夢の言い分

夢は眠ってから見るものではない、起きている時に見るのが本当の夢である。

出典元は知らないが、どこかでこういうフレーズを聞いたことのある方は多いのではないだろうか。

この場合の「夢」とは目標であったり、人生の抱負のようなものを語っている場合がほとんどである。

たしかに自分で自覚できる「意識」の中で「こうなったらいいだろう」、「これをやるゾ」と思索し、これに沿って行動していくことは一見してやる気や活力のもとになりそうだ。

しかし努力や勤勉がウリの仕事人間のような人が、突如として「うつ」になったり徐々にやる気を失いやがて会社に行けなくなるような場合もある。

このような事例を丁寧に考えると、意思の努力や理性で命令する力というのは期待に反して意外とその限界値は低そうである。

心理学では一様にこころの広大さを説く。その中でも実際に人を動かしていく「意欲」のようなエネルギーは「眠る」ことによって無意識から意識の方へと充填されていくと現代では考えられている。

つまり本当の意味で自分に活力をもたらし、現実化しやすいのはやはり眠っているときに見ている夢(無意識のヴィジョン)の方だと思われる。

整体法では起きているときに思い浮かんだことをどしどし行動していけば、眠ってから夢など見ないのだと説いているが、何かと制約の多い現代社会においてその様な生活を実現することはなかなか困難である。

現実的にはやはり睡眠時に見る夢(覚醒時に覚えているその断片)から自分の要求や願望をうかがうように洞察し、その時のヴィジョンやそこから湧き上がる心のエネルギーを微量に生活の中に融け込ましていく方がより自然で賢明な態度ではないだろうか。

昨年くらいからこんな風に「夢」に関心を持ち始めたせいか、臨床の場でクライエントさんが夢について話してくださる機会が増えてきた。

中には「夢占い」などで事前に情報収集をしてからカウンセリングにのぞまれる方もいらっしゃるくらい、ツボにはまると夢の分析はなかなか面白いものである。

「夢分析」は心理療法の分野ですでにその有効性が認めれて久しい。しかし実際の治療に活かすには援助者(カウンセラー)の力量はもちろん、クライエントの「洞察」の態度がミソだろうと思う。

「夢を分析する」といった場合に、「今朝見た夢は‥」などとあれこれ思案して「意識的に」探っていくよりも、覚醒時にあえて半睡状態のような「ぼんやり意識」を再現して、夢の続きを見るような態度になってみた方がむしろ心のエネルギーの対流がはかどるようである。

インターネットの夢占いや、夢に現れた事物が象徴するもの‥、といった情報もわりに有益なのだが、これらをさらに有効活用するには上に書いたような「夢うつつ」な心もちになって、「〈わたし〉は『私』に何を訴えたがっているのか‥」に傾聴するとよいと思う。

夢の中には昼間の覚醒時に意識によって切り捨てられた思念や様々なヴィジョンが浮かび上がり、自我意識の強固な外壁によって隔絶された『私』の偏りを取り除こうとする。

これにより幼児のような円満で自然のこころへと回帰させようとはたらきかけてくるのである。

つまり『私』にもっとも適したカウンセラーは「夢」として現れてくる〈わたし〉自身なのだ。

このように夢によって行われるこころの自然治癒はときにはやさしく、ときには戦慄をともなってなされるので、その迫力に『私』はときどきびっくりされられる。

しかしその(夢の)言い分をじっと聞いてやると、そういう戦慄を生んだ原因も過去の自分の体験や行動に起因することに気づかされることもある。

雨降って地固まるという古語が示すように、つよい動揺をともなう「気づき」を通過すると、やがて心の対流の波は静まり落ち着きへと向かう。

そしてこの落ち着きが安定し、安定が固定となりってやがて鈍りへと移行する頃にまたこころの内面や外界への適応がむずかしくなってくる。

するとまた夢は自我の再適応を図ろうとして、睡眠時のような意識の活動水準が下がったところを見計らい『私』に語りかけてくるだろう。

このような破壊と再生の繰り返しが滞りなく、円滑に行なわれていればその人は健康、と言えるのかもしれない。

夢はあなたの中にいるよく知らない〈あなた〉との貴重な通信手段なのである。

そして夢から覚めたときのあなたは時々その内容にびっくりして思わず着信拒否したくなるかもしれない。

しかし夢におどろいたいうことは、それだけ現在の生活様式とこころの深層が求めている生き方との間にギャップがあることを物語っている。

そのような場合、もしも余裕があればばそのままもう一度ぼんやりと「夢うつつ」になって、その訴えにじっと耳を傾けてみてはどうだろうか。

うまくいけば、現実の行き詰まりや意識の閉塞感を拓くためのヒントを夢のメッセージから汲み取ることができるかもしれない。

それでも「努力」は必要か

「子どもの集中力が続かない」

「ものごとが継続できない」

「〈努力する〉というのは不自然なことでしょうか」

先週はなぜか努力というテーマでよく質問をいただいた気がする。

わたしがさも努力家に見えるのか、それとも努力もせずにぼーっと生きているように見えるのかはわからないけれども、職業がら何か面白い答えを言ってくれそうな気がするのかもしれない。

しかしあらためて考えると、みなさん「努力」は好きだろうか。

公の場でうっかり「わたしは努力は嫌いです」などと言えば、ヘタをすると怠け者のレッテルを張られかねない。

しかし一人きりになったとき、自分自身に「本当に努力は好きか?」と正直に問うたら、「できればそんなことはしたくない」という声をまったく無視することなどできないのではないだろうか。

それ以前に、そもそも「努力」とは一体どんな行為をさすのだろうか。

一般的には目標に向かって、心身の力を奮い努めることが「努力」の意味だろう。

ただし日常生活でこの言葉が使われる場合、「嫌なことでも無理をして」とか、「少々体をこわしても、精神的に辛くとも、目標に向かってひたすら努めていく」ような態度が求められることもある。

果たしてこのような態度で、本当に人間の力が最大限に奮えるのかどうかは怪しいものである。

孔子の言葉に「これを知る者はこれを好む者に如(し)かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如(し)かず」というのがあるが、これなどすでに「面白がってやっている者にはかなわない」と言っているのである。

つまり「興味」と「関心」、そしてこれらに裏付けられた「意欲」というものが人間の行動の元、真の原動力なのだ。

これに則して動いている場合、ハタから見てとてつもない「努力」をしているような者でも、本人からすれば欲も得もなくただ夢中になって取り組んでいるだけなのである。

またこんなとき、怪我をしたり病気をしたりというようなことはほぼない。

ところが世間で「努力」といった時には、子どもが友達と遊びたい欲求を「意識的に」抑えて、家にこもり机に向かって勉強をしているような場合がある。

あるいは少年野球などでコーチや先輩の睨みに抗せず、休みたい要求を押し殺してバットを振りをつづけたり、ノックを受けつづけるようなケースもあるだろう。

いまだにこのような前近代的「努力」がすばらしいと賞賛される向きもあるが、本人がいっさい興味を失っているにもかかわらず外からの圧力でやり続けているとしたら、そこにはすでに葛藤という心の摩擦が生じているのだ。

言うまでもなく摩擦というのはエネルギーを喰うものである。

この様な場合「そこそこの結果」くらいは出せるだろうが、「持てる力を最大限に発揮する」などということは不可能だろう。

もちろん心は物ではないがこれをもう少し「物理的に」考えてみれば、上の例の場合「勉強をしたくない」「練習をやめたい」という心に対し、意思の力によって「それでも勉強をしなければ‥」「練習しないと怒られる‥」などとやっているわけである。

これは自分自身の心の中で真逆のエネルギーがぶつかり、すでに相当なパワーを衝突によってロスしていることになる。

このような葛藤状態に翻弄されつつ、かろうじて行為しているような状態が「努力」だとすれば、その行為者は遅かれ早かれどこかで破綻するのではないだろうか。

「わたしは努力がつづかない」

「努力しているのに報われない」

もしもあなたがこんな境遇に見舞われた場合、まず自分のしている「努力」の中に葛藤による心の摩擦や衝突が生じていないかを点検してみた方がよさそうである。

さらに自分が遮二無二取り組んでいるその行為の背後には、どのような心象風景があるのかを冷静に内省することを勧めたい。

ところで最初の質問に「努力は不自然か」というものがあったが、わたしは少なくとも自然界には努力という態度はないと思っている。

人間でも少なくとも3、4才くらいまでの子どもなら努力などしないだろう。しかし夢中になって行うその「遊び」という行為によって周囲の大人が感動させられることもしばしばである。

そこには先に述べたような葛藤によるエネルギーのロスもなく、また失敗してもそれを失敗と思わずに、次々と最初にあった要求実現に向かって動いていく。

その姿をみると「努力」の是非など考えるのは、まったくもって大人の雑念ではないかと反省させられる。

それならばむしろ動物や子どもたちの素直な心に我が心を照らし、自分の中にある真の要求を見究めることに「努力」した方が、後々になってずっと大きな実りを得られるのではないだろうか。

そうはいっても、自分の心の深層を整理し、明らかにしていくことはなかなか手ごわい仕事である。このような心の仕事に取りかかる場合には、それこそ相当な努力が必要であることを事前に覚悟しておいた方がよいように思われる。

整体の臨床を考える

ここしばらく野口整体とユング心理学の統合を謳っているけれども、改めて何をどうするのか訊かれるとなかなか上手く答えられない。

一つ言えるのは、ユングの提唱した「個性化」ということを整体指導の臨床で実現したいというのは外せない「ねらい」である。

ユングの言う「個性化(individuation)」というのは、俗にいう「個性『的』に生きる」ということとは別物である。その真意は、自分の原初的な〈こころ〉につよい関心を寄せることで「本当の意味で、私らしく生きていこう」という態度なのだ。

整体流にいえば「裡の要求に目覚める」という表現がこれに近いように思われる。これは身体の中心(深層意識)にある〈思い〉に目を向けることで、自分が芯から望んでいる生き方を真摯に考える、という極めて敬虔な態度なのである。

この両者のプロセスにおいて共通しているのは、いずれも顕在意識の活動水準をひたすら下げていく、ということだ。

これについて野口整体ではよく「ポカンとする」という表現を使うけれども、このポカンというのが顕在意識の活動水準が充分に下がった状態を指しているのだ。

現代的にはどうしても「思考力をいかに高めるか」という方に価値が置かれやすいのに対して、敢えてそのウラをかく行き方ともいえるだろう。

深く考えたり内省したりするような「意識的な」活動を積極的に放棄することで、自身の行き詰まりに対する「打開策」や「活路」を見い出そうというのである。

イメージとしてはアニメの一休さんが頓智をはたらかせる際に、坐って目を瞑りポクポク‥チーンとやるのがひとつの典型である。いってみれば覚醒した意識の統制下において、大脳の活動を休ませる状態を作り出したい。

そこで鍵となるのが「身体」なのである。

一般的に「意識」とは脳の活動状態のみに従属するものと考えられやすいが、実際は「全身これ意識」といった方が正しい。特に幸福感や心の余裕度といった面においては、もっぱら脳よりも下腹部や腰部の「姿勢」や「体勢」といったものが大きく影響するようである。

特に腰椎部(ヘソの裏側あたり)に生理的な正しい湾曲(反り)が現れると、余計な心配事や不安感は消失する。いわゆる「大丈夫」とか「大安心」の境地というのは、下腹部を中心とした「修養」を正しく積むことで得られる「身体能力」なのである。

換言すれば整体指導というのは個々人においてこの「大丈夫」を顕現するためにある、といっても間違いではない。

それは頭のはたらきを一定に鎮めることで、腹脳と呼ばれる二次的な(より高尚な)意識の覚醒を試みることである。東洋的な身体観において「上虚下実」という状態が好まれるのは、上記のような理由によるものと考えられる。

そしてこれこそが最初に書いた「個性化のプロセス」や「裡の要求に目覚める」ために必要な心身の構えとなっていく。

これに因んで、ユングは自身の精神的危機を乗り越える際にヨーガをやったと言われているけれども、クライエントに対して身体的な「行」を勧めたというような記録は今のところ目にしたことがない。

実際はそういうこともあったかもしれないが、やはり当時の西洋社会においては「身体」の中に精神を開拓できるほどの可能性を見出してはいなかったのではないかと思われる。

その辺りを現代日本人の心と体の教育に適用して成果を上げようというのが、現行の整体指導のねらいなのだ。開業して9年ほど経つけれども、多少なりとも概要がまとまってきた感がある。

一方で、自分の職業の可能性があまり小さくまとまってしまうのもつまらない。だから「整体指導とはこういうもの」という概念の固定化はできるだけ避けるようにも心掛けている。

実際の臨床においては、よくわからないけれども会っていると「なんとなく」元気になっていく、というような余裕のあるテイストは大切に残しておきたい。そのためにも人間的な大きさとか、徳性を養うことはライフワークといえる。

そういえばむかし手相鑑定士に「あなたは哲学や宗教学のような『正解』のない学問をやり続けるのが性に合っている」と言われたことがある。ふと気がつけば大体そんな人生になってきているの気がするのだが、まあとにかく‥。

何にせよ導き手というのは、自分の人生、「私の道」を日々創造し続けることが責務である。坐禅と活元運動の励行は無意識からのエネルギーの流れを生み出して、自我の再構築を進めてくれる貴重な行法なのだ。

そうやって自身の自由性を充分に発揮していくことが、他者の自由度を拓く力になる。そういう意味で「整体」という生き方は、生の終着地点としての死を最良の状態に仕上げるための指針のようなものである。

ひたすら死に抵抗し続ける「自然科学」に対して、死を積極的に迎え入れることで生を輝かそうとする「宗教」としての位置に、ユング心理学と野口整体は座しているのだ。

あとは洋の東西を越えた視点に立って、「現代」という同次元の中を生きる「人間」に対しどう向き合うか。その術を生み出す過程において、先の両者の統合が非常に有効な手立てになると考えている。

いずれにしても「個人」に真正面から向き合うことは原則である。臨床における術(すべ)に普遍的な具体案はない。

それだけ、生きた「人間」ほど解らないものはないのである。人間は策を弄するほど〈いのち〉の原形からは遠ざかる。

この無限の不思議さに有限の生を以て追い続けた先達に範を求め、自分自身のいのちの真相を解き明かすことが自ずと両者の「統合」に至る道ではないかと思っている。

体癖論とタイプ論

野口整体とユング心理学を併学しているので、どうしても体癖論とタイプ論の整合性が気になる。

体癖とは全部で5つある腰の骨に対してそれぞれ、思考(上下型)・感情(左右型)・闘争(捻れ型)・愛憎(開閉型)・理性(前後型)といった気質を適合させ、さらにそれを積極性と消極性の2つに分けた。

こんな風に無理やり一文に詰め込むと素養のない方からすれば訳がわからないと思いますが‥。

とにかくまあ、5×2で計10種類の体癖素質(その人なりの気質や感受性傾向)に分類される。

これに対してユングのタイプ論ははるかに知名度は高いと思われるが、思考・感情、直観・感覚の4つの機能に対して外向的・内向的の×2であるから合計は8になる。

細かい組み合わせについては割愛するが、一つ一つ当てはめて考えていくと10引く8で結果、体癖論の闘争(捻れ型)の2つが余る。

また体癖論はその名の通り身体性から出発した分類法なのに対して、タイプ論はユングの臨床経験と自身のヨーガ(瞑想)体験による無意識の探索から紡ぎ出された理論である(ユングはおそらく「身体」には着目していないと思われる)。

これだけ出自が違えども、お互いを組み合わせていくと意外に整合性が取れる面があって興味深い。

現時点としてはまだ自分の思索内で漠としたまま動めいているが、もうあと1、2ヶ月したらすっきりまとまってホームページにアップできそうな気がしている。

「まとまったらそれがどうなるんだ」という自分ツッコミもあるのだが、おそらくは二つの立ち位置から対象を捉える「複眼」になるために、人間の捉え方がもう一つ立体的になるだろう。もちろんこれは臨床にも活かせるはずだ。

しかしユングの場合は思考・感情、直観・感覚この4つすべての機能をバランスよく発達させることで人格の円満な成長を推奨するのに対し、野口の体癖論では「体癖は生涯変わらない」と説く。

それはつまり「花は紅、柳は緑」の理論で、「欠点を克服する暇があるなら長所を伸ばせ、そうするれば欠点は消える」といった見方である。

どちらも個人の特性を如何に成長させ、どう活かすか、という目標に向かう態度ではあるが、これこそ各々の「個性」が際立つ結果となっているのは面白い。

また、よく考えてみれば「人格の成長」とひと口に言っても、具体的には一体どのような変化をもって成長と呼ぶべきかはむずかしい問題である。

そこに解答の多様性と人間探求の奥深さが見て取れる。

整体も心理学も「ゴール」や「正解」のない無形の学問であるために、その答えは個人の資質と感受性に委ねられるのだ。

いずれにしても最終的には自分の資質を見究めることに尽きる。これに一生を捧げるという点だけは揺るぎない共通項であろう。

そこで身体というのが重要な鍵になる。「身体の可能性を拓く」ということが現代のブームになりつつあるが、野口整体はだいぶ先駆けに位置していたものと思われる。これは大きなアドバンテージだろう。

一方で整体法はとにかく個人的経験を積むことで主観を磨くが、心理学というのは一応アカデミズムの約束事を順守しなければならないので客観性を重んじる。

結果的にはお互いが補償の関係になる。

長くなったけれども、野口整体もユング心理学も本気で勉強しようと思ったら人生がいくつあっても足りない規模のものである。全ては学びつくせないにしても、両方の強みを生かして自分なりの人間理解を構築していきたいと思っているのだ。

 

夢分析ー表出化する無意識の動き

妻が面白い夢を見た。

自宅の前の住宅がなくなってサラ地になっている。そこへ私と妻が見に行くと黒い岩のような塊が二つ、地面から顔を出していた。邪魔なので掘り返そうかと思ったが、想定したよりも土中の体積が大きいようである。私がその場ですぐに掘り返すのはあきらめ「これはほうっておいて、またいずれやろう」といって引き返し、妻もそれに従がう。

内容は以上である。妻の夢はいつも抽象性と複雑性に富んでいるのだが、これは比較的解釈をつけやすいのではないだろうか。

というのも最近は私がもっぱら無意識とか個性化の話ばかりをしていたことが遠因と思われる。つまりこの黒い二つの岩というのは顕在意識に表出し始めた私たちの二人の無意識のようである。

しかし無意識が意識の領域に登ってきたからといって、「意識的」にそのすべてを顕在意識の俎上に上げられるかといったら、それは不可能である。

無意識と顕在意識の交流が活発になるということは、取りも直さず心理的な「治癒」を意味している。

しかし無意識というのは劇薬なのだ。無意識の力に急激に飲み込まれると、治癒どころか社会生活そのものが一時的におぼつかなくなる。

だから夢の中の「私」は土中の岩を掘り起こさずに、「自然に任せる」ことにしたのだと思われる。

この夢のように無意識像が黒い大きな岩のような塊として現れる例を、過去にクライエントから何度か聞かされたことがある。

また今回の例のように、その大岩は夢の中でも「これ」といった仕事や役割を果たすわけではないし、さして邪魔にもならないということがほとんどである。

一方で夢を見ている当人に理由のない安堵感をもたらしたり、何か「意味ありげ」な中心的存在として登場することが共通している。

こういう夢を見た(覚えている)からどうなのかと問われると答えに窮するが、自身の心の成長プロセス(個性化の過程)を客観的に査定する結果にはなりそうである。

何にせよ意識的には活性化する無意識の動きを邪魔しないで、むしろ保護するような立ち位置で「見ている」他はないのが常である。

経験上、中年期というのは顕在意識と無意識の力がちょうど均衡した後、入れ替わるときだと思っている。この時期に体から余分な力みを抜けば抜くほど、心のエネルギーの流れはスムーズになるから、より体を整えることが要となるのだ。

野口整体流にいえば「ポカンとする」という一言につきるが、日に一度は全身をゆるめて意識の統制力を弱めてやることが、自分なりの人生を豊かに創造していくための要訣である。

このときに土中から顔を出した無意識が示唆的にはたらく。もちろん何か目に見える「はたらき」をするわけではないが、生命の進むべき方向を暗に示して、気がつけば自分の歩んだ後ろにいかにも自分らしい道が出来ているものである。

そこで夢の中の「私」のように「そのうちなんとかなるだろう」と成り行き任せでいられるかが鍵だ。禅の方では「任運自在」という言葉があるが、運を味方につけるために努力は無用なのである。

もちろん努力そのものはしても構わないが、努力「だけ」で人生が構築されていると思っているとしたらそれは視野狭窄である。

大抵は意識できる思考の部分だけを指して、「これが自分だ」と思っているが本当は顕在化していない広大で漠とした心の領域に主体はある。

おそらく昔の人はこういう「サムシング・グレート」のような存在に手を着けることは「祟り・障り」の元であると考えて、「それ」から一定の距離を保って畏れ敬う態度を心得ていたものと思われる。

実際は「そのようなことはすっかり忘れて」目の前のことに努めるのが賢明である。「人事を尽くして天命を待つ」とはこのことで、「精神的なこと」に取り組もうとしてそちらに偏るとかえって精神性は堕ちる。

具体的に言えば、神社に行って合格祈願や商売繁盛を祈願する暇があったら、その時間を受験勉強や仕事に精進した方がずっと効果的に運を引き寄せられるのである。

話が飛躍したが、元来何もしなくても無意識はその生活に反映されていくものである。我々にできることは、「それ」が見えやすいように時折り意識の波を鎮めて心の中にサラ地を作り出すことぐらいだろうか。

私の中にいる私ならざる〈わたし〉が一体どのように生きようとしているのか、これを〈わたし自身〉に頭を垂れて問いつづける態度のことを私は「敬虔」、と呼んでいる。

そういう意味からも、夢は私が〈わたし〉へと通じる、貴重な連絡経路なのである。夢を軽視することなく、その訴えのもとに照準を絞って傾聴してみると意外な声を拾い出して、その内容にしばしば驚かされる。

人生最大のミステリーは〈自分〉なのである。決して全てを見せない土の下に一体全体何があるのか、それを見究めるために今日のいのちがあるのだ。

そのためには、ただ一つ一つ行動していくだけでいい。見えないものが一つ一つ現象化していくその全てにドラマがあり、一寸先は闇もまた楽しみである。

夢は時折りその先の光を垣間見せてくれる、案内人のような役割を果たすものなのだ。

メンタルは弱めでいい

何ごともメンタルは強いに越したことはない。

こういう考え方が一般的だが、いろいろな人にお会いしてみると、メンタルが弱い(と思っている)人の方が身体は健全だ。

健全だ、というのは病気をしないという意味ではなくて、身体感覚が正常にはたいている、ということである。

逆にいうとメンタルが強い、とか精神が不安定になりにくいタイプの人というのは大きく二通りに分かれる。

自分の心の全体性をしっかり把握したうえで安定している人と、心の大部分が蓋をされたように閉じられており、狭い自我意識の世界だけが固定的になっている人である。

やっかいなのは後者のタイプで、自分の病的な部分に光があたりにくいので心身症的に体の不調だけは訴えるが、メンタルが「強い」ために深層の問題が明るみに出にくいのだ。

心理カウンセリングや整体指導を受けるとこうした「仮」の安定性はやぶられ、文字通り不安になる。あるいは出どころのわからない不快情動に自我が脅かされ、メンタルの弱さを感じはじめるようになる。

こうなると、心の「治癒」がはじまった、とみていい。

心でも体でも異常を異常と感じれば治るのだ。

このとき当然「苦痛」を伴うのだが、本来の自然治癒というもので苦痛を伴わないものはないのである。

メンタルが弱い、と思っている人はこうした心の治癒と自我の再構築が常に行われている場合が多く、言ってみればぐらぐらと揺れているのは生命の平衡要求の現れなのだ。

だからメンタルの弱い人というのは、当人的にはつらいが客観的にそのメカニズムを解読してみれば、ある種の健全さが理解されるはずだ。

しかし「弱いことがだめだ」と思ってそれを隠したり強くなろうと足搔いているうちは、健全さが隠れてしまって見えにくい。

弱点や欠点を解決するよりも、今日を生きる、ということに尽きる。弱いまま平気で生きられたらそれが本当の強さにつながっていくと思う。

自己実現までの距離

「自己実現」は心理治療を行なう上で最も重要なタームである。

自己実現(self realization)の原型は個性化(individuation)という、クライエント自身が本来の自分らしさを求めて変容成長していく動きのことだ。

言いかえるならその人に内在する、生命が要求実現に向かう心のダイナミズムのこといっている。

〈私〉が〈わたし自身〉になる、ということから目を背けたままで「治療」を完成させるのは片手落ちだし、それ以上に不可能なのだ。

「個性化」という言葉を精神療法の中心に打ち出したのはユングだが、それがいつのまにか彼の手を離れていって「自己実現」に表現がすり替わり、その後だんだんと時間の経過とともに意味内容まで変化していった。

もともとの「個性化」は、一切の社会的価値観や道義的制約から離れた「本来の自分らしさ」へと向かう無目的な動きである。

それが徐々に一般社会の需要に引きずられるように「富と幸福」の追求みたいなステレオタイプの成功学に堕ちてしまった。

さらに巷ではそのような「自己実現」の歳末大安売りが跋扈して、一日30分の瞑想で「自己が目覚め」たり、三泊四日の集中セミナーで「本当の私に出会え」たりするから、これらに引っかかって余計な浪費と引き換えに「道草」を食う人もあとをたたない。

もっともこういう道草すらも中・長期的、大局的視点に立てばその人也の個性化へつづく布石だったりもするのだけどね‥。

しかし実際問題、真の「自己実現」はそこらで販売しているようなものではないのである(もちろん価格の大小も関係なく)。

本来はたった一人になって、自問自答する「自分」すらもそこから締め出して、無意識の活性化をじっと待つことなのだ。

知ってる人はわかってるけど、これはけっこうしんどい。

いわゆる「瞑想」の必要もここにあって、これも現代的には猫も杓子も瞑想ブームで、質の高低において雲泥の差があるということも知らない人が多いのではないだろうか。

ひとつのキーワード、というか「鍵」となるのは「身体」だ。

これを有効に使う方法から着手することが近道なんだな、本当は。

何をモデルにするかで得られる結果も変わるけれども、そこは個人の勘と好み次第だ。

何が言いたいのかというと、昨今、「自己実現」が日常から遠く離れたお月様の世界にあると歌って、地球人を謎のツアーに連れて行こうとする人たちが多いのが気になったのだ。

数多あるガイドラインから何を選び、そして誰を信じて行動するかはその人の質によるのだが、いつだっていまここで生命の光が身体上に現れるようにすれば万事おーけーなのだ。

身体から遊離した、あるいは身体を誤用・悪用する精神論ほど恐ろしいものはない。

100年経っても1000経っても、「整、体」の価値は失われない。真理というものは、一切の時間的・空間的制約から解放されているから真理と呼ばれるのだ。

身体上に自然の秩序を顕すことが、自己実現の必要条件であってそれ以外の何ものでもない。実は今ここで、しっかり自己実現している。

うつは心の風邪か

体が風邪を引くように、心も風邪を引く。うつは「こころの風邪」みたいなもの。そういうフレーズをときどき目にする。

だいたいが「風邪」も「うつ」も定義があいまいなのだ。だからそうだといえばそうかもしれない。

おそらく「うつ」という病気が重篤なものになると相当に苦しいから、「今は苦しいけど、ちゃんと養生すれば必ず治りますから」という、心ある人からの励ましではないかと思っている。

野口整体の『風邪の効用』という本があるけれども、これによれば風邪は体の自然良能、すなわち発熱・発汗・下痢等々‥症状はいろいろあるが、その風邪を途中で止めないでしっかり経過すると身体の偏りは消失することを説いている。

もうちょっとわかりやすくいうと、自分の力で自然に体は整うってことを意味しているのだ。

ここでいう「偏り」って具体的にどういうことかと言えば、「骨格の位置」とか「重心バランス」のことである。

つまり発熱と発汗で筋肉がゆるむから骨格が正常な位置に戻るし、筋骨のバランスが整えば内臓機能も正常化し、そして最大化するのだ。

それなら、「うつ」にもそういう自然良能の力があるのか?と問われれば、それは間違いなくある。

「うつ」状態が体と心の偏りを正している、と考えて相違ない。

だいたい人間が治る時、というのは全てにおいて苦しみを伴うものなのだ。

「苦しいから治っている」といっていいだろう。

風邪もそう、そうなのだ。

「うーん…」と寝込んで唸っているときに、必ず身体のどこかが治っている。

共通しているのはうつでも風邪でも必ず、過去に何らかの「不快」を味わっているということだろう。「その時」の情動が消化しきれずに、体の内、あるいは心の中に居座っているのだ。

それを遅ればせながら、1年後でもいい、いや10年、20年後でもいいから身体上に表現して、感じ直して、苦しみ直すことで心身ともにクリアになる。

心でも体でも、きちっと病気をすることが治るためには必要なのである。

ときどき心理カウンセリングを受けた後で「具合が悪くなった」とか、「かえって気分が落ち込んだ」とかいうことが起こるのは、過去に感じ、出しそびれた不快情動が記憶の底から浮かび上がってきたからだと言える。

感じはじめたらそれから何日後か何週間後かはわからなけれども、やがては消えていくのだ。

暗がりに繁殖したカビとかキノコがお陽様にあたると消えてしまうように、心の底にも意識の光が指し込むとクリアになる。

ただまあ、人によってはそういうカビとかキノコみたいな不快な情動体験が「生きがい」とか、「生きるための燃料」みたいになっている人もいるから、心の治療というのはむずかしいのだが‥。

場合によっては、少しくらい偏りがあった方が「人間味」がある、と言えなくもない。

まあでも、せっかく心の風邪を引いたのならこれを上手く使わない手はないだろうと、わたしなら思う。

風邪をきちんと経過したあとは身体がさっぱりする。

これと同じように、うつを経過したあとで、今までとは違った創造的な自分だけの人生の道が拓けた、という例を、日々の臨床でたまさか見させてもらっている。

いずれにせよ病気は外から無理やり治すものではない。

「いのち」という全体性の中でその目的を正しく理解し、善用するべきだ。

苦しいときはその苦しさの中心を見据え、本質を見極めようとする態度を学ぶことである。

やがて必ず、その病の中に「道」が見えてくる。

失感情の治療を考える

最近になってようやく自分の失感情傾向がわかるようになった。

思春期前後に深いストレスにさらされた体験が大きいと思うが、20~30代はほぼまるまる「失われた感情」と「身体感覚」を取り戻す作業に明け暮れた。

学生時代に競技カラテの道場で来る日も来る日もぼこぼこ!になっていたのも、あれは今にして思うえば緩慢な自傷行為であった。大けがをして辞めるに至ったが、まああれぐらいで済んでよかったと思うべきか。

空手のあと今後の人生まで含めて大きな影響をもたらしたのは「野口整体」だろう。人を倒す技の修練を断念したのちに、人の苦しみを共感する道を歩み始めたというところが「物語」である。

思えば失われた感情と身体感覚を取り戻すために、身体に取り組んで来たのだ。

野口整体の愉気や整体操法が現代的に最もその力を示せるのは、「失感情」に対する対応ではないかと思っている。

日々くり返される荒んだ刺激によって麻痺した心の感度は、身体を媒体にして伝える慈しみと癒しの心によって息を吹き返す。

釈迦の慈悲もキリストの愛も人間の救いを象徴するものだが、その根底にあるのは相手に対する深い理解と共感の精神である。

もともと健全であるはずの人間の心を麻痺させるのは、その身の内に偏りを抱えた人間の所業である。その反面、その凍りついた身心に再び血を通わせることができるのもまた人の心なのだ。

愉気は人と人のつながりを象徴する概念だが、現代にこそ愉気の精神は重用されるべきだろう。

野口整体ばかりが全てではないが、その根本精神には汎用性と不変性がある。身体と社会から失われた感情を取り戻し、心と体、人と人、その「つながり」を取り戻す道としてその有用性を実証し、後世に残したいものである。

再びユング自伝

ユングの自伝をまた読みはじめた。

個人的には子どもの頃のエピソードはなかなか読むのに苦労する。というか、まあ訳本なのでどうしても読みがぎこちなくなる。

それはそれとして、やっぱり青年期以降、それから独自の精神分析態度による治療理論を構築していくプロセスは圧巻である(自伝1のⅣ精神医学的活動のあたり)。

その当時、いわゆる「精神の病」というのは医師でも手が付けられないものだったらしい。昔の早発性痴呆(今でいう分裂病、統合失調症)はライ病患者と同様に、治療者とともに町はずれに隔離しておくしかなかったようである。

そう言えば、黒沢明の映画『赤ひげ』にも精神疾患の娘が離れの小屋に滞留させられていた。自然科学が未発達な時代にあっては、このような対応は致し方なかったのかもしれない(現代の「カガク」的な対応が良いとは決して思わないが‥)。

兎も角、そのようないわば常識やタブーに対して、はじめてユングという人物が斬り込んだ。心に深いこじれや偏りを抱えた人たちが訴える妄想や苦しみを一所懸命に聞いてみると、その病的な態度の裏にある本当の「理由」が明らかになって、治っていくのである。

それは革命的なことだったのだ。

それというのも苦しんでいる人を捨て置けない「いきさつ(=人生の物語)」がユングにはあったわけで、他者の治癒に関わることが自身にとってのやすらぎだったのではないかと思われる。

野口整体の野口晴哉先生はその圧倒的な技量と人徳ゆえに治療を求める人があとを絶たず、そのあまりの多忙さを見かねた周囲の人が「少しお休みになられては‥」と進言したところ、「僕が休まるのは苦しんでいる人に手を当てている時なんだ」と答えられたそうである。

人間の世の中には「支えているつもりが支えられている」ということはよくある話で、臨床においても治療者と患者の立場がときどき入れ替わりながら治療が瀬妙に進んで行くようなこともなくはないのである。

まあとにかく、ユングこそが人類の心の多重性を明らかにした立役者である。

一方で、「身体を媒体として意識に切り込んでいく」という点で方法こそ異なるが、野口整体も人間の潜在意識を重視した点は一緒である。

いずれにせよ治癒の鍵となるのは、どれだけ深く患者に「関われるか」だろう。

それには治療者自身が自分の心の真底まで降りていく勇気と訓練は欠かせない。

こんなことを書いていたら、20年前、自分の通っていた大学の学部長(文学部)が講義の最中にぽつりといった一言を思い出した。

「人間が一番深い」

限りある時間の中で、どこまでその深さに踏み入って行けるだろうか。

自分とは何か。

達磨大師は「お前は誰か!」と詰め寄った武帝に対して、「不識(知らない)」と言い切ったが、その判り切れない自分の中にいつだって無限の広がりがある。

自分が何者か、

これを知らずに死んでいくのはまこと惜しいことである。

禅、瞑想、活元運動などを日課とし、意識を閉じて無心に聴く訓練の必要をくり返し説くのもこのためだ。

古来から多くの宗教家が心の世界を独自の主観を磨くことで明らかにしてきたが、ユングも近現代における貴重な心の導き手の一人であることは間違いない。