風に吹かれて

整体とは、身体を整えてよりよく生きる教育である。

こう言うと何かわかったような気になるけれども、「よく生きる」ということを深く考えてみると、個人個人で思い描く理想はずいぶんと異なるのではないだろうか。

人によっては、いわゆるアメリカンドリームの影響をにおわせるような、幸福と富の追求こそが「よく生きる」だと思われる方もいるかもしれない。

これは資本主義社会における一種の宿命なのかもしれない。例えば自己啓発セミナーなどで扇動するステレオタイプの自己実現なども、場当たり的にこの手の目標を掲げていることが多い。自分を変えれば(経済的に)豊かになれる、ということだ。

あるいは「潜在意識さえ」うまくコントロールできれば、人生の難局を巧緻に斬り抜けられる、という触れこみのワークもよく見かける。

ところが「よく生きる」とか「自己実現」というのは、「今の自分」が考えつくような目標内に到底おさまるような世界ではない。

本当は、今の自分が掴んでいる「自分らしきもの」、そういう捨てきれない自分というものを抱えて離せずにいるから不自由しているのである。

そんな自分を一回カラにして、「今の、自分自身と環境」から裸一貫で再出発し、そこから動きだせば、無形の力が出るものである。

こういう態度は俗にいう「努力」などとは真逆の精神である。

自然界を広く見渡してみても、努力などという愚かなことをしているのは人間だけである。

あるのは氣の集注と分散、亢まりと消沈だけである。

氣の集散を自在に行う術を修ることだけが、真に己(おのれ)の生を躍動させるのだ。

ところが何を聞いても学んでも、どうしても昨日までの自分を大切にして、そうして踏ん張って頑張って「よく生きよう」とする人もいるが、こういう努力はすればするほど悟りからは遠ざかるようなのだ。

実際問題、こんな風にして「自分を無くす」というのはなかなかに難しいものである。

大抵は「意識的」な努力に疲れ果て、ぼんやり、うっかりしたときに、「ナーンダこうすればよかったんだ‥」などという気づきは訪れる。

実はこれこそが潜在意識や無意識に自我がアクセスした状態である。

その結果どうなるかというと、それまで思い描いていた「よく生きる」とは似ても似つかない別世界を生きはじめたりするから、心というのは深遠かつ玄妙なものである。

道元禅師の『普勧坐禅儀』に「毫釐も差あれば、天地懸に隔たり(ごうりもさあれば てんちはるかにへだたり)」という表現があるように、せっかく野口整体に触れたって、ほんの少し着眼と理解を誤れば、もうそれだけで「整体」という生き方を確立する道を自ら閉ざすことになる。

いわゆる坐忘、忙中にもポカンとすることの必要を説くのもこのためといえる。人生には道草も回り道も必要だが、正道を歩むにはコツがある。

それは意識を閉じて無意識の扉を開くことに尽きる。

本来の自己(無意識)は、常に外界に向けて実現しようと意識の水面下で活動しつづけている。その活動を自助するはたらきの一つが活元運動であり、禅はその働きを一語であらわす言葉である。

禅や瞑想、活元運動といった、これらに取り組まなくたって自己実現は誰にも止められないのだが、自身の無意識に耳をかさず、自己に対し余分な抵抗を重ねればそれだけその人は人生をこじらせてしまうだろう。

自然に生きて自然に死ぬ、たったこれだけのことが人間にはまこと至難なのである。

整体という、身体をよりしろとして深層意識へ取り組む術は、人が最後に行きつく、たましいへ通じる正道でもある。

どんな時も身体が全てを宿し、教え、導いてくれる。澱みなく、滞ることなく、流れつづける身体のリズムに全てをゆだねるとき、いのちは至高の輝き放つ。

今日の風を感じ、今の光を迎え入れ、一刻一刻、流れゆくいのちを実現させて生きよう。