自己実現の前に

久しぶりにせい氣院のサイトにページを追加した。「自我と自己」。

もとを正せば「自己実現」に関するページを作りたかったのだが、それを書くためにはその実現する「自己とは何か」を説明しないといけないことに気づき、さらに自己を説明するには「自我」について書かないと、と縷々必要性が生じてきて「自我と自己」を先に書くことにした。

河合隼雄先生の『ユング心理学入門』や『影の現象学』で使用されている図をもとに、まあまあいい感じの作図もできたのでまずまずの解りやすさに仕上がったと思う、……と思います。

ともあれ自己実現の方も早晩アップしたいので妻とこつこつ作業を続けている。

自己実現という言葉には一つ思い出がある。まだこの仕事をはじめたばかりの時に相談に来られた方が、問診票の〔希望欄〕に「自己実現」と書かれたことがあった。

内心「ああ、それはすばらしいな」と思ったけど、その当時はそれが何だかわからなかったのだ。わからないけれども一所懸命やってればなんとかなるだろうという素人の情熱頼みで(今考えると怖ろしいが)、とにかく頑張ったのを覚えている。

自己実現と言った場合一般的には「夢がかなう」といったようなニュアンスが濃いように思うけれども、これがユング派の心理学の中に留まった場合、その意味はだいぶ異なる。

もとを正せば「個性化の過程(process of individuation)」という、個人が他の誰でもない「自分自身になっていくこころのプロセス」を指した言葉であった。それがアメリカに渡っていつの頃からか「自己実現(self realization)」という言葉に成り代わり、やがて日本語としても定着したようだ。

これはアメリカン・ドリームというような直線的な成功主義とでも言ったらいいようなアメリカらしい語彙の変質と思える。先にも述べたように原初的な意味での「自己、実現」とは、意識的な努力によって富や名声を勝ち取るといったたぐいのものとは一線を画する概念である。

元にかえって個性化の過程といった場合、それは本当の意味での「個性」を確立するために、危険を顧みないでこころの深層に向かって掘り進んでいく、という極めて内的な修養的活動を意味する。

これは生を充実させることで死を豊かにしようとする、宗教行為の原型にも通じるものである。さらに言えばこころの奥底から湧出する純度の高い生命の要求に従って自分自身になっていく、「人格の変容と成長の途上」に重きを置く厳粛な態度とも言える。

ここで留意すべき点は個人が人格の変容と成長に向かって行くこころの動きは、必ずしも現状の社会に認知されるような普遍的価値観に則しているとは限らない、ということである。というよりは、むしろ一般に共有される成功の概念や社会的価値観に離反する形で「個性化」は現れることの方がずっと多いように思う。

現代的には「不登校」などがその典型ともいえそうだが、またこれを安易な見立てで「不登校=個性化」とみなして、無条件に「よしよし、」と容認するような態度は戒めるできである

多くの場合、個性化には長い道のりと独特の苦痛を伴う。子供が真の個性化の道を歩むには当然のことながら周囲の関係者(多くは保護者や養育者といった親族や教師、あるいは級友など)を巻き込みつつ、その葛藤を共有する人たちの惜しみない共感と協力が不可欠だからである。

少し脱線したが、よく考えれば現世で財を成すことや社会的な成功を収めるという行為はそもそもが他人の作った価値観に依拠するものである。生まれてきた子供が「俺は大臣になるぞ」とか「他を押しのけてでも成功するのだ」などとは言わないもので、野口整体でいうところの「裡の要求」に即した子供の生活というのは極めて恬澹としたものである。大人はこうした子供の在り様から学べることは多い。

人間といえど一生物である以上、本源的には「ただ生きる」という要求が在るのみなのである。それも分解すると種族保存の要求と自己保存の要求にわけられるが、要約すればそれは子孫を創造することと、そのために毎日食べていくことになる。

さまざまな欲求をずっと根本まで遡っていくと、究極的には花と団子しかないのが人間なのである。

そこに個人的な(個体独自の)感受性傾向というものが反映されて、まさしく独自の人生が展開されていくことが「自然な」生の営みではないだろうか。

ところが実際問題人として生きていくためには、個人的な感受性や欲求に基づいた生き方「だけ」を前面に押し出していく訳にもいかず、必ず外界(当世の価値観や宗教的な教義、政治思想など)との親和性を要求される。そうして当人は自身の内的な欲求と外的価値観の狭間で呻吟しながら生きることを強いられるのが常である。

そこで自分の裡から湧き上がってくる情動とすっぱり縁を切って(そのようなことはできないのだが、そのような「つもり」で)、外界適応に徹して生きる道を選べば一面的には安定を実感することだでき、まっとうに生きることができるかのようにも思われる。

しかしながら生きた人間というのは科学者が論じる非人間的な人間とは異なるものである。実際は感情をはじめ多様なこころをもった生体であるために、外界適応に徹し過ぎたあまり、意識との連絡を絶たれたことで積りに積もった「裡なる声」の反逆ともいえるような(ある意味で治癒的なはたらきとも考えられる)症状が現れることがある。

ノイローゼなどはこうした内的な無声の声が自我を圧迫して起こる、非自覚的な葛藤状態といってよいように思う。

いわば自己実現がはじまる一歩手前で逡巡している「待ち」の時期であり、自身の無意識の活動に畏れ、足踏みしているような体勢ともとれる。

俗にいう「生みの苦しみ」などという言葉もこのようなこころの性質に照らし合わせて考えると、そのメカニズムとの整合性と相まって味わい深く理解されるのではないだろうか。

少し長くなったが以上の内容をもってしても、世間で期待されるほどに自己実現が全面的に「善い」ものではないことが想像できるのではないだろうか。

もちろん巨視的には善としての顔も持ち合わせてはいるだろうが、その実体は善悪を超越した破壊的創造性を発現するダイナミックな精神活動であることを心に留め置く必要はあるだろう。

さもなくば無意識の強大な力を前にした途端、急激に自我の安定性が脅かされて精神疾患の様相を呈するやもしれないし、あるいはそうした危険性をそれこそ無意識的に避けようとした結果、意識の枠内で浅薄な理想主義や成功哲学をあれこれ論じるだけの「自己実現ごっこ」に興じて終わる例も少なくはないのである。

後者の場合は比較的安全な自我の防衛手段ともいえそうだが、このようなものが真の自己啓発や心理療法としてひろく世間に認知されることは、現在苦悩の淵にある多くのクライエントの可能性を摩滅させることになりかねず、大変に惜しいことである(かといって、あまり「本モノ」が流布するのも問題かもしれないが)。

ホームページには上に書いた内容も踏まえつつ、もう少し射程を広げて書こうと模索している。自分の体験や臨床経験も織り交ぜて書くことになると思うので、少々客観性や信憑性は犠牲になるかもしれないが、人間のこころの成長モデルについて少し踏み込んだ内容にできたら面白いと思っている。