原始の心

ただ自分の命というものは、非常に大切なもので、死ぬということは大変なことである。唯一絶対の生命である。
大切な大切な生命である。その生命をおろそかにすることは最も愚かなことである。(吉田弘著 『手の妙用―大自然の治癒力―』 東明社 p.62)

整体の技術は愉気にはじまり、愉気におわる。「ただ手を当てる」という行為を技にまで昇華させたのが整体だ。

その根本は、自分の命と同じように他者の生命を大切にする態度である。たったこれだけの、本当に「あたりまえ」のことが希薄になっているのが現代という時代ではなかろうか。

人間の進歩を思う時に、この「共存共栄」という原始感覚を基礎としない活動は、先に進めば進むほど人間の世の中を先細りにし、また不安定にしていく。「手当て」はこれに対するアンチそのものだ。

古来から「手を当てる」行為というのは、何度も何度も注目されては消えていった。近年その効能の一部に科学的根拠が認められたことから、特定の分野では継続的に行われている。

教室で愉気法を行なう方を見ていると、人間が人間を慈しんだり大事にしようという行為は、その形に美しさが現れるものだと感じるものだ。

本来ならば「手当てを習う」というのも、滑稽な話かもしれない。人間が原始感覚を取り戻せば、整体操法も愉気の講習会も要らなくなるのだ。痛いところがあれば、すっと手が行く。これは万国共通の身体感覚なのだから。

しかしこれがなかなか容易でないのも事実だ。地球上で唯一人間だけが、「自然」を会得するための後天的な訓練を要する。少し変わった、面白い生き物だと思うのだが、野口整体の存在意義はここにある。

一人の人が命の大切さに目覚めることは大きなことだ。愉気がそのきっかけとなれば、こんな嬉しいことはない。「訓練」してこれからできるようになるわけではない。すでにあるものに「気づき」これを自在に使っていく。

その気づきのために訓練がいるのだが、訓練している姿が即実証なのだ。ただ手を当てればそれでいいのだから。ということで、何卒実践をよろしく。