学ぶ力 要求する力

野口 人間が生きているというのは、自分の裡の力で生きているんです。健康を保つのも自分の力、人に治して貰っているように見えても自分の力、だからその一番最終に、丈夫に生きたい要求がなければ丈夫にならないんです。自分の感じた要求を実現しようとしている時は、体の中に力が入っているんです。

中川 そう、そういう風にして僕なんかも勉強してきましたね。僕はもう、教わったということないんです。学校に行って教わったり、先生について教わったことがないんです。教わるということは、目を塞がれちゃうんですよ、下手な教わり方したら。自分の要求でもって、人から取ることがあれば取ればいい。人から与えられていたんじゃ駄目なんです。こっちから取ればいいんです。そういう考えでやってきたのはよかったと思うんです。(『月刊全生 増刊号』 中川一政×野口晴哉 対談より)

いま一歳半の子供の活動をみながら、人間の「学び」に因んでつらつら書いています。昔から「まねる」、「まねぶ」、「まなぶ」と言い替えたりします。だから学びの根本は「模倣」なんですね。だから、最初に自分が「どうありたいか」という方向性のもとに、「必要なモノ」だけを身に付けて行けばいいと思うのです。要らないものまで、「あれもいるかもしれない」、「これもあったほうがいい」、とやっていくとだんだん「自分」が重たくなってくる。それは不安から出発して持ち物を増やしているだけで、無駄な重量でしょうから。また、他人の老婆心でいろいろ教えられることも多いから、「これは何のためにやっているのか」、「どこで役に立つのか」、という感受性がくもらないように気を付けなければならないでしょうね。

それこそ現代型の教育で「目を塞がれて」しまって、それからから学ぼうとするとどうしても与えられたものを鵜呑みにしてしまったり、今現実に困っているのに誰かが教えてくれるまで待ってしまったり、そういう受け身の学びになってしまう。最初に自発性を削がれてしまうと、やっぱり自然の力として伸びていく「勢い」を失ってしまうのかもしれない。

そうすると、学びや教育の「要」というのは如何に潜在的な自発性を煥発できるか、ということになるのでしょうか。人間ですから、誰でも最初に要求があるんです。必ず。それが良いとか悪いとかって言うのは、その後の持っていきようでどうにでもなるんです。また、「要求」そのものは教われません。ただし自然に要求が現れる「身体性」を育てていくのは、ある面で他動的にやれなくもない。整体指導というのは本来、個人の要求の発動、実現のためだけに行うもの、といっていいのでしょう。

やはり整体の仕事をしていてやりずらいなと思うのは、「何に向かって全力発揮したらいいのかがわからない人」です。だから要求が現れる身体というのをまず考える必要があるのでしょうね。脱力して、頭もゆるめば、「狭い合理性」から自由になったその人本来の感受性が出て来ますから。そちらの方がしっかりしてくれば「元気」とか、「体力」というのは、もうどうにでもなるとも言えなくもない。だからそちらの方をもっと研鑚していく必要があるのでしょう。こうやって考えていくと、ますます「治療」なんていらないんじゃないかと思うんですね。