感応道交

だから“胃袋を治すにはどうしたらいいか”と訊かれても、私は、胃袋など観ていない、気のつかえを観ているのです。気のつかえを通るようにする、鬱散するようにする、足りない処には巡るようにする。私の観ているのは気だけなのです。レントゲン写真を撮ったら、こんなふうに曲がっていたとか、こんなふうに影が出ていたとか言っても、それは物の世界の問題なのです。気の感応が気で通れば、どんなに曲がっていても真直ぐになるのです。頭の中の細胞がああなっている、こうなっているといっても、そんなことは問題ではないのです。

手を当ててよくなるものはよくなるが、よくならない感じのするものもあります。それは気の停滞、つかえなのです。つかえて気が動かなくなってしまうと、冷たく感じるのです。冷たく感じられた場合はもう駄目です。そうでなければみんなよくなってきます。だから体に現れて、物として動くのはそのあとのことなのです。自分に必要な物は気が集めるのです。そして体をつくっていくのです。だから体を無理に治す必要はないのです。つかえが取れれば整っていくのです。必要な物があれば集めてくるのです。生まれたときから、いや、お腹の中にいるときからそれをやっています。自分の体は、そういう力がそうやってつくってきたのです。(野口晴哉著 『整体法の基礎』 全生社 pp.39-40)

「気」を意識的に観るようになってから、この数日視界が開けた気がしている。一時期は「気」みたいな漠としたものは観察の対象から外していたけれども、最初に全体の雰囲気を観たうえで、そこから「勢い」の出るように誘導していく視点は大切だ。

ただし「気を観る」といっても、身体を観ていることには変わりはない。自分の場合は目に見えないものが見えるわけではないので、やっぱりこれまでと同じ様に物理的に身体を観ているのだ。

ところが人の関心の置きどころというのは面白いもので、体に関心を持てば体の形が見えるし、心に関心を持てば心の状態が捉えられる。気に関心を持てば、やはりその人の雰囲気とか勢いがダイレクトに感じられる。

最終的に「気力」とか「勢い」さえ出てくれば、どんなものも乗り越えられるのだ。是非善悪を超えたところで、とにかく「俺はやれそうだ」という「気」にさえなればいい。漠とした観念論のようだが、その一方で人間の「意欲」も「ガッツ」も物理的な体勢が精神に反映された結果である。因みにガッツ(guts)とは「はらわた」という意味でもあるらしい。

気と身体というのはちょうど、水とコップのような関係にも見える。器が四角なら水も四角になる。同じ様に、円なら円に、瓢箪に入れれば瓢箪の形になる。当り前だが水ばかりいくらこねくり回そうとしても整えることはできない。目に見えないものも、見えるものも、扱う時には同じ一つのモノなのだ。

実際の臨床では気とか身体とか心とか、どこかに固定的な視点がある訳ではない。集中状態にある時を後から想い浮かべると、見ている自分も対象となる相手もいない。一緒になって何かが動いているような状態だ。感応道交という言葉があるけれども、こういう状態をいうのかなと思った。