人間の中にある自然の心

言葉では潜在意識教育を説きながら、自分自身の心の全体性をどれくらい自由に使ているかというと疑問に思うことが増えてきた。整体指導の場ではよく対話をするけど、仕事として行う以上は日常会話と同じようなものではだめだなと思う。あたりまえなんだけど・・。

「説明」とか「説得」で促されたものは意識的に「そうですよね」と納得できても、腹の底では「でもやっぱり・・」と言っていたりするので身体が変わっていかないのだ。ましてや押しつけられたような考えでは反発しか生まれない。だからお腹の底まで変わっていくように心も体もを誘導する力が必要なのだろうな。

人間の潜在意識は、抑えられると飛び出したくなる。認められて、受け入れられるとその要求は消えてしまう。大まかにいえばたったこれだけの構造なのだ。ここが公に理解されるだけでも、世の中に遍満する余分な軋轢は相当に減るだろうなと思う。「理解」まで行かなくても、「そうなんだよ」と知らされるだけても、人間を無駄に縛るような枷は大分減るんじゃなかろうか。

自分で自分の中に「悪」とか「不善」を作りだして、それを縛り付けている間は本当の全力発揮はできないのだ。ブレーキを踏みながらアクセルを踏むことの非合理性は誰もがわかるのだけど、こういうことを「努力」と表現されるだけで、ちょうど杖か浮袋にでもしがみ付くようにそれを掴んで手放せなくなることもままある。

人間が本当に力を発揮できるのは、「自発的に興味をもったこと」なのだ。自分自身の「氣」の集中・分散の波にうまく乗ればそれが一番自然に物事が運ぶ。早くもなく、遅くもなく、早くても、遅くても、それぞれが中庸という波の間に流れていってどこにもぶつからない。「任運自在」という言葉があるけれど、人間がその身体上に自然の相を現すには、やはり人為とも無為ともつかない、その両方が混ざり合ったような訓練がいると思う。

活元運動はそういう人間と自然を矛盾なくつないでいける方法だ。「ポカンとする=理性の完全休止=自然との親和」という図式なんだけど、自分にとってもこれは仮説なので、これを見極めるために自分自身の生き方で確かめて行きたい。もとより人にやってもらって納得いくよう世界ではないので、用のある人だけが実践して、自分の中の「自然」を見極めればそれでいいのだ。

整体は人間に内在する「自然」を紡ぎ出していくような行為で、簡単なように見えるけど人間にとっての自然てどんな状態か考えると容易でない気もする。でもどんなに時代が変わっても、生きている間に自分の心の力を掘り起こせるような「体育」が必要なのだ。人間の全力発揮を可能にしよう、というのが本当に役に立つ「教育」だと思う。内在する力をいかに発揮させるか、という所にの人間生命の醍醐味はあるのだ。