自己実現までの距離

「自己実現」は心理治療を行なう上で最も重要なタームである。

自己実現(self realization)の原型は個性化(individuation)という、クライエント自身が本来の自分らしさを求めて変容成長していく動きのことだ。

言いかえるならその人に内在する、生命が要求実現に向かう心のダイナミズムのこといっている。

〈私〉が〈わたし自身〉になる、ということから目を背けたままで「治療」を完成させるのは片手落ちだし、それ以上に不可能なのだ。

「個性化」という言葉を精神療法の中心に打ち出したのはユングだが、それがいつのまにか彼の手を離れていって「自己実現」に表現がすり替わり、その後だんだんと時間の経過とともに意味内容まで変化していった。

もともとの「個性化」は、一切の社会的価値観や道義的制約から離れた「本来の自分らしさ」へと向かう無目的な動きである。

それが徐々に一般社会の需要に引きずられるように「富と幸福」の追求みたいなステレオタイプの成功学に堕ちてしまった。

さらに巷ではそのような「自己実現」の歳末大安売りが跋扈して、一日30分の瞑想で「自己が目覚め」たり、三泊四日の集中セミナーで「本当の私に出会え」たりするから、これらに引っかかって余計な浪費と引き換えに「道草」を食う人もあとをたたない。

もっともこういう道草すらも中・長期的、大局的視点に立てばその人也の個性化へつづく布石だったりもするのだけどね‥。

しかし実際問題、真の「自己実現」はそこらで販売しているようなものではないのである(もちろん価格の大小も関係なく)。

本来はたった一人になって、自問自答する「自分」すらもそこから締め出して、無意識の活性化をじっと待つことなのだ。

知ってる人はわかってるけど、これはけっこうしんどい。

いわゆる「瞑想」の必要もここにあって、これも現代的には猫も杓子も瞑想ブームで、質の高低において雲泥の差があるということも知らない人が多いのではないだろうか。

ひとつのキーワード、というか「鍵」となるのは「身体」だ。

これを有効に使う方法から着手することが近道なんだな、本当は。

何をモデルにするかで得られる結果も変わるけれども、そこは個人の勘と好み次第だ。

何が言いたいのかというと、昨今、「自己実現」が日常から遠く離れたお月様の世界にあると歌って、地球人を謎のツアーに連れて行こうとする人たちが多いのが気になったのだ。

数多あるガイドラインから何を選び、そして誰を信じて行動するかはその人の質によるのだが、いつだっていまここで生命の光が身体上に現れるようにすれば万事おーけーなのだ。

身体から遊離した、あるいは身体を誤用・悪用する精神論ほど恐ろしいものはない。

100年経っても1000経っても、「整、体」の価値は失われない。真理というものは、一切の時間的・空間的制約から解放されているから真理と呼ばれるのだ。

身体上に自然の秩序を顕すことが、自己実現の必要条件であってそれ以外の何ものでもない。実は今ここで、しっかり自己実現している。