病気は怖いモノ

半年から一年くらい指導に通うと、「風邪を引きました」、「下痢をしました」といっても平然としている人が増えてくる。さらに少々の病気にはビクつかなくなる。それはそれである面進歩と言えるが、このくらいになると今度は逆の注意がいる。例えば「風邪の経過」一つとっても、それを理解し善用しようとすると、病気の複雑性がよく解るのだ。

実際は風邪くらい厄介なものはない。また操法しだして一番難しい病気は何かというと風邪です。今でも風邪というと体中を丁寧に調べて、それだけでは足りなくて、今度は過去の記録から何から全部調べて、それからこの風邪はどう経過するかということになるのです。それが判ってピタッと考えている通りに行くと、やっとその人の体に得心ができる。風邪で見間違えるようなうちは、まだその人の体を理解していない。
風邪を引くとたいてい体が整うのです。そうかといって高を括っていると悪くなる。けれども体をよく知っていくと、この風邪はこれこれこういうコースでここへ残るとか、ここに残ったものはこれを処理すれば治るとか、これこれこういうコースで体のこういう場所が良くなるというように予想して、ピッタリと間違いない。それもここ十年くらいのことで、それまではやはり掴まえ難かった。(野口晴哉著 『風邪の効用』 ちくま文庫 p.17-18)

一般に病気は怖い、また悪いものという固定観念でみているのが「常識」である。ところが「そうではない」、というのが野口整体の見識で、大抵はその独自の切り口に驚きと感銘を抱くところが整体の入り口だろう。そして最初は半信半疑のものも、しばらくして病気を自然経過した時の爽快感や体調の良さを味わうと、「なるほど」と思うのだ。野口晴哉の言った事は本当であると自身に確証を得る。

ところが先の引用のように「高を括っている」とやはり悪くなる面がある。初心の罠というか、ここを見落としやすい。下痢でも熱でもそうなのだが、時として体を整える働きとみなすが、その本質はやはり「処置を誤れば生命に関わる」破壊性を秘めているのだ。斯様に生兵法はおそろしい。

畢竟、病気は「怖さ」を内在しており、そしてその怖い中にも「有用性がある」と言うべきであろう。だからその病気という働きが「どうなっているのか?」と観つづけることで、その活かしようも見えてくるという話だ。「怖い」という見方も偏見なら、「怖くないのだ」というのもまた執らわれなのだ。野口整体は一切の依りかかりを奪い、本来の自由性の発現を促す。その依りかかるものが「思想」や「観念」であっても、それをお守り札として持っている以上は縛られ、自由性が減じる。

もとより「生命活動」とは無色・無臭、人間的な「はからい」から見たら何も意味などないのだ。ただ、そのことが、そのことして、ただその通りに働いている。それだけである。時に「精妙だ」などというのも一種の「見解」で、もともと息にも脈にも精妙など付いていない。本当に「何もない」のだ。野口整体では「その純粋な生命活動をそのまま味わう」という態度で身体感覚の発揚を謳う。「妄想を除かず真を求めず」で、求めなければまるごとそのままの自分である。病気だけを切り離して、「こちら」から「あちら」を見ている内は、怖い、怖くない、とっては絶えず自分に騙されるのだ。

実際「自分がどうなっているのか」。その見極めがつけば、病気がそのまま治癒である。〔今〕を見破ることだけが救いとなる。ただすごいのは、「病気は良いモノ、悪いモノ」などと何を考えていようがいのちはお構いなしなのだ。人類創生以来病気は病気として、生を全うさせ、消滅さることを繰り返してきた。もとより生命とは底が抜けているのだ。「人間的な」はからいで汲みつくせるようなものではない。だが頭の良い人はその知によって愚に陥り、「どうにかしよう」といっては、どうにもならない自身の命を右へやり、左へやっては喜んでいる。真に聡明な人はまさしく「任運自在」の境で、自身の生命に悠然とまたがり、ただ息をし、飯をくい、大小便をして、眠るのだ。

整体はこれから学ぶものでも、知るものでもない。自身の身心をもって、命の完全無欠を実証するのみである。ただの一度でいいから、「確かにそうだ、間違いない」ということを肯えれば、もう迷いの世界には戻れない。その瞬間から大安心の生活者であり、絶学無為の閑道人である。

水面の木