散の波、ただそれだけを見つめ、その勢いを使って、さらにかくれている勢いを誘い出す、それだけのことを目標にしておりました。…<中略>…だから私の知識は五十何年間、一つ処へ坐りこんで、来る人の体を丁寧に観察し、そのうちにある勢いと、その勢いのもたらす体の変化だけを一人一人、調べ考えてきただけなのです。(野口晴哉著『健康生活の原理』全生社 pp.8-9)

とこういう具合に、とにかく形以前の「勢い」を呼び覚ますのが整体法の根本です。そうして相手の裡なる勢いを揺さぶっていく媒体が「気」である、と考えたら良いと思います。

こういう原理を念頭に置いて、その上で技術に入っていくことが大切だと私は考えています。

さて前置きがうんと長くなりましたが、いよいよ実習です。

具体的なこと‥をいちいち書いていくとものすごく長い駄文がつづいてしまいそうなので、申し訳ないのですがここから抽象になります。あとはご参加されてからのお愉しみと、思ってください。

先ずは気の感応を視覚化するための稽古です。

それから相手の背骨に手をかざして、引き合うところを見つけます。

そのあとで実際に触れての愉気を行いました。

あとはご参加いただいた方から「こんな場合はどこに愉気をしたらよいか?」という質問がありましたので、それにお応えするような稽古を行いました。

個人的にはこういう手かざし、手当ての系統は「変な方向」に言ってしまわないことがとても大事だと思っています。

ひと言でいえば「謙虚さ」みたいなものを修めていくことが修行ではないでしょうか。

自然との調和をはかっていく時に、やっぱり「私は、こうだよ」というものがあると、何となくギクシャクしてしまいます。

だからとにかく呼吸を自然に、こころを自然に。でも「自然にしよう」なんて思うとかえって不自然になりますから、自然にするなんていう作為らしいものをすっかり忘れてしまうくらいにまで活元運動をやっていくことが「愉気をする人」になるための近道だと思います。

などと言いつつも「この人のために」という気持ちがあれば、それだけでやっぱり愉気にはなりますが‥。何であれ、こういうことを覚えておくことは良いことにはちがいありません。

また有志の方で集まってやって開催いたしましょう。

見るということ

この二週間ほど文字を見ることができなかった。活元運動を毎日やっていたら目が痛くてしょうがなくなってしまったのだ。

そしてメガネがかけられない。

どうもあやしいので近所の眼鏡屋さんで検査したら、近視の度数が軽減しているではないか。簡単にいえば目が良くなっていたのだ。

活元運動の効用かどうかはわからないけれども、気がついたときには「目の前にレンズがある」、「顔に金具が掛かっている」という不自然さがつらくなっていた。

目の疲労は背骨の上方と、肩甲骨の動きとの関係が深い。そして肩甲骨は骨盤の動きと対応している。

さらに骨盤は呼吸といっしょにわずかに開閉する。と、こんな風に身体各部の関連性と連動性を挙げていくときりがない。

だから人体上のどこに問題が起こってもその責任は全身にある。

近視も眼球だけの問題ではないのだ。

伝え聞いたところでは、野口先生の存命中は整体指導者たるものメガネなどはかけなかったそうである。

とはいっても航空機のパイロットみたいに、裸眼視力のよくない人は最初からはじかれてしまう、という話ではない。

近視や遠視の人はその視力のおよぶ範囲内で生活をおくっていたという。

だからぼやけた世界で一生懸命氣を集めてモノを視て、それで立派に仕事をしていたそうなのだ。

だから人に会ったら50cmくらいまで顔を近づけて、「ああ〇〇さんか、こんにちは」とかやっていたらしい。

壮絶っ、という気もするけれども自然界ならばそれは当たり前だったりする。

そういうことが「自然」なら、服を着るのはどうなんだ、靴を履くことは?自動車に乗ることは?と考えていくとメガネだけに固執するのも妙な気もするのだが‥。

しかしながら、「目」そして「視る」という行為は精神活動に直結する気がしている。

むかしから「目は心の窓」というし、江戸から明治を生きた剣禅書の達人、山岡鉄舟によれば、人間はいくら学問や知識そして財力があっても「目から光が出るようにならなきゃ偉くはなれない」そうである。

仏教の方では慈眼などという言葉もあるし、人間を語る上でやはり「目」は軽視できない。

なんだか取りとめない話になってきたけど、本気で身体の再構成を願うならメガネ、コンタクトレンズといった矯正機器を付けている人は一定期間はずしてみると効果的ではないかと思った。

強度近視の方などはむずかしい場合もあるかもしれないが、今回のことでメガネを外したぼやけた世界でもかなり生活できたことに我ながら驚いた。

主観的には今までの頭の「はたらき」とは何か違う感じがする。

些細なことかもしれないが、また一つ身体の自然について考えさせられるできごとだった。

それにしても活元運動は本当にいろいろなことを教えてくれる。生命神秘の体現法だ。

9月13日活元会後記 体の波について

9月13日活元会を行いました。

事前のふれこみでは坐禅・活元会だったのですが、わたしが前半しゃべりすぎたために坐禅の時間はなくなりました‥。

教材は野口晴哉先生の講義録より「体の波」を選んで音読をして、みさなんに聞いていただきました。

整体法(野口整体)というのは実践哲学です。

なので、実践と並行して知的理解の両輪が必要である、というのが当院なりのスタンスです。

「両輪」ですから‥

左右の車輪のどちらかが大きかったり小さかったり、回転数がちがったりすれば、それでもうクルマはまっすぐ走れなくなります。

だから頭で理解するばっかりでもなく、理解したら必ず実践をする。

実践をある程度かさねたら、何のために、あるいはどういうことかを考える。

こういうことを行ったり来たり繰り返しながら、整体法をみなさんが体得していかれるようにと一応は考えています。

ちょっと話が横にずれましたが今回は「体の波」です。

人間には「波」があります。

これは科学的な検査でとらえにくい人間の生理機能といってよいと思います。

もちろん心電図や脳波計などではかろうじて「波」的なものがとらえられますが、レントゲンとか血液検査では完全にそういう時間軸はとらえられません。

そういう「点でとらえた」情報だけで、「生きた人間」がまるごと解るかといったらそれはおそらく不可能でしょう。

だから「生きて動いて絶えず変化する人間」をそのままとらえて、その波の低調高調を見極め、そのうえで波の間に間にポンポンとリズムや言葉や身体的な刺激を叩き込んで勢いを呼び起していく。

これが整体法の原理原則です。

しかしこれは決して「整体指導」という非・日常の特殊な空間だけにいえる話ではないと思います。子どもの躾のような家族間のコミュニケーション、家族以外でも人と人が心を通わせるためにはこういう生理的な波のあることを知り、その波の使い方を覚えていくことは大変有効です。

どうしたらそういうことが可能になるのか、といえばそれは自分の心身を通じて波のあることを勉強し理解していくことが一番の近道です。

心・体の微細な動きをよくとらえられるように敏感さを保ち、育てていくように、丁寧に生活をしていくことでそれは可能となります。

活元運動をこつこつやっていく、ということが王道ですが根底にあるのは自分自身の「たましい」とかその器である身体に対する礼、そして畏れの気持ちを持つようになれば年々歳々、心身は磨かれていくことでしょう。

ダイヤモンドと同じようなもので、磨かなければ誰の目にも止まらない石ころです。

身体もそういうものではないでしょうか。

有志のみなさまにはぜひ活元運動をお伝えしたいと思います。

次回は22日土曜日です。