分けてしまったら判らないもの

健康生活の原理と言っても、栄養をどう摂れとか、睡眠は何時間とれとか、ということではありません。体と体の使い方の問題だけであります。体の問題と言っても、胃袋がどうなるとか、肺がどうなるとか、心臓がどう脈をうつとか、というようなことではありません。そういうような医学的な面での体のことは、皆さんの方がよくご存知だと思うからであります。

 私がお話するのは、いままでの学問的な考え方だけでは考えきれない体の問題なのであります。私たちの胸の中に肺臓と心臓があるということはどなたもご存じですが、それを動かしているある働きがあることには気がつかないでいる。例えば、恋愛をすれば食事がおいしくなるし、好きな人に出会えば心臓が高鳴ってくるが、借金をしていると食事もまずいし、顔色も悪くなってくる。このように恋愛とか借金とかいうものによって生じてくるある働きと、肺臓とか心臓とかいうものが関係ないとはいえない。ところが胸の中を解剖してみても、レントゲンでいくら探してみても、そういうものは出てこない。だから人間の生活の中には解剖してしまったら判らない、また胃袋とか心臓とかいうように分けてしまったら判らないものがある。電報一本で、途端に酒の酔いが醒めてしまうこともありますが、どういうわけで醒めるのか判らない。その判らないもののほうが、却って人間が健康に生きて行くということに大きな働きを持っているのです。(野口晴哉著 『健康生活の原理』全生社 pp.3-4)

これは野口先生が最後に出されたご本、『健康生活の原理 活元運動のすすめ』の冒頭です。

かつて心理学者の河合隼雄さんは欧米人に「魂とは何ですか?」と問われた時に、「本来分けられないものを無理やり分けた時に消えてしまうもの」と答えたそうなのだ。ああ、成る程なと思う。そう言う風に、分けてしまったら判らないものが確かに実在して、それが絶えず命を保っている。そしてどんなに発達した治療技術でも、その「ある働き」という大前提の上に成り立っているのだ。具体的に言うと、血が出れば、その血が固まって止血する。その下に皮膚ができると、あとは何もしなくてもぽろぽろ落ちる。また、水をかぶれば、体温が上がる。暑ければ汗が出る。一体「何」がそうしているのか判らないけれども、生命にはそうやって平衡を保つ力が絶えず働いている。そしてこの力は生きている限り働き続けて、また誰にも止められないものだ。

現代の多くの治療法や健康法の中には、この平衡の力を無視したものが含まれている。健康法という言葉の影には「不健康」という健康の失われた状態を匂わせているのだ。ところがよく見ると、その不健康とか病気とか言われる状態の中にもその「ある働き」は厳然として失われていない。野口先生が徹頭徹尾説いたのは、その「ある働き」の自覚と発揚であった。先覚者とは斯くいうものである。時にそれを「気」と言い、またある時は「錐体外路系」とも言い、また「命」と言ったり、「天行健」と言ったりと言葉にして切り出すと、日本語だけでも複数ある。ただそういう言葉で掴まえるずっと以前から、人間もその他の生命もこのある働きに依拠して活動してきた。「不変を以て万変に応ず」という言葉もあるが、物の世界がどんなに移り変わっても、この生命の平衡要求というのは変わらないのだ。

さて、ではこのある働きの自覚と言うにはどうすればいいのか。経験的にこれを人に感得していただくことの難しさを味わってきた。いわゆる多勢に無勢で、健康や病気と言うものに対する情報量が圧倒的に違うのだ。ほとんどのものは外から補ったり、付け足したり、庇ったり、鍛えたりするものばかりで、最初から命に対する不信を育てることに余念がない。スタートにもう「一線」が引かれているものだから、どうしてもその線を跨いで、「現在地から目的地に向かう」という気配が抜けきらないのだ。そういう人は「今」と「健康」の間に必ず距離がある。これが多い。だけれども、一人一人を丁寧に見ると、誰一人そんな風にはなっていない。本人が何をどう考えていようと、生きているものは命を保つ方向だけに働いている。保つということが順に行われれば、やがて自然に死に至るのだ。本来なら「そのまま」とか「あたりまえ」ということには、苦を伴わないものである。

その「あたりまえ」の王様みたいなのは、「生きているものが死ぬ」ということだろう。その生老病死ということが肯えないことから、自然に背こうとし、その背くことが「治療」としてまかり通る。そしてその結果無益な煩労は増すばかりだ。野口整体をやると言った時には、先ず最初にこの着眼を正さなければならないのだ。愉気法、活元運動、整体操法と、形として整体であっても、内容を見るとまったく整体になっていないということが沢山ある。何ごとも「初心」、あるいは「着手」というものは後々の結果を決定づける大切なものである。「自分のいのちは今どうなっているのか?」、この近過ぎて見えない「健康生活の原理」を示すのが、こちらの最初の仕事であると同時に最後の目的とも言える。偏界曽て蔵さず。

2016桜