手を着けない

「整体」というのは、一つの完成形だ。「整っている」ということがどういう状態を指すのか、個人で研鑚すべき処である。

道元禅師の有名な言葉に「仏道をならふというふは、自己をならふなり」というのがある。「自分という活動体が一体どうなっているのか」がわかれば、この世のあらゆる問題事は「今、この場」で決着がつくようになっている。

これを「健康」という観点から言えば「腰の調子が悪い」、「病気がなかなか治らない」という所が自己探求の入り口になるのだが、「治そう治そう・・」といじくりまわしている間は既に治っているはたらきが見えないのだ。

言ってみれば一番高尚な方法は、手を着けないということになる。ところがそう聞くと途端に「手を着けない」という着手がはじまる。

自然経過というのは、こちらから何かをして「経過をさせる」訳ではない。何もせずに経過させられるように、心胆を練っていく。人間にはそれができるようになるための訓練が要るのだ。

本来自然であるはずの人間が、活元運動を修るのはそのためである。自然を信じきれないうちはつい手を着けたくなるけれども、その疑念や、心配する心の働きにもやはり自然の相がある。

健康とはこれから工夫を費やして作るものではない。着眼を正せば、いつでもそこにあらわれる。理性の完全休止、ポカンとすることを解くのはそのためなのだ。その着眼、着手と離れれば、既に解脱の境となる。

斯様に自然というのは、はじめから、誰にも等しく与えられている。この世には、これからなるようなものは一つもない。〔今〕に信が及べば、それでいい。信じようと信じまいと、人間は本来無事なのである。