発病の原理

ガンになる遺伝子も、高血圧になる遺伝子も、人間は誰でも持っているのです。ガンの遺伝子を持っているというと非常に悪いイメージを抱くと思いますが、これらの遺伝子は何も病気を引き起こすことを目的としているわけではありません。身体にとって必要な遺伝子であり、細胞の中でおとなしく調和していれば、何も問題はありません。

ただ、それがなんらかの原因で一定水準を越えて増殖してしまうと、病気として現れてくるのです。(村上和雄著『スイッチ・オンの生き方』致知出版社 p.53)

西洋医療にみる難病・奇病について専門書をあらってみると、発病のメカニズムはわかっていても根本の原因についてはよくわからないことが多い。

「それが何らかの原因で」そうなる、と括られていることがほとんどだ。

本来なら原因がわからなければ対処のしようがないはずなのだが、病気の苦悩を目の当たりにするとどうしても表面的な症状の除去に流れて行ってしまう。

ところが医原病という言葉が示す通り、発症しているものを人為的にプッツリ止めてしまうことは生命の秩序を脅かす、危険な行為なのだ。

「病気は命を脅かす悪いもの」という固定的な観念が払拭されない限り、遺伝子工学の医療的発展は近々頭打ちになってしまう。

ボタンの掛け違いというよりも、袖を通す以前の間違いに気づいたうえで再出発が必要だ。

お釈迦様は「病気は衆生の良薬」と言ったそうだが、病気は生命保持の安全弁、時にこれが最後の砦ともなる。

疾病は調和を欠いて起こるのではない。

実際は人間的な精神活動の偏りを正すのが身体上の病であり、疾病そのものが自己の身心と外界との調和を恢復する働きなのである。

これを理性から出発した科学的処置によって自然の調和力に抵抗をしているのが、現代広く行われている「治療」の実体だ。

理性が過剰に働いているうちは、いのちの妙を感じることはできない。人の為すことは偽りであると知り、無為の力に目覚めよう。

そのためにむずかしい方法が要るのかというと、そんなことはない。ポカンとして身体の自然の動きに任せるという、それだけでいい。簡単な話なのでありがたみがないのだが、真理はいつも近すぎて見えない。逆に目を閉じた方が判るのではないか。