治ると治すの違い

治ると治すの違い

だから治すということは病気を治すのではなくて、病気の経過を邪魔しないように、スムーズに経過できるように、体の要処要処の異常を調整し、体を整えて経過を待つというのが順序です。

最近の病気に対する考え方は、病気の恐いことだけ考えて、病気でさえあれば何でも治してしまわなくてはならない、しかも早く治してしまわなければならないと考えられ、人間が生きて行く上での体全体の動き、或は体の自然というものを無視している。仕事のために早く治す、何々をするために急いで下痢を止めるというようなことばかりやっているので、体の自然のバランスというものがだんだん失われ、風邪をスムーズに経過し難い人が多くなってきました。しかし愉気法をやって何回か風邪を経過すると、その都度に非常に早く経過するようになり、簡単な変化で風邪を引き、風邪を引くと同時に、或る場所を愉気してもらいたい要求が出てきて、そこを愉気すると皆早く抜ける。だんだんに風邪の宵越しをしなくなるようになっていくわけですが、愉気法以外の方法では、風邪を治した治したとい言う度に、だんだん風邪の経過に鈍くなり、風邪を引いた後も疲れが抜けないのです。愉気法をやると疲れが抜けて体がサッパリし、方々の弾力性が恢復するのに、それが起こってこない。だから同じ経過をしたといっても、自然に治ったというのと、治したというのではかなり違うようです。従って早く治せばいいという考えだけで病気に処することは、別の考え方からいえば、寿命を削る行為ともいえると思うのです。

早く治すというのがよいのではない。遅く治るというのがよいのでもない。その体にとって自然の経過を通ることが望ましい、できれば、早く経過できるような敏感な体の状態を保つことが望ましいのであって、体の弾力性というものから人間の体を考えていきますと、風邪は弾力性を恢復させる機会になります。不意に偶然に重い病気になるというようなのは、体が鈍って弾力性を欠いた結果に他ならない。体を丁寧に見ていると、風邪は決して恐くないのです。(野口晴哉著 『風邪の効用』 ちくま文庫 pp.40-42)

手を当てて(愉気によって)子供の風邪が治ったというとやはり巷ではおどろかれる。一般の方の価値観(常識)というのは、定期的に自分の立ち位置の特殊性を教えてくれるものだ。自分の場合は28歳から整体をやり始めてちょうど十年だが、以来、目薬を差したことがあったが(それも半強制的に)、その他は薬を使ったためしがない。こんなものは自慢でもなければ誇るような話でもない。ただただ天然自然の妙に敬服するばかりである。

しかしながら、愉気(手当て)で治ったということになると、今度は「薬」から「手」の方に信が移りやすい。いわゆる超能力崇拝とか聖人信仰の軽度のものだ。ところが手を当てて治るようなものは、実は手を当てなくても治るのである。それどころか、生きているものはみんな治ってしまう。ただし手の施し方によって、治り方がちがう。プロセス・イコール、結果なのだ。

もとより自然というのは至高のものである。ところが「人間に於ける自然とは何か」と考えると、ただ与えられたままの自然では力にならない。人為の中に無為の自然が現れるように訓練するのである。端的に言えばそれは活元運動だが、日常の中でいつでもどこでも活元運動が発動している人が愉気をする資格を有する人だ。実際にそこまではむずかしいので、手を当てる時くらいは自然に対する信頼の心が現れるようにしたい。それには体験を通じて、自らの自然生命に目覚める以外にない。

もとより身体上の現象にこれから治すようなものは一つもないのだ。痛いといった時にはもう治り始めている。病気と治癒は一つの現象の2つの側面なのである。これが解らないうちは本当の愉気はできない。それでもできないなりにやっていると、或る時にぱっと愉気になっていることがある。「やっている」ものが消えると、人間的な作為や造作がなくなる。その時すべてが上手くいく。雑念で見えなくなっていた秩序がふいに現れるのだ。これを古人は「妄息めば、寂生ず(もうやめば、じゃくしょうず)」と示された。治そうというものが消えたとき、すでに治っているものが出てくる。生命とは須らく任運自在の境に浮かんでいるものなのだ。