信仰の自由

朝から腹痛に苛まれた。いや、この2、3日の不摂生がたたったという話で、胃袋の優秀さには毎度のことながら感心してしまう。

夜まで何も食べずにいたら飲食には支障のない程度まで回復した。身体も軽い。今回はダイレクトな話だが、お腹に物を入れないというのは治癒力を高めるための一番手っ取り早い方法だ。

一節には、ヒトは6週間分のエネルギーを常時身体の中に溜めているそうな。だから一日、二日食べない程度なら、身体の中の滞ったエネルギーをひっかき回して刷新するきっかけになる。体内在庫の入れ替え、棚卸しのようなものだ。

「整体」を生きはじめてから「病症が身体を治している」というのは、年々歳々、体験を通じて実感が増す言葉である。整体指導をこれから受け始める方には、この意識の転換(常識からの離れ)が最初に求められるのだが、知識として理解できたとしても、心底切り替わるまでには早くても2~3年はかかるようだ。

当然そこまで続けられない方も大勢いるので、人が整体を選ぶのか、整体が人を選ぶのかは知らないけども、人生何を信ずるかで死に方も決まるなと思う。人間は最初に信じたものに優位性を見る習性がある様で、それが本当によければそのままでいいし、わるければやっぱりどこかで手放す必要があるのだ。

実際「信じる」というのはすごく人間臭い行為で、古来から「信仰」というものが自然界にはありえないような問題を、大小、さまざまに生んできた。「宗教はアヘン(麻薬)」という言葉もあるように、何かを「信じる」という態度は見る角度によっては敬虔なようだが、一方では自分自身の問題に生身でぶつかって行く気概を減じさせるものだ。

痛いときは痛いし、苦しいときは苦しい。信じても信じなくても、命の働きはいつだって、そのことがそのこととして完璧に行なわれているではないか。そこで人間の作った「観念」の方を信じるか、それ以前の「実体」の方から学ぶのか、いつでもその選択の自由性が与えられている。あとは、平たく言えば当人の好みの問題で、何を信じるかはその人の「質」によるものだと思う。