整体の臨床を考える

ここしばらく野口整体とユング心理学の統合を謳っているけれども、改めて何をどうするのか訊かれるとなかなか上手く答えられない。

一つ言えるのは、ユングの提唱した「個性化」ということを整体指導の臨床で実現したいというのは外せない「ねらい」である。

ユングの言う「個性化(individuation)」というのは、俗にいう「個性『的』に生きる」ということとは別物である。その真意は、自分の原初的な〈こころ〉につよい関心を寄せることで「本当の意味で、私らしく生きていこう」という態度なのだ。

整体流にいえば「裡の要求に目覚める」という表現がこれに近いように思われる。これは身体の中心(深層意識)にある〈思い〉に目を向けることで、自分が芯から望んでいる生き方を真摯に考える、という極めて敬虔な態度なのである。

この両者のプロセスにおいて共通しているのは、いずれも顕在意識の活動水準をひたすら下げていく、ということだ。

これについて野口整体ではよく「ポカンとする」という表現を使うけれども、このポカンというのが顕在意識の活動水準が充分に下がった状態を指しているのだ。

現代的にはどうしても「思考力をいかに高めるか」という方に価値が置かれやすいのに対して、敢えてそのウラをかく行き方ともいえるだろう。

深く考えたり内省したりするような「意識的な」活動を積極的に放棄することで、自身の行き詰まりに対する「打開策」や「活路」を見い出そうというのである。

イメージとしてはアニメの一休さんが頓智をはたらかせる際に、坐って目を瞑りポクポク‥チーンとやるのがひとつの典型である。いってみれば覚醒した意識の統制下において、大脳の活動を休ませる状態を作り出したい。

そこで鍵となるのが「身体」なのである。

一般的に「意識」とは脳の活動状態のみに従属するものと考えられやすいが、実際は「全身これ意識」といった方が正しい。特に幸福感や心の余裕度といった面においては、もっぱら脳よりも下腹部や腰部の「姿勢」や「体勢」といったものが大きく影響するようである。

特に腰椎部(ヘソの裏側あたり)に生理的な正しい湾曲(反り)が現れると、余計な心配事や不安感は消失する。いわゆる「大丈夫」とか「大安心」の境地というのは、下腹部を中心とした「修養」を正しく積むことで得られる「身体能力」なのである。

換言すれば整体指導というのは個々人においてこの「大丈夫」を顕現するためにある、といっても間違いではない。

それは頭のはたらきを一定に鎮めることで、腹脳と呼ばれる二次的な(より高尚な)意識の覚醒を試みることである。東洋的な身体観において「上虚下実」という状態が好まれるのは、上記のような理由によるものと考えられる。

そしてこれこそが最初に書いた「個性化のプロセス」や「裡の要求に目覚める」ために必要な心身の構えとなっていく。

これに因んで、ユングは自身の精神的危機を乗り越える際にヨーガをやったと言われているけれども、クライエントに対して身体的な「行」を勧めたというような記録は今のところ目にしたことがない。

実際はそういうこともあったかもしれないが、やはり当時の西洋社会においては「身体」の中に精神を開拓できるほどの可能性を見出してはいなかったのではないかと思われる。

その辺りを現代日本人の心と体の教育に適用して成果を上げようというのが、現行の整体指導のねらいなのだ。開業して9年ほど経つけれども、多少なりとも概要がまとまってきた感がある。

一方で、自分の職業の可能性があまり小さくまとまってしまうのもつまらない。だから「整体指導とはこういうもの」という概念の固定化はできるだけ避けるようにも心掛けている。

実際の臨床においては、よくわからないけれども会っていると「なんとなく」元気になっていく、というような余裕のあるテイストは大切に残しておきたい。そのためにも人間的な大きさとか、徳性を養うことはライフワークといえる。

そういえばむかし手相鑑定士に「あなたは哲学や宗教学のような『正解』のない学問をやり続けるのが性に合っている」と言われたことがある。ふと気がつけば大体そんな人生になってきているの気がするのだが、まあとにかく‥。

何にせよ導き手というのは、自分の人生、「私の道」を日々創造し続けることが責務である。坐禅と活元運動の励行は無意識からのエネルギーの流れを生み出して、自我の再構築を進めてくれる貴重な行法なのだ。

そうやって自身の自由性を充分に発揮していくことが、他者の自由度を拓く力になる。そういう意味で「整体」という生き方は、生の終着地点としての死を最良の状態に仕上げるための指針のようなものである。

ひたすら死に抵抗し続ける「自然科学」に対して、死を積極的に迎え入れることで生を輝かそうとする「宗教」としての位置に、ユング心理学と野口整体は座しているのだ。

あとは洋の東西を越えた視点に立って、「現代」という同次元の中を生きる「人間」に対しどう向き合うか。その術を生み出す過程において、先の両者の統合が非常に有効な手立てになると考えている。

いずれにしても「個人」に真正面から向き合うことは原則である。臨床における術(すべ)に普遍的な具体案はない。

それだけ、生きた「人間」ほど解らないものはないのである。人間は策を弄するほど〈いのち〉の原形からは遠ざかる。

この無限の不思議さに有限の生を以て追い続けた先達に範を求め、自分自身のいのちの真相を解き明かすことが自ずと両者の「統合」に至る道ではないかと思っている。

体癖論とタイプ論

野口整体とユング心理学を併学しているので、どうしても体癖論とタイプ論の整合性が気になる。

体癖とは全部で5つある腰の骨に対してそれぞれ、思考(上下型)・感情(左右型)・闘争(捻れ型)・愛憎(開閉型)・理性(前後型)といった気質を適合させ、さらにそれを積極性と消極性の2つに分けた。

こんな風に無理やり一文に詰め込むと素養のない方からすれば訳がわからないと思いますが‥。

とにかくまあ、5×2で計10種類の体癖素質(その人なりの気質や感受性傾向)に分類される。

これに対してユングのタイプ論ははるかに知名度は高いと思われるが、思考・感情、直観・感覚の4つの機能に対して外向的・内向的の×2であるから合計は8になる。

細かい組み合わせについては割愛するが、一つ一つ当てはめて考えていくと10引く8で結果、体癖論の闘争(捻れ型)の2つが余る。

また体癖論はその名の通り身体性から出発した分類法なのに対して、タイプ論はユングの臨床経験と自身のヨーガ(瞑想)体験による無意識の探索から紡ぎ出された理論である(ユングはおそらく「身体」には着目していないと思われる)。

これだけ出自が違えども、お互いを組み合わせていくと意外に整合性が取れる面があって興味深い。

現時点としてはまだ自分の思索内で漠としたまま動めいているが、もうあと1、2ヶ月したらすっきりまとまってホームページにアップできそうな気がしている。

「まとまったらそれがどうなるんだ」という自分ツッコミもあるのだが、おそらくは二つの立ち位置から対象を捉える「複眼」になるために、人間の捉え方がもう一つ立体的になるだろう。もちろんこれは臨床にも活かせるはずだ。

しかしユングの場合は思考・感情、直観・感覚この4つすべての機能をバランスよく発達させることで人格の円満な成長を推奨するのに対し、野口の体癖論では「体癖は生涯変わらない」と説く。

それはつまり「花は紅、柳は緑」の理論で、「欠点を克服する暇があるなら長所を伸ばせ、そうするれば欠点は消える」といった見方である。

どちらも個人の特性を如何に成長させ、どう活かすか、という目標に向かう態度ではあるが、これこそ各々の「個性」が際立つ結果となっているのは面白い。

また、よく考えてみれば「人格の成長」とひと口に言っても、具体的には一体どのような変化をもって成長と呼ぶべきかはむずかしい問題である。

そこに解答の多様性と人間探求の奥深さが見て取れる。

整体も心理学も「ゴール」や「正解」のない無形の学問であるために、その答えは個人の資質と感受性に委ねられるのだ。

いずれにしても最終的には自分の資質を見究めることに尽きる。これに一生を捧げるという点だけは揺るぎない共通項であろう。

そこで身体というのが重要な鍵になる。「身体の可能性を拓く」ということが現代のブームになりつつあるが、野口整体はだいぶ先駆けに位置していたものと思われる。これは大きなアドバンテージだろう。

一方で整体法はとにかく個人的経験を積むことで主観を磨くが、心理学というのは一応アカデミズムの約束事を順守しなければならないので客観性を重んじる。

結果的にはお互いが補償の関係になる。

長くなったけれども、野口整体もユング心理学も本気で勉強しようと思ったら人生がいくつあっても足りない規模のものである。全ては学びつくせないにしても、両方の強みを生かして自分なりの人間理解を構築していきたいと思っているのだ。

 

夢分析ー表出化する無意識の動き

妻が面白い夢を見た。

自宅の前の住宅がなくなってサラ地になっている。そこへ私と妻が見に行くと黒い岩のような塊が二つ、地面から顔を出していた。邪魔なので掘り返そうかと思ったが、想定したよりも土中の体積が大きいようである。私がその場ですぐに掘り返すのはあきらめ「これはほうっておいて、またいずれやろう」といって引き返し、妻もそれに従がう。

内容は以上である。妻の夢はいつも抽象性と複雑性に富んでいるのだが、これは比較的解釈をつけやすいのではないだろうか。

というのも最近は私がもっぱら無意識とか個性化の話ばかりをしていたことが遠因と思われる。つまりこの黒い二つの岩というのは顕在意識に表出し始めた私たちの二人の無意識のようである。

しかし無意識が意識の領域に登ってきたからといって、「意識的」にそのすべてを顕在意識の俎上に上げられるかといったら、それは不可能である。

無意識と顕在意識の交流が活発になるということは、取りも直さず心理的な「治癒」を意味している。

しかし無意識というのは劇薬なのだ。無意識の力に急激に飲み込まれると、治癒どころか社会生活そのものが一時的におぼつかなくなる。

だから夢の中の「私」は土中の岩を掘り起こさずに、「自然に任せる」ことにしたのだと思われる。

この夢のように無意識像が黒い大きな岩のような塊として現れる例を、過去にクライエントから何度か聞かされたことがある。

また今回の例のように、その大岩は夢の中でも「これ」といった仕事や役割を果たすわけではないし、さして邪魔にもならないということがほとんどである。

一方で夢を見ている当人に理由のない安堵感をもたらしたり、何か「意味ありげ」な中心的存在として登場することが共通している。

こういう夢を見た(覚えている)からどうなのかと問われると答えに窮するが、自身の心の成長プロセス(個性化の過程)を客観的に査定する結果にはなりそうである。

何にせよ意識的には活性化する無意識の動きを邪魔しないで、むしろ保護するような立ち位置で「見ている」他はないのが常である。

経験上、中年期というのは顕在意識と無意識の力がちょうど均衡した後、入れ替わるときだと思っている。この時期に体から余分な力みを抜けば抜くほど、心のエネルギーの流れはスムーズになるから、より体を整えることが要となるのだ。

野口整体流にいえば「ポカンとする」という一言につきるが、日に一度は全身をゆるめて意識の統制力を弱めてやることが、自分なりの人生を豊かに創造していくための要訣である。

このときに土中から顔を出した無意識が示唆的にはたらく。もちろん何か目に見える「はたらき」をするわけではないが、生命の進むべき方向を暗に示して、気がつけば自分の歩んだ後ろにいかにも自分らしい道が出来ているものである。

そこで夢の中の「私」のように「そのうちなんとかなるだろう」と成り行き任せでいられるかが鍵だ。禅の方では「任運自在」という言葉があるが、運を味方につけるために努力は無用なのである。

もちろん努力そのものはしても構わないが、努力「だけ」で人生が構築されていると思っているとしたらそれは視野狭窄である。

大抵は意識できる思考の部分だけを指して、「これが自分だ」と思っているが本当は顕在化していない広大で漠とした心の領域に主体はある。

おそらく昔の人はこういう「サムシング・グレート」のような存在に手を着けることは「祟り・障り」の元であると考えて、「それ」から一定の距離を保って畏れ敬う態度を心得ていたものと思われる。

実際は「そのようなことはすっかり忘れて」目の前のことに努めるのが賢明である。「人事を尽くして天命を待つ」とはこのことで、「精神的なこと」に取り組もうとしてそちらに偏るとかえって精神性は堕ちる。

具体的に言えば、神社に行って合格祈願や商売繁盛を祈願する暇があったら、その時間を受験勉強や仕事に精進した方がずっと効果的に運を引き寄せられるのである。

話が飛躍したが、元来何もしなくても無意識はその生活に反映されていくものである。我々にできることは、「それ」が見えやすいように時折り意識の波を鎮めて心の中にサラ地を作り出すことぐらいだろうか。

私の中にいる私ならざる〈わたし〉が一体どのように生きようとしているのか、これを〈わたし自身〉に頭を垂れて問いつづける態度のことを私は「敬虔」、と呼んでいる。

そういう意味からも、夢は私が〈わたし〉へと通じる、貴重な連絡経路なのである。夢を軽視することなく、その訴えのもとに照準を絞って傾聴してみると意外な声を拾い出して、その内容にしばしば驚かされる。

人生最大のミステリーは〈自分〉なのである。決して全てを見せない土の下に一体全体何があるのか、それを見究めるために今日のいのちがあるのだ。

そのためには、ただ一つ一つ行動していくだけでいい。見えないものが一つ一つ現象化していくその全てにドラマがあり、一寸先は闇もまた楽しみである。

夢は時折りその先の光を垣間見せてくれる、案内人のような役割を果たすものなのだ。

メンタルは弱めでいい

何ごともメンタルは強いに越したことはない。

こういう考え方が一般的だが、いろいろな人にお会いしてみると、メンタルが弱い(と思っている)人の方が身体は健全だ。

健全だ、というのは病気をしないという意味ではなくて、身体感覚が正常にはたいている、ということである。

逆にいうとメンタルが強い、とか精神が不安定になりにくいタイプの人というのは大きく二通りに分かれる。

自分の心の全体性をしっかり把握したうえで安定している人と、心の大部分が蓋をされたように閉じられており、狭い自我意識の世界だけが固定的になっている人である。

やっかいなのは後者のタイプで、自分の病的な部分に光があたりにくいので心身症的に体の不調だけは訴えるが、メンタルが「強い」ために深層の問題が明るみに出にくいのだ。

心理カウンセリングや整体指導を受けるとこうした「仮」の安定性はやぶられ、文字通り不安になる。あるいは出どころのわからない不快情動に自我が脅かされ、メンタルの弱さを感じはじめるようになる。

こうなると、心の「治癒」がはじまった、とみていい。

心でも体でも異常を異常と感じれば治るのだ。

このとき当然「苦痛」を伴うのだが、本来の自然治癒というもので苦痛を伴わないものはないのである。

メンタルが弱い、と思っている人はこうした心の治癒と自我の再構築が常に行われている場合が多く、言ってみればぐらぐらと揺れているのは生命の平衡要求の現れなのだ。

だからメンタルの弱い人というのは、当人的にはつらいが客観的にそのメカニズムを解読してみれば、ある種の健全さが理解されるはずだ。

しかし「弱いことがだめだ」と思ってそれを隠したり強くなろうと足搔いているうちは、健全さが隠れてしまって見えにくい。

弱点や欠点を解決するよりも、今日を生きることだ。弱いまま平気で生きられたらそれが本当の強さなのである。

自己実現までの距離

「自己実現」は心理治療を行なう上で最も重要なタームである。

自己実現(self realization)の原型は個性化(individuation)という、クライエント自身が本来の自分らしさを求めて変容成長していく動きのことだ。

言いかえるならその人に内在する、生命が要求実現に向かう心のダイナミズムのこといっている。

〈私〉が〈わたし自身〉になる、ということから目を背けたままで「治療」を完成させるのは片手落ちだし、それ以上に不可能なのだ。

「個性化」という言葉を精神療法の中心に打ち出したのはユングだが、それがいつのまにか彼の手を離れていって「自己実現」に表現がすり替わり、その後だんだんと時間の経過とともに意味内容まで変化していった。

もともとの「個性化」は、一切の社会的価値観や道義的制約から離れた「本来の自分らしさ」へと向かう無目的な動きである。

それが徐々に一般社会の需要に引きずられるように「富と幸福」の追求みたいなステレオタイプの成功学に堕ちてしまった。

さらに巷ではそのような「自己実現」の歳末大安売りが跋扈して、一日30分の瞑想で「自己が目覚め」たり、三泊四日の集中セミナーで「本当の私に出会え」たりするから、これらに引っかかって余計な浪費と引き換えに「道草」を食う人もあとをたたない。

もっともこういう道草すらも中・長期的、大局的視点に立てばその人也の個性化へつづく布石だったりもするのだけどね‥。

しかし実際問題、真の「自己実現」はそこらで販売しているようなものではないのである(もちろん価格の大小も関係なく)。

本来はたった一人になって、自問自答する「自分」すらもそこから締め出して、無意識の活性化をじっと待つことなのだ。

知ってる人はわかってるけど、これはけっこうしんどい。

いわゆる「瞑想」の必要もここにあって、これも現代的には猫も杓子も瞑想ブームで、質の高低において雲泥の差があるということも知らない人が多いのではないだろうか。

ひとつのキーワード、というか「鍵」となるのは「身体」だ。

これを有効に使う方法から着手することが近道なんだな、本当は。

何をモデルにするかで得られる結果も変わるけれども、そこは個人の勘と好み次第だ。

何が言いたいのかというと、昨今、「自己実現」が日常から遠く離れたお月様の世界にあると歌って、地球人を謎のツアーに連れて行こうとする人たちが多いのが気になったのだ。

数多あるガイドラインから何を選び、そして誰を信じて行動するかはその人の質によるのだが、いつだっていまここで生命の光が身体上に現れるようにすれば万事おーけーなのだ。

身体から遊離した、あるいは身体を誤用・悪用する精神論ほど恐ろしいものはない。

100年経っても1000経っても、「整、体」の価値は失われない。真理というものは、一切の時間的・空間的制約から解放されているから真理と呼ばれるのだ。

身体上に自然の秩序を顕すことが、自己実現の必要条件であってそれ以外の何ものでもない。実は今ここで、しっかり自己実現している。

うつは心の風邪か

体が風邪を引くように、心も風邪を引く。うつは「こころの風邪」みたいなもの。そういうフレーズをときどき目にする。

だいたいが「風邪」も「うつ」も定義があいまいなのだ。だからそうだといえばそうかもしれない。

おそらく「うつ」という病気が重篤なものになると相当に苦しいから、「今は苦しいけど、ちゃんと養生すれば必ず治りますから」という、心ある人からの励ましではないかと思っている。

野口整体の『風邪の効用』という本があるけれども、これによれば風邪は体の自然良能、すなわち発熱・発汗・下痢等々‥症状はいろいろあるが、その風邪を途中で止めないでしっかり経過すると身体の偏りは消失することを説いている。

もうちょっとわかりやすくいうと、自分の力で自然に体は整うってことを意味しているのだ。

ここでいう「偏り」って具体的にどういうことかと言えば、「骨格の位置」とか「重心バランス」のことである。

つまり発熱と発汗で筋肉がゆるむから骨格が正常な位置に戻るし、筋骨のバランスが整えば内臓機能も正常化し、そして最大化するのだ。

それなら、「うつ」にもそういう自然良能の力があるのか?と問われれば、それは間違いなくある。

「うつ」状態が体と心の偏りを正している、と考えて相違ない。

だいたい人間が治る時、というのは全てにおいて苦しみを伴うものなのだ。

「苦しいから治っている」といっていいだろう。

風邪もそう、そうなのだ。

「うーん…」と寝込んで唸っているときに、必ず身体のどこかが治っている。

共通しているのはうつでも風邪でも必ず、過去に何らかの「不快」を味わっているということだろう。「その時」の情動が消化しきれずに、体の内、あるいは心の中に居座っているのだ。

それを遅ればせながら、1年後でもいい、いや10年、20年後でもいいから身体上に表現して、感じ直して、苦しみ直すことで心身ともにクリアになる。

心でも体でも、きちっと病気をすることが治るためには必要なのである。

ときどき心理カウンセリングを受けた後で「具合が悪くなった」とか、「かえって気分が落ち込んだ」とかいうことが起こるのは、過去に感じ、出しそびれた不快情動が記憶の底から浮かび上がってきたからだと言える。

感じはじめたらそれから何日後か何週間後かはわからなけれども、やがては消えていくのだ。

暗がりに繁殖したカビとかキノコがお陽様にあたると消えてしまうように、心の底にも意識の光が指し込むとクリアになる。

ただまあ、人によってはそういうカビとかキノコみたいな不快な情動体験が「生きがい」とか、「生きるための燃料」みたいになっている人もいるから、心の治療というのはむずかしいのだが‥。

場合によっては、少しくらい偏りがあった方が「人間味」がある、と言えなくもない。

まあでも、せっかく心の風邪を引いたのならこれを上手く使わない手はないだろうと、わたしなら思う。

風邪をきちんと経過したあとは身体がさっぱりする。

これと同じように、うつを経過したあとで、今までとは違った創造的な自分だけの人生の道が拓けた、という例を、日々の臨床でたまさか見させてもらっている。

いずれにせよ病気は外から無理やり治すものではない。

「いのち」という全体性の中でその目的を正しく理解し、善用するべきだ。

苦しいときはその苦しさの中心を見据え、本質を見極めようとする態度を学ぶことである。

やがて必ず、その病の中に「道」が見えてくる。

失感情の治療を考える

最近になってようやく自分の失感情傾向がわかるようになった。

思春期前後に深いストレスにさらされた体験が大きいと思うが、20~30代はほぼまるまる「失われた感情」と「身体感覚」を取り戻す作業に明け暮れた。

学生時代に競技カラテの道場で来る日も来る日もぼこぼこ!になっていたのも、あれは今にして思うえば緩慢な自傷行為であった。大けがをして辞めるに至ったが、まああれぐらいで済んでよかったと思うべきか。

空手のあと今後の人生まで含めて大きな影響をもたらしたのは「野口整体」だろう。人を倒す技の修練を断念したのちに、人の苦しみを共感する道を歩み始めたというところが「物語」である。

思えば失われた感情と身体感覚を取り戻すために、身体に取り組んで来たのだ。

野口整体の愉気や整体操法が現代的に最もその力を示せるのは、「失感情」に対する対応ではないかと思っている。

日々くり返される荒んだ刺激によって麻痺した心の感度は、身体を媒体にして伝える慈しみと癒しの心によって息を吹き返す。

釈迦の慈悲もキリストの愛も人間の救いを象徴するものだが、その根底にあるのは相手に対する深い理解と共感の精神である。

もともと健全であるはずの人間の心を麻痺させるのは、その身の内に偏りを抱えた人間の所業である。その反面、その凍りついた身心に再び血を通わせることができるのもまた人の心なのだ。

愉気は人と人のつながりを象徴する概念だが、現代にこそ愉気の精神は重用されるべきだろう。

野口整体ばかりが全てではないが、その根本精神には汎用性と不変性がある。身体と社会から失われた感情を取り戻し、心と体、人と人、その「つながり」を取り戻す道としてその有用性を実証し、後世に残したいものである。

再びユング自伝

ユングの自伝をまた読みはじめた。

個人的には子どもの頃のエピソードはなかなか読むのに苦労する。というか、まあ訳本なのでどうしても読みがぎこちなくなる。

それはそれとして、やっぱり青年期以降、それから独自の精神分析態度による治療理論を構築していくプロセスは圧巻である(自伝1のⅣ精神医学的活動のあたり)。

その当時、いわゆる「精神の病」というのは医師でも手が付けられないものだったらしい。昔の早発性痴呆(今でいう分裂病、統合失調症)はライ病患者と同様に、治療者とともに町はずれに隔離しておくしかなかったようである。

そう言えば、黒沢明の映画『赤ひげ』にも精神疾患の娘が離れの小屋に滞留させられていた。自然科学が未発達な時代にあっては、このような対応は致し方なかったのかもしれない(現代の「カガク」的な対応が良いとは決して思わないが‥)。

兎も角、そのようないわば常識やタブーに対して、はじめてユングという人物が斬り込んだ。心に深いこじれや偏りを抱えた人たちが訴える妄想や苦しみを一所懸命に聞いてみると、その病的な態度の裏にある本当の「理由」が明らかになって、治っていくのである。

それは革命的なことだったのだ。

それというのも苦しんでいる人を捨て置けない「いきさつ(=人生の物語)」がユングにはあったわけで、他者の治癒に関わることが自身にとってのやすらぎだったのではないかと思われる。

野口整体の野口晴哉先生はその圧倒的な技量と人徳ゆえに治療を求める人があとを絶たず、そのあまりの多忙さを見かねた周囲の人が「少しお休みになられては‥」と進言したところ、「僕が休まるのは苦しんでいる人に手を当てている時なんだ」と答えられたそうである。

人間の世の中には「支えているつもりが支えられている」ということはよくある話で、臨床においても治療者と患者の立場がときどき入れ替わりながら治療が瀬妙に進んで行くようなこともなくはないのである。

まあとにかく、ユングこそが人類の心の多重性を明らかにした立役者である。

一方で、「身体を媒体として意識に切り込んでいく」という点で方法こそ異なるが、野口整体も人間の潜在意識を重視した点は一緒である。

いずれにせよ治癒の鍵となるのは、どれだけ深く患者に「関われるか」だろう。

それには治療者自身が自分の心の真底まで降りていく勇気と訓練は欠かせない。

こんなことを書いていたら、20年前、自分の通っていた大学の学部長(文学部)が講義の最中にぽつりといった一言を思い出した。

「人間が一番深い」

限りある時間の中で、どこまでその深さに踏み入って行けるだろうか。

自分とは何か。

達磨大師は「お前は誰か!」と詰め寄った武帝に対して、「不識(知らない)」と言い切ったが、その判り切れない自分の中にいつだって無限の広がりがある。

自分が何者か、

これを知らずに死んでいくのはまこと惜しいことである。

禅、瞑想、活元運動などを日課とし、意識を閉じて無心に聴く訓練の必要をくり返し説くのもこのためだ。

古来から多くの宗教家が心の世界を独自の主観を磨くことで明らかにしてきたが、ユングも近現代における貴重な心の導き手の一人であることは間違いない。

むりしないほうがいい

この仕事をして、つくづく無理は禁物だと思うようになった。

いわゆる「病気」というのはみんな無理がたたったものだが、じゃあ無理ってなんだろうと考えると、その定義はなかなか多様になりそうだ。

私が思うに「自分に対する背き」、これが無理である。

本当はこうしたい、だけどそうできないのが世の中だ。

だからどうしても自分の本心良心に背いた言動が求められるのが実社会の常で、これがいわゆるタテマエ社会である。

心理学で「ペルソナ(仮面)」といわれるものはこのタテマエが複数あわさって形成されている。いわばその人が演じることを強いられている社会的な役割のことだ。このペルソナがなければ世の中は大変なことになってしまう。

たとえば警察官が誰も見ていないからと言って信号無視をしたら職務怠慢になってしまう。

あるいは医師が自分の嫌いな患者に対して治療を拒否することだって、道義的にも職業的義務の観点からゆるされない。

だからタテマエとかペルソナがしっかり働いているからこそ、社会秩序が一定に保たれているといえばそうなのだ。

こう考えていくと「無理をしない」ということは、そういうタテマエ・ペルソナを破って放縦になるということになる。

それではまずいではないか、と思われるかも知れないがこれが案外そうでもない。

それがいわゆる「趣味」とか「道楽」という枠組みの中で行なわれていれば大きな問題はないのである。

いわゆる「羽目を外す」ということもそうだが、いつも固い枠の中で生活している人が時間と場所を区切って、普段は行えない動きをすることは精神衛生上たいへん有益なのだ。

ところがペルソナの強い人というのも世の中にはいるもので、そういう人は1日24時間、1年365日、立場を離れても強固な仮面をかぶったままの生活をしている。

一般には先ほど挙げた警官のような固い職業の場合はそのような傾向になりやすい。他には教師、医師、それから宗教家など、いわゆる「善」に偏りやすい立場にある人は注意が必要である。

ガンとか肝硬変のような身体が冷たく、固くなる病気になるときは仮面のしたの素顔(本心)を忘れていることが多い。

そして病院ではレントゲンやMRIに心は写らないために、こうした心理的な多層構造はすべて無視されたまま、投薬その他の「科学的」治療が施されるのが常なのだ。

これで「治りますか?」と問われれば、理屈の上から言えば「治らない」はずなのに案外治っているところが人間の複雑性を物語っている。

これは病症体験によって自身のこれまでの生活態度や生き死にに対する価値観を更新したためである。言い変えれば病症体験を通じて「改心」される人が一定にいるからだと、私は考えている。

言ってみれば、ここまで生死のキワに追い詰められなければ変われないのが人間のかなしい性(さが)とも言えるだろう。

できれば軽度のうちに自分の本心良心に耳を傾けて、仮面のしたにも新鮮な風を入れてやることが望ましいことがわかるはずだ。

一方で、実は自分の素顔に気づくことにもリスクはともなうのだが‥。

具体的には、今まで確立してきた社会的立場を危うくしたり、家族のパワーバランスがくずれたり、といったことが多いけれども、生きている以上はこういう「ゆらぎ」が絶えず(できれば小規模に)行なわれて日々新しい自我意識を保ちつづけることが求められているのだ。

頑なな心は固定的にはなるけれども、それは安定的という状態からは遠ざかる。

岸壁は海水に削られるが、水が破壊されることはない。概して固いものは短命であり、やわらかいものには永続性がある。

よって心の中にも水のような自在な流れがあれば、喜怒哀楽を流転しながらも身体の弾力は自然に保たれる。

これは逆もまた真であり、身体を柔らかく保てば精神にもそのゆるみは波及するのだ。

これは精神身体現象、身体精神現象と呼ばれるもので、要は身心相即、不即不離なのだ。

いずれにせよ、心にも体に過剰な無理をかければ自我意識の達成感と引き換えに、「いのち」を縮めることにはなるだろう。

「いのち」を如何にすべきかはそれこそ個人の自由であるが、経験上、自分にも人にも「ムリ」はすすめられなくなった。

ペルソナを強化させるのが世の「教育者」の務めなら、ペルソナの拘束をゆるめて、からだの自然に身を任せる時間を提供するのが私の「反・社会的」役割りである。

マジメな人もそうでない人も、ときどき仮面をはずして、自分の素顔に新鮮な空気を吸わせてあげよう。

あさりちゃんコンプレックス

子供のころの思い出になるが、家によく『あさりちゃん』が転がっていた。

『あさりちゃん』とは、勉強が苦手だが運動が得意で元気な「あさりちゃん(小4)」と秀才だが運動オンチでちょっとイジワルな姉「タタミ(小6)」を中心に物語が展開するホームコメディ漫画である。

今にして思えばこれが高度経済成長期の一つの典型的家庭ではないかと思っている。

お母さんはいわゆるオニババ的な顔を持つ存在感のある母であり、父はと言えば登場自体が他の三人よりずっと少なく、育児にも家庭にもほとんど関与していない。それでいて、毎日会社に行ってお給料だけを淡々と入れるマジメなお父さん像である。

仕事で30~40代の方とお話すると、存外この「父親不在」という家庭環境に育った後、いろいろな面で苦労をしいられたようなケースによく出会う。

もちろん各ご家庭で人間模様はさまざまなのだが、「お父さんが〈父親〉をやっていない」家に育った人は中年期以降のぐらつきが大きいように思える。

元来、「父」の役割というのは社会規範の象徴、代弁者である。

だから子供が何か自主的に行動すると言ったときに「ここからここまではいいけれども、これ以上はダメだ」ということで、ピタッとした枠をその子供に与えてやらなければならない。

ところがその当時のお父さんというのは会社勤めに時間と体力の大部分を奪われ、またGHQによる家父長制度の解体の余波も手伝って、家にはいても家庭的役割としては「いない」に等しいのである。

そういう「忙しさ」のために子供には申し訳ないとも思うし、そのぶん顔を合わせればできるだけ「理解のあるやさしいお父さん」になっていることも多い。

そうすると今度は母が父親の役割もやらなければならなくなり、必然的にオニになる頻度も増え、結果家庭は常に母性も父性も欠乏気味になる、という構図である。

もともとが日本は母性原理の強い国であるために、メンターのような役割にある人は父性的な厳格さが求められる傾向にある。

具体的には、ズバッ!とモノを言ってくれる心の指導者というのは常に需要があるのだ。

また父親というのは「厳しい社会規範」としての役割だけでなく、男性的包容力も求められる。

こんなことを仕事の合間にもやもや考えているうちに、自分の今やっている職業はこういう社会的役割を担っている面が結構あるなと気づいたのだ。

ただ「包容力」という点では全くもって心もとないし、この辺りはもっと「人生」を学ばないといけないなと思う。

現代的にはイクメンなんていう新しい父親像も生まれているので、当然あさりちゃんの頃とは「家庭」も変わってきているだろう。

生まれ育った家庭環境と身体は切り離せない。次世代の身体はどのような家庭像を表現するのだろうか。