再びユング自伝

ユングの自伝をまた読みはじめた。

個人的には子どもの頃のエピソードはなかなか読むのに苦労する。というか、まあ訳本なのでどうしても読みがぎこちなくなる。

それはそれとして、やっぱり青年期以降、それから独自の精神分析態度による治療理論を構築していくプロセスは圧巻である(自伝1のⅣ精神医学的活動のあたり)。

その当時、いわゆる「精神の病」というのは医師でも手が付けられないものだったらしい。昔の早発性痴呆(今でいう分裂病、統合失調症)はライ病患者と同様に、治療者とともに町はずれに隔離しておくしかなかったようである。

そう言えば、黒沢明の映画『赤ひげ』にも精神疾患の娘が離れの小屋に滞留させられていた。自然科学が未発達な時代にあっては、このような対応は致し方なかったのかもしれない(現代の「カガク」的な対応が良いとは決して思わないが‥)。

兎も角、そのようないわば常識やタブーに対して、はじめてユングという人物が斬り込んだ。心に深いこじれや偏りを抱えた人たちが訴える妄想や苦しみを一所懸命に聞いてみると、その病的な態度の裏にある本当の「理由」が明らかになって、治っていくのである。

それは革命的なことだったのだ。

それというのも苦しんでいる人を捨て置けない「いきさつ(=人生の物語)」がユングにはあったわけで、他者の治癒に関わることが自身にとってのやすらぎだったのではないかと思われる。

野口整体の野口晴哉先生はその圧倒的な技量と人徳ゆえに治療を求める人があとを絶たず、そのあまりの多忙さを見かねた周囲の人が「少しお休みになられては‥」と進言したところ、「僕が休まるのは苦しんでいる人に手を当てている時なんだ」と答えられたそうである。

人間の世の中には「支えているつもりが支えられている」ということはよくある話で、臨床においても治療者と患者の立場がときどき入れ替わりながら治療が瀬妙に進んで行くようなこともなくはないのである。

まあとにかく、ユングこそが人類の心の多重性を明らかにした立役者である。

一方で、「身体を媒体として意識に切り込んでいく」という点で方法こそ異なるが、野口整体も人間の潜在意識を重視した点は一緒である。

いずれにせよ治癒の鍵となるのは、どれだけ深く患者に「関われるか」だろう。

それには治療者自身が自分の心の真底まで降りていく勇気と訓練は欠かせない。

こんなことを書いていたら、20年前、自分の通っていた大学の学部長(文学部)が講義の最中にぽつりといった一言を思い出した。

「人間が一番深い」

限りある時間の中で、どこまでその深さに踏み入って行けるだろうか。

自分とは何か。

達磨大師は「お前は誰か!」と詰め寄った武帝に対して、「不識(知らない)」と言い切ったが、その判り切れない自分の中にいつだって無限の広がりがある。

自分が何者か、

これを知らずに死んでいくのはまこと惜しいことである。

禅、瞑想、活元運動などを日課とし、意識を閉じて無心に聴く訓練の必要をくり返し説くのもこのためだ。

古来から多くの宗教家が心の世界を独自の主観を磨くことで明らかにしてきたが、ユングも近現代における貴重な心の導き手の一人であることは間違いない。

『こころの読書教室』を読む

目の前のクライエントさんのことは、いくら本を読んで探してもどこにも書いていない。それは本当にその通りなので、とにかく「ひとりの人」が来られたら「一生懸命その人の話を聴く」というのが、カウンセラーに残されているたった一つの武器と言えるかもしれない。

だからといって、読書が心理臨床に全く役に立たないかというと、これは役に立とうが立つまいが「是非とも読むべき」で、プロならば読まなければならない。いや、実際は大いに役に立つはずだ、と私は信じている(ただ、ほっとんど読めていませんが‥)。

カウンセラーにとっての読書は、例えるなら消防士さんが毎日筋トレをするようなものではないだろうか。筋トレさえしていれば人助けができるという訳ではないが、基礎体力は絶対にいるし、有事に備えるプロ意識の具現化という観点からも必須だろう。

とりわけ「こころ」を中心として人間の全体に向き合う「治療者」にとっては、読書は日々の食事や睡眠、呼吸と同じように当り前のことだと思う。

著者の河合さんが冒頭に言う、「(みんなもっと本を)読まな、損やでぇ」と投げかけた言葉のウラに、そんな含みを推理した。

読了後、何よりうれしかったのは「治癒」という現象の論理性に、非常に安定的な「枠組み」が構築されたことだった。つまり「〈治る〉とはこういうこと」、「こうなれば〈治る〉」ということの必要十分条件が立体的に捉えられたのである。

一方でモノゴトには安定的になり過ぎるとかえって死に近づく、という逆説的な面があるので(←動的平衡)、構築された理論に対して「本当にこれでいいのかな?」という第三者的な批評の慧眼はいつも開いておきたい、とも思っている。

話は行ったり来たりするけれど、この『こころの読書教室』が新潮文庫に入る前のタイトルは『心の扉を開く』(岩波書店)だったという。

「読書」という行為は心の深層へ通じる扉を開き、私自身が普段は心の下層に眠っている〈わたし〉に出会うこと。

またそこからさらに進んで行った先に、〈たましい〉とか〈いのち〉などと呼ばれる、生命の全体性と深くつながるための儀式によって人は癒され成長して行く、ということまでを示唆している。

ちなみに「心」から「こころ」へと表現が変わったのは、精神の領域をより広範囲に求めるという目的で、もとは夏目漱石の小説にならったそうだ。

さて、本書においてそのこころ(=無意識)の扉を開くための水先案内人として、適任と思う書物を全四部構成として一部当たり5冊ずつ。「まずはこれを読んでください」と紹介してくださっているので、それが計20冊。

これに加え、「もっと読んでみたい人のために」という括りで、さらに5冊ずつ。だから総計で40冊が掲載されていることになる。

一冊ごとに河合さんならではの読みの深さを背景に、優しいユーモアを織り交ぜた書評が豊かに綴られており、どれをとっても「あー、コレはぜひ読んでみたい」と思わせてくれる。

そして一部を読み終わると、氏の伝えたかった大切な「想い」が知らない間にこころの中にそっと贈られている、といった印象だった。

本書を通じて、「人間」というもの、そしてその人間が生きている「人生」という事実がいかに多面的かつ多重構造的であるか、ということを教えてもらった感じがする。

世間では時折り、「目的を見失うな」という言葉を耳にするが、目的が単一的かつ固定的であれば当然それだけ迷いにくくもなるし、進歩も早い。

ただしそれは人生50年などと言われていた時代なればこそ、有効な助言であったのではないだろうか。

いまや半数以上の方が長寿を保証されたかのような現代社会にあっては、むしろ人生の意義を多面的に捉え、いかに有用な道草を食うかということが来るべき死をより豊かに完成させるためには大切な「プロセス」になるのではないか、とも思える。

しかし体力的にも経済的にも、そして時間的にも限界のある人間にとって、自分の足で歩める「道」には限度がある。

当然のことながら性愛や生死にかかわる事象など、あまりにリスキーなことは理性的に避けなければならないし、そんな風に何かと制限つきの娑婆にあって、「本を読む」ということは(仮想とは言え)こころの体験値を安全に増やしてくれるありがたい行為であることは間違いない。

まあ、兎に角、「読まな、損やでぇ」という河合さんのユーモラスな愛情表現ともとれる一言に、本書の主旨はギュッと濃縮されている。紹介された本にはこれから一冊ずつご挨拶をして、丁寧に語り合っていこうと思う。

そして40冊分の物語を体験した後で、私自身が一体どんな〈わたし〉と出会うことができたのか、それが今から楽しみである。

影をなくした男

シャミッソー作『影をなくした男』を読んだ。

wikiによるあらすじはこちら

物語の主人公シュレミールが自分の影を大金(無限に金貨が出てくる袋)と引き換えに悪魔に売り渡したことからさまざまな出会いと別れ、そして深い自己内省の後に開かれる第三の道。

まさしく個人の人生の縮図として象徴化された物語といえる。そこで、シュレミールが手放してしまった「自分の影」とは一体何を象徴しているのか?という深読みが他の本やネット上でよくなされている。

心理学的に読もうとするならば、まず「影」といった場合それは「心の中に潜在する上手く生きられていない自分」を指す。

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河合隼雄著『中年クライシス』を読む:心でも体でも病症が人間を整え丈夫にする

開業当初はあまり年齢層が絞れていなかったが、現在せい氣院に通われている方は30代の前半から40代の半ばくらいの方が圧倒的に多い。

ときおり還暦を控えたような方も来られるけれども、だいたい3~5回(2~3ヶ月)通ったあたりで当初の主訴が解消されると同時に「卒業」されていく。

その主訴というのも腰痛や動悸、息切れ、血糖値の異常といった年齢相応のトラブルに対して、病院の処置に満足がいかずに来院されるというケースである。

整体操法によって「首尾よく治ってしまった」と言えば聞こえはいいけれど、こうした年長の方々に対して「その先」の可能性を感じていただけないのはやはり力不足なのだろう。

これとは対照的に、永続的に指導に通われているのは「自分自身に取り組んで、可能性を掘り起こしたい」という要求を感じさせる壮年期の方々である。

これがいわゆるミッドライフ・クライシスとか中年の危機とよばれる、精神的「ゆれ」に脅かされやすい年齢層の人たちだ。

ただし、この「中年の危機」は中年に限定されるかというと、そうでもないことに最近気がついた。というよりもそもそもが「中年」の定義自体が曖昧と言えそうだ。

ユングに倣って言えば、人生を日の出から日没に例えて40歳を〔正午:中年の真ん中〕とした。

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活元会 2017.10.14:「個性化」とは?人生の後半に充実感を持たせるための大切なプロセス

昨日は活元会でした。

今回の教材はこちら。


『ユング心理学と現代の危機』河出書房新社

著者は複数、湯浅泰雄、高橋豊、安藤治、田中公明の四氏。うち、高橋豊氏のパートから。

テーマは「個性化」です。

まず「個性化」というのが少し専門的ですから、これについてまず河合隼雄先生の『ユング心理学入門』より引用してみると、

個人に内在する可能性を実現し、その自我を高次の全体性へと志向せしめる努力の過程を、ユングは個性化の過程(individuaton process)、あるいは自己実現(self-realizaation)の過程と呼び、人生の究極の目的と考えた。そして、われわれが心理療法において目的とするところも、結局はこのことに他ならないのである。(河合隼雄著『ユング心理学入門』培風館 p.220 太字は引用者)

と、このように書かれています。

この「自我を高次の全体性へと志向せしめる努力の過程」というのをもう少し平易に表現すると、

自分の人格の成長を思って努力している過程」というような表現でもよいと思います。

この個性化こそが心理療法の目的である、というのが河合先生(元はユング)の論です。

そこで「どのようにしてその個性化を行なっていくか」ということが問題になるわけですが、ユングは自身の精神的危機を乗り越えて行く過程で「ヨーガ」を活用したと言われているのです。

つまりユングは当時の西洋にしてはかなり前衛的な試みとして、身体を通じて心の再編を行なうための実践的方法を追及していました。

そこに一つの強力なガイドとなったのが東洋思想と、東洋的な身体行法であったと考えられています。

当然ユングは年代的にも地理的にも日本の活元運動の存在は知るよしもありませんでしたが、この意識を閉じ、無意識に任せて行う活元運動は、自我を高次の全体性へと向かわせる手段として、非常に適しているものなのです。

野口整体には「全生」という、心を自我という枠から解放して命を全うする生き方を推奨する、教義があります。

これは先に挙げた心理療法における個性化、あるいは自己実現という概念と目標をほぼ等しくするものです。

当会の場合は、その「全生」あるいは「個性化」という方向へ生命を向かわせるための大きな推進役として「活元運動」を位置づけいます。

何ごとも「目標をどこに置くか」で着地点は変わるものです。

志ある方は「よく生きる」という目標をもって、全身のちからを抜き、意識を鎮め無心のちからを体得しましょう。

次回、次々回の活元会は、10月9日(木)、28日(土)です。

ユング心理学における「影」について2:影は心ののびしろ

…このような影があってこそ、われわれ人間に、生きた人間としての味が生じるのであって、ユングも「生きた形態は、塑像として見えるために深い影を必要とする。影がなくては、それは平板な原型にすぎない」と述べている。影のないひとは、いかに輝いて見えても、われわれはその人間味のなさにたじろぐことだろう。

シャミッソーの有名な「ペーター・シュレミール」のお話は、影を失った男の悲哀を、うまく描き出している。この素晴らしい物語の最後に、シャミッソーは、この物語を皆さんにおくるのは、人間として生きるためには、第一に影を、第二にお金を大切にすることを知って欲しいためだと書いている。

これをみて、筆者はある精神分裂病のひとの夢を思い出した。夢のなかで、このひとは、自分の影が窓の外を歩いてゆくのを見るのである。自分の影が自分のコントロールを離れて、一人歩きを始めたら全く危険きわまりないことである。

分析を受け始めると、ほとんどのひとがこの影の問題にぶち当たる。(河合隼雄著『ユング心理学入門』培風館 p.102 改行は引用者)

※塑像(そぞう)粘土・油土・蠟ろうなどを肉付けして造った像。銅像などの原型としても造られる。

心身に起こるさまざまな病症はもとをたどっていくと、自身の心の全体性が躍動しないことで「よく生きられていない」という、深層心理の問題が契機となっていることは少なくない。

このような個人のなかにおける「よく生きられていない部分」のことをユング心理学では「影」と呼んでいる。そしてそれをいかにして認め自身の心に統合していくかというのが心理療法の、特に初期における治療の焦点である。

ところが影というものはそもそも、物体に光があたった時にあらわれる必然の現象である。それだけに影を統合し消失させようとする行為は、その母体の存在をも危うくさせる可能性にさらされる。

また引用文に「生きた人間の味」というふうに表現されているとおり、影はいわばその人の隠れた持ち味でもあるのだ。

芸術家などはこの影を原動力にして創作・表現活動をしている人がほとんどであるために、そうした職業にある人が精神分析を受ける際は、事前に治療者とクライエントの間で入念な話し合いが設けられるのが常である。

整体の臨床においてはどのように対応していくのか、ということを考えてみると、もちろん個人ごとに全くことなるオリジナルの対応をそのつど生み出していくことは当然であるが、人間の精神と肉体の間にある共通の反応を理解し活用することはとても有効である。

まず基本的な話として「受け入れる」という行為は身体上に硬張りや固さがあるうちはできない。うらを返せば、身体の硬張りを上手にゆるめることさえできれば、その治療は半分以上成功したといっても過言ではない。

そこで「いかにゆるめるか」という問題に直面するのだが、整体指導といっても心理療法といっても、実際にクライエントの内面にまでおよぶ変化を引き出すものは技術以前の「何か」によるところが大きい。

その何かのなかに雰囲気や環境というものもふくまれる。

まず人がゆるむために欠かせない条件の一つに「安心」があげられるだろう。ほっとするとか気持ちがよいと心から感じられる雰囲気や環境がまず最初にクライエントの人格を受け入れ、それによってクライエント自身が自分を受け入れるという筋道を学ぶことができるのだ。

だから強力な影(実生活にあらわれていない自分)からの圧迫に悩み苦しんでいるひとに出会った場合、わたしは「抱える能力」を有した心の豊かな人との積極的な交流をすすめることが多い。

つまり自分で自分を受け入れるためには、まず自分以外の人に受け入れられる必要があるのだ。

そうして「あるがまま」、本当にちからが抜けきったときにあらわれる無垢な自分像というのを少しずつおもてに出してくことで、影の統合はむりなく行われていく。

先の引用に示されたように、もちろん容易なことではないけれども‥。かといって不可能なことでもない。俗にいう「いい年の取りかたをした」などという表現は、影の統合がうまいぐあいに行なわれた人を讃えるほめ言葉のようにも感じる。

実際には自身の「影」とは分離したまま、「陽の当たっている自分」だけで生活を営み比較的穏便な生涯を終える例も少なくないのだが、必要なひとは「悩む」という動的な葛藤状態へ自ら向かい、影との対決を余儀なくされる。そのあたりは無意識の要求に委ねられていると考えて良いだろう。

基本的には人間の無意識層には人格の全体性に向けて変容・成長して行こうとする要求が内包されている。だからそうしたもともとの要求が自然に花開くような環境を与えることで自然治癒力も最大限に発揮される。

そういう意味では人が癒えていくためには必ずしも「専門的な治療の場」が必要かというとそうとも言えない。

じっさい影の統合にやっきになっている間はむずかしかったものが、旅行のようなレクリエーションの場でふいに緊張がゆるみ、そこからスムーズに自我の再構成が行われるような例も存外多いのである。

このような治療なき治療、一見して何もしていないような行為のなかにも自由で開かれた「場」というのが展開することで思わぬ治癒効果をもたらす。これは人間のなかにもともとよくなる力が備わっていることの証明でもある。

良き治療者はそうした生命のもともとの力を発揮させることだけに専念し、何もせずとも快方へ向かうことを最良の方法と考え、実践するのである。何故そのようなことが可能であるかといえば、影こそが成長の種だからであろう。

よく生きられなかった部分というのは、うらを返せばその部分をひっくり返すことで光に転ずる、つまり影をパートナーとしてその人の人生を充実させることができるのだといえる。そこで治療者はクライエントに対し影のマイナス面を伝えると同時に、「可能性」を得心させることができれば心身両面の治癒は大きく進展する。

軽微な視点の転換ではあるが、病症と対立し、こう着状態を生まないためには重要な技術である。病症を味方につけ、影を善用する、こうした態度は個人が心の全体性を取り戻していくうえで非常に重要な条件なのである。

ユング心理学における「影」について:整体指導と心理療法のアプローチ法の比較

昨日ミッドライフ・クライシスについて書いた記事でユング心理学の「影」という概念に少しだけ触れたが、実際には今まで否定的にみていた自分自身の資質を認め、受け入れていく作業というのは整体指導や心理療法の治療モデルの根幹をなすものである。

いわゆる自己受容と呼ばれるそれである。

最近は「あるがままの自分を受け入れて‥」という言葉をよく耳にするが、耳ざわりがいい反面、自己受容という作業はなかなかに困難なものである。

ものごと全般においていえるが、嘘というのは案外やさしく、真実は厳しいことが多い。それだけに自分自身が影に追いやった資質に肉薄するというのはそれだけ心のエネルギーを要する行為なのだ。

これについて河合隼雄著『ユング心理学入門』に判りやすい記述があるので、一部抜粋して引用する。

影の内容は、簡単にいって、その個人の意識によって生きられなかった反面、その個人が認容しがたいとしている心的内容であり、それは文字どおり、その人の暗い影の部分をなしている。われわれの意識は一種の価値体系をもっており、その体系と相容れぬものは無意識化に抑圧しようとする傾向がある

…影はつねに悪とは限らない。…それはむしろ、今後、自分のなかに取り上げられ、生きてゆかねばならない面と考えられる。つまり、今までその人として否定的に見てきた生き方や考えの中に、肯定的なものを認め、それを意識のなかに同化してゆく努力がなされねばならないのである。

このような過程が分析において生じるのであって、これを、ユングは、自我のなかに影を統合してゆく過程として重要視している。分析というと、何か自分の心理状態を分析してもらって、分析家に、あなたは何型ですとか、こんなところがありますが、こんなところはありませんかとかいってもらって終わるものと思うひともあるが、そんな簡単なものではない。

自分で今まで気づいていなかった、欠点や否定的な面を知り、それに直面して、そのなかに肯定的なものを見出し、生きてゆこうとする過程は、予想外に苦しいものである。影の自我への統合といっても、実際にするとなると、なかなか容易ではない。(河合隼雄著『ユング心理学入門』培風館 pp.101-105 太字、改行は引用者)

このように、一人の人格のなかには自分として相容れない異物のような資質があり、それが抑圧された結果として「影」が構成されている。

「マイナスや欠点は本人の努力によって克服すべきもの」という考え方はよく目にするが、こういった「前向きな」思考態度は欠点を欠点のまま受け入れ、上手に活かすという自然体(あるがまま)で生きていく道を死角に追いやることになる。

たとえばここにダイエットに関心をしめす女性がいたとする。するとその女性は「やせればきれいになる」という価値観がつよく入ってる人であるといえる。

そこで仮にやせることに成功して自信を持ったとしても、「やせていない自分像」は否定されたままなのだ。

だからつねに体重の増減によって安心したり不安になったりする気持ちは抜けきらない。

ところが2~3歳くらいまでの子供を見てみればわかるが、子供にはもともとそのような価値基準はないのである。

だからこのような場合、人生上のどこかで「やせていない=バツ×」という価値体系をどこかで持たされてしまったと推測することができるだろう。

そのような場合、理想としてはそうした価値体系を持たされたときまでさかのぼり、そのような容姿の変化で左右されない心の安定感を取り戻すことが自己受容の自然なプロセスである。

少し話はそれるが、野口整体では整体指導という臨床のなかにおいて、「潜在意識教育」ということを中核に据えている。

すなわち意識の深層に格納された、その人の心身全体における調和を阻害する「異物」を消失させることを目的としている点では、ユング派の心理療法によく似た面があるといってよいだろう。

違いをあげるとすればその手法にある。心理療法は言語を主体とし、その補助的手段として箱庭療法や遊戯療法、あるいは体操のような身体的刺激を用いるのに対して、整体指導の場合は言語と非言語の境界が曖昧であり、むしろさまざまな身体的刺激が溶け合って一つの技術体系をなしている点である。

つまり言葉もまた音を媒体とした身体的刺激として考えている面があるし、身体的刺激と言語作用を互いに相乗的に活かすことができるレベルになるまで指導者は訓練を積んでいく。

ともかく方法論はそのように違うにしても、身体上にあらわれた問題に対し、その原因を心の深層部に求めるという点では通底しているのである。

心理面においても身体面においても、表層部へのアプローチに留まる治療法は多数あるが、そのような方法のみでは充分に対応しきれないクライエントに対して上に挙げた2つの手法が有効となる。

逆にいえばクライエントの関心が表層の問題に留まっている段階では、充分に整体指導や心理面接の効果が上がらない、あるいはその真価を活かしきれないケースも出てくるから注意が必要である。ニワトリをさくのに牛刀を用いるようなもので、相手の求めに適った技術で対応するのは治療者の必要とする能力である。

これは整体の技術でいうところの「機・度・間」という言葉でも説明ができる。つまり機会・度合・間合の3要素によって技術の成否は決まるという考え方だ。クライエントにとって適切なタイミングで適量の刺戟を用い、その後の変化を待つ(見守る)という、このバランスを重んじるのである。

一方心理面接においても「機が熟す」という言葉を用いて、クライエントの心的エネルギーが充実し、自身の「影」と対峙できる気力や体力が認められるまで待つことを大切にしている。

いずれにしても相手のなかにある健全な生命力というものをアテにした技術体系であり、その点においても両者を相補的にとらえ理解を深めることでより高次の治療体系を開拓できる可能性を感じさせる。

また理論も大切だが、それを使いこなせるかどうかは個々の治療者の経験にもとづいた力量によるところが大きいのも事実である。内的世界における影との対決を助成できるのは、先にそうした体験を通過したひとである。

生命活動の根幹を司るのが深層心理であるが、そこに関わるためには治療者自らが歩んだ内的世界の散策経験がモノをいう。

フランスの詩人ポール・ヴァレリーによって「自分と折り合いがついた分だけ、人とも折り合いがつく」という言葉が残されているが、己を知った分だけ他者がわかる、というのが人間の特性ともいえる。

つまり豊かな人間関係を気づく鍵はつねに自己の内的世界における対話によって開かれる可能性を秘めている、といっていいだろう。そこで焦点となるのは、それまでそのひとが心の全体性へと向かう動きを阻害してきた「影」という領域と、どれだけ親密な関係を気づけるかどうかにもかかっている。

つまり自身の生み出した「影」はそうした暗いイメージとはうらはらに、その後の人生における光の可能性を宿しているのである。

その光を求めて他者の心理の闇に潜っていく勇気や慈悲といった心は、生命を活かす道を歩むうえで欠かせない共通の態度であろうとわたしは思う。

安室奈美恵さんの引退表明を聞いてミッドライフ・クライシス(中年の危機)について改めて考えた

先日引退表明をされた安室さんについていろいろ考えさせられた。いわゆるユング心理依学でいう「中年の危機」(中年というとちょっと失礼な感じもするけれど‥)的な動きを思い浮かべる。

しかしいろんな噂が取りざたされているけれども、「仕事を辞めます」と宣言しただけで自分の顔が朝から晩までテレビに映るような人生というのは気力、体力ともに相当なエネルギーが必要なのではないだろうか。

それにしてもこんなに女性のファンが多いとは知らなかった。

妻の妹がときどきライブにいったりしてたが、聞いてみたら、なんだ妻も好きだというではないか。

自分と妻と安室さんは同学年である(ちょうど40歳)。孔子は数え年の40歳で「不惑(まどわず)」という理想をかかげたが、実際の40歳はといえばたいてい惑う。

いわゆる40歳を「人生の正午」と仮定して、その時期に前後して起こるミッドライフ・クライシス(中年の危機)といわれる現象である。整体指導を受けに来られる人をみていても、だいたい平均して、30代の前半から40代半ばくらいに第一次の人生の見直しが起こることが多い。

どういうものか簡単に説明すると、20代の後半くらいまでこれが「自分、らしさ」だと疑いなく信じて安定していたものが、40歳前後でもろもろの環境の変化にともなってぐらついてくるのである。

つまり人生の最初のうち(20年くらい)は保護者、養育者、社会的価値観などによって目に見えないレールの上を淡々と生きてきたものが、途中から「これって本当に私の人生だろうか?」という疑問が湧いてくる。

この段階で正直に自分と向き合う作業をはじめると、たいていは過去に失われた自分の目標や夢、それから持って生まれた本来の資質などが記憶の底から浮かび上がってくることはよくある。

これはユング心理学で「影(シャドウ)」とか「No.2(ナンバーツー)」とか呼ばれるものにだいたい相当する。

たとえばある一人の人間の中に「カリスマ・ミュージシャン」という表の顔(仮面:ペルソナ)があった場合に、そうではない自分というのが裏の顔(影に隠れてしまった自分)としてしまい込まれていることがある。

若くて日の出の勢いがあるうちは仮面をかぶって演じ続けることもできるのだが、人生の正午を過ぎ、「残りの人生」という見方が出てきたときに表舞台でうまく生きられなかった自分というのが気になりはじめるのだ。

著名人ともなるとその仮面が理想像にかたより過ぎていたり、プライベートの場でもおいそれと仮面を脱げなかったりなど、自身の自然な自我形成に支障をきたすことも多い。

だから時として「早すぎる引退」というようなことが起こったり、人によっては犯罪的行為とか、命の危険をともなう大胆な行動にまで発展してしまうケースまで散見されるのである。

そうした行為は社会一般の価値観に照らすと「悪しきこと」として処理されることも多いのだが、実はこうした行為こそが一人の人間として心の均衡、あるいは全体性を取り戻そうという重要な動きでもある。だからこのミッドライフ・クライシスを上手に経過することができると、人間性が一つ円熟という方向へ発展したことになる。

だから適切な時期に自我の立て直し(再構成)が行われることが人格の成長過程として大切なのだが、芸能人という職業はともすれば人格を無視された「商品」としての性質も備えている。だから本人の自由意志だけで進退を決定できないという実状もあるだろう。それにしたって、おそらく今回のケースでも本人の中に「もう辞めたくなった」という気持ちが少しずつ芽生え、確立していったのではないだろうか。

まあ人間というのは生きている間は要求し成長を続けるものだから、仮に職業面で「表舞台」を去ったとしても人生の舞台は表も裏もなく続いていく。

彼女の内面で何が起こっているのかは本当のところ誰にもわからないのだが、もっと個人の人生を引きで見ようと思えば、むしろこの辺りが自己実現へ向かう分水嶺といえばそんな気がするのだ。

実際のところ影として生きてきた自分を表の自我に統合する作業は大変な苦痛を伴う大仕事なのである。人にもよるが、一過性に人格の退行現象(子供返り)が起こったり、精神面でも物質面でいろいろな喪失体験を味わうこともある。

大抵の人は40歳になる前から人知れずこうしたことを大なり小なりくぐり抜けてくるのだが、有名税というか、職業柄こうしたごくごく内面の心理的な作業であってもいろいろなシガラミを対外的に処理しなければできないのだから、なおさら大変であろうと思う。今さらながら安室さんを応援したい気持ちはつよくなった。

ともかく何のかんのいっても一人の女性なのだ。一般の方となんら変わらず同じように悩むだろうし、変化し成長していく。10年後、20年後、その後の姿を見ることができたらいいなと思うのだが、何となくそれはむずかしそうな気もする。月並みだけど、残りの活動期間を無事に終えられたらいいなと思う。

体が整うのは難しい

恐らく、これからのカウンセリングという点では、これは日本ということだけではなくて、世界的に、心と体の問題というのは一番大きな問題になるだろうと、私は思います。その中で外国人の人がすごく注目してるのは、例えばヨガとか禅とか、そういうようなものです。体を整えることによって、だんだん心を整えていく、そういう考え方。

しかし、かといって、これはものすごく難しいことなんです。なぜ難しいかといいますと、私の話を聞いて、「よし、これはうちでもやろう」てなもんで、中学校の生徒をみんな連れて、「座りなさい」なんてやっても、これはまず効果はありません。というのは、「座る」ということは大変なことでして、さっき言いましたように、座るまでにずいぶん仕事があるぐらいなんです。そのときに、ただ中学生を下手に座らしても、その子たちが本当に座っていなかったら、これはやっぱり意味がないんです。中学生は、座らされて「足がしびれるなあ」とか、そういうことばかり思っているかもわかりません。

だから先生自身が、自分が座るということが、一体どういう意味を持っているのか、あるいは中学生に座らせるということに、どんな意味があるだろうか。私みたいに五十の人間が座るのと、何でもかんでもともかく暴れたいと思っている子供たちが座るのと、意味が同じなのかどうか。そういうこともやっぱり考えないといかんでしょう。そういう意味で、のべつまくなしにやって効果があるのかどうか、私は疑問に思いますけれども、ともかく心と体の結びつきというのは、どうしても考えていかねばならないと思っています。

そしてこれは単に、いま言っているように、心と体という意味で、体を体を動かすということだけじゃなくて、私はたとえば、箱庭療法をやっておりますが、箱庭なんていうのも、結局やっぱり体が関係してくるんです。砂が手に触れますね。水でぬらした砂なんかをさわってみる。こういうことが、ものすごく大事なことになっているように思うわけです。(河合隼雄著『カウンセリングを考える(下)』創元社 pp.154-155 太字は引用者)

これは河合隼雄先生が昭和55年、大阪四天王寺において「これからのカウンセリング」というタイトルで話された講演内容の一部です。

個人的に非常に面白い、というか心理学と整体的知見の両方にまたがる核心をついた問題提起だと思うのです。

時代性も大切で昭和55年(1980年)というのはちょうどヨガブームの走りにあたり、これから女性を中心にカラダを通じて積極的にリラックスする時間を取ろうという動きがはじまるわけです。

現在はご承知のようにヨガブームはピーク時よりもやや沈静化して、本当の理解者というかコアなファンを基盤に一定の市民権を保持した状態で安定している。つまり心の問題というのに対して体からアプローチしようという切り込みの使命は果したという形で、「ある程度の」功は奏したとみていいと思うのです。

ある程度の、という条件付けをしたのはやはりそこには非常に高い技術を要するからで、「充分に果した」とは言い難いのも確かでしょう。

体を整えることによって、だんだん心を整えていく、そういう考え方。しかし、かといって、これはものすごく難しいことなんです。」という先ほどの引用以降は坐禅を例にとっているのですが、「何でもかんでも坐っていれば、坐らせれば良いわけじゃあないんですよ」といっているのです。年寄りが坐るのと、思春期の子供が坐るのとではもうそこから意味あいがちがってくる、などともいっています。

つまり本来は心身に絶えず起こってくる諸問題というのは個人をよくみたうえでそれぞれの答えを創造していかなければいけないのです。

その「個人をよくみて」というところで、豊富な経験に基づいた高い技術性が求められます。だからこそ「難しい」ということになってくる。

そういう難しさに的確に応えられる手段の一つとして「野口整体」というのは非常に有力だと私は思います。つまり徹底して「身体の様子からその人を理解する」という態度が「これからのカウンセリング」に表された問いかけに対する答えになっているからです。

実はこの講演が行われた時点で野口先生は亡くなられています(1976年没)から、「これからの」というよりもすでに展開している事実があるのですけどね。ただし野口先生が活躍されていた時期というのは河合先生は主に海外で心理学の研鑚を積まれていましたので、おそらく接点をもつことがなかったのではないかと思うのです。

河合先生ほどの見識でしたら、野口整体の真価を瞬時に見抜いて非常に高く評価されたのではないかと思うのです。

つまり野口先生は最初から心と体を分けて考えるのはおかしい、といっているのですから。自らフロイトに高い関心を示し、自身の潜在意識教育の理論を構築するうえで援用もされていますが、やはり近代科学の問題点というのを早期に看破しています。つまり医学は意志をもたぬ肉体(死体)ばかりを研究し、心理学は言語を中心にして心だけを見ようとする、それだけでは生きた人間を、ましてや個人を充分には捉えきれないよ、といっているのです。

そこで整体指導者というのは何よりも「生きて動いてたえず変化する身体」というのを徹底的に読む訓練をするのです。もうこれだけを生涯突き詰めていく仕事といってもいいくらいです。つまり「個人」という壮大なブラックボックス(クライエント)に対し、一人の人間(指導者)が全存在を懸けて取り組んでいく。

こういう躍動する生命と生命が本気になってぶつかることではじめて「整体指導」はできると考えるわけです。河合先生が難しい、といわれる所以もこのあたりにありそうです。

まずはそういう「指導ができる人間」が育つのがむずかしいですし、またクライエント自身も自分の心身に起こっている表層的な問題からそこまで掘り下げていって、「自らの自己に向かって行く」という態度に至るまでが難しい(稀なのです)。

いわば「需要」も「供給」も潜在していて発生しずらい。かといってそのいずれもゼロにもならないのです。やはり少ないながらも、自身の中にある問題の根本に向き合おうとする人はおられますし、人間存在の矛盾というものに正面からぶつかって生きてゆこうという人も時代・地域を問わず必ずいますから。そういう方の存在によってこういう心の問題とか身体上の難問に応える仕事というのはなくならないで済んでいるともいえますね。

そういう意味でこの河合先生の講演から40年ほど経つ現在、本当の意味で個人に向き合う医術や教育の必要性が浮き彫りになってきていると思うのです。「野口整体」というものに縁を持たれた方は、どうかそういった価値までを射程に入れて取り組まれると実りのある出会いになると思います。なにごとも求める気持ち次第なのですけれどもね。

生きている間に、いのちの奥深さというものをできるだけ追究する学問として、いくら学んでも学びつくせない深みがあります。本当に何をやるにしたって生きている間だけなのですから、どうか自身の身体をもって、自身に内在するちからを実証したいものです。

カウンセリングは植物を育てるように

カウンセリングは植物を育てるのに似ている。この話は河合先生の『カウンセリングを考える(上)』に出てきます。

本の中で不登校の子供を例にとって説明をされますが、世の中にはどうしても学校に行けない子供というのが一定の割合でおられます。本人は「学校へ行きたい」とか「学校には行かなければいけない」と思っているのに、朝になるとお腹が痛くなったり、頭が痛くなったりする子がいるわけです。あるいは、どうしても目の覚めないという子もいるようです。そういうことが次のように書かれています。

これは不思議ですが、どうしても目のさめない子がいます。金だらいの上に、目ざまし時計をのせますね。それを二つやっておいても、目がさめない子がおります。そして学校へ行く時間が半時間ほど過ぎたら、パッと目がさめるんです。これはほんとうにすばらしいものですが、そういうふうな子供に、われわれは学校へ行くというように教えることには意味がありません。

…こういうふうに、われわれは簡単に「教える」とか「しつける」ということは断念しなければならない。そうすると、われわれは何ができるかというと、普通の子供たちはみんな学校に行っているのに、この子はここで学校に行けないのは、育ってくるときにどっかで育ち方がひずんでいるんじゃないか。あるいは育ちそこなっているところがあるんじゃないか。そうすると、その育ってないところをちゃんと育てるように、われわれは育て直すということをしなくちゃならないというふうに私は思うんです。(pp.11-13)

と、ここから話はずっと展開して行きます。

野口整体の場合は始めからそういう「育てる」という態度をはっきりと表明して整体指導の実体を「体育」と、こう現しています。治療といえばもちろんそういう表現も合わなくはないけれども、やっぱり「治す」とか「教える」といった言葉にはどこか強制力というか不自由な感じがしないでもない。もうすでに出来上がってしまった、結果のものをいじくるというか、どこか不自然な感じが私などはするわけです。

ところが「育てる」とか「育て直す」というと、それは生きものが伸びていこうとする自然の力を主体とするよりほかなくなります。そういう態度がカウンセリングをするうえではとても重要なのではないかと、こういう理解でいいと思います。

野口先生は「現代の教育には育がない。教えてばかりだから教教である」と言われたそうですが、「教える」ということでも「治す」ということでも、相手の中にある力とか、刺戟に反応するまでの時間を無視して行なおうとすると、どうしても受ける方は負担が強くなってきます。なんだかわらないけれど、見てもらっていると疲れるというか何か大変な感じがしてくるわけです。

植物に肥料をやっても水を撒いても、それを自分のものにする力というのはやはりその植物の中にしかない。「育てる」というのはその中の力と外の力が二つ合わさって、一体になって動いていく様を上手に現している言葉だと思います。

それと同じように身体を刺戟した場合でも、心に何か言って聞かせた場合でも、そこから相手がどう動いてくるのかをじっと観察して待っていなければならない。そういう「間」という時期が必ずあるわけです。

そうして教育とか治療ということをずっと突き詰めて考えていくと、一つのそういう着地点といいますか、最後に行き着く場が非常によく似ているような気がします。つまり「育ってないところをちゃんと育てるように、育て直す」という方法。植物の場合は育て直しというのは難しいけれども、人間の場合はこれが出来るわけです。逆に言えばこうやってじっくり自我に取り組んでいかないと、いろいろな症状でも心の問題でもどうしても繰り返してしまう。

人間の場合はこうやって丁寧に取り組んでいくことではじめて成し遂げられる仕事があるとも言えます。根本治療というのは誰もが望んでいますが、その実態というとほとんど理解されないのが現状かもしれない。それはまさしく植物を育てるような、非常にひっそりとした愛情を要する仕事という気が私にはします。