生類憐みの令

若者からはオジサンと呼ばれ、年長者からは若輩としてご叱正をいただく、私も不惑である。

そんなどっちつかずの微妙な齢を迎えたせいか、生来薄情だったワタクシでも近頃は少しばかり人情を感じるようになった、と思う。

具体的にはお会いする方々の日々頑張る姿に、敬意と慈しみの念を自然と抱くようになった。

たしか数学の岡潔先生の『春宵十話』に書いてあったと思うが、フランスの言い回しで「彼(彼女)はまだ、ものの憐れのわかる年ではない」というのがあるそうだ。

若さとは、ある種の「粗さ」を意味するのかもしれない。

20~30代は自分自身に対して鞭打つように生きていたせいか、人に対しても厳しかった。お客さんに対しても怒ってばかりいた気がする。

中にはそれが棒喝となって発奮材料になった人もいたかもしれないが、迷惑千万、要らぬお世話が過ぎたかもしれないと今になって反省もする。

とにかく、

人間、生きていればそれだけで立派である。

週5日会社に行くことも偉業だし、結婚することも子育ても、独身でありつづけることも素晴らしい。

ところが最近では、そんな程度のことはアタリマエで、自分はもっともっと頑張らねば立派でもなければ幸せでもないと思っている人のなんと多いことか。

人は何もそんな飛び抜けたことをしなくてもイイのである。普通のことを6~7割のレベルで日々行えば、それなりの糧を得られるし、人様のお役にも十分立てるはずではないか。

なんにせよ近頃は何故かはわからないが、いのちに対する憐憫ともとれる情が沸きやすい。

まさか死が近いわけでもなかろうが‥。まあ、わかりませんが。トイイツツ((。。))禁点をゴソゴソ‥

ともかく人間に関していえば、どんなに愛そうと憎くもうと100年経ったらあなたも私もこの世にはいない。それだけが確かなことである。

そうなのだから、やっぱり「いのち」はお互いに大事にすべきだ。

お互いに元気を与えあって、供に生きていくことを学ぶべきだと、やっとそう思えるようになってきた。