人は変われる

昨日さらっと取り扱ってしまったけど、「人間は変われるのか」という話は心理療法の急所だった。整体の潜在意識教育でも、「人格の変容・成長」はその人が本当の意味で「治るか治らないか」をわける分岐になる所でもある。今日はまずいろいろしゃべる前に、河合隼雄さんの『心理療法序説』から引用してみます。

4 心理療法家の成長

心理療法を行なう上で、もっとも重要なのは「人間」としての治療者である。従がって、治療者は常に自分の成長ということを心に留めておかねばならないし、またそのようなことを考えざるを得ないように、クライエントがし向けてくれる、と言っていいだろう。クライエントは心理療法家にとっての教師である。

治療者の人間としての在り方といっても、いわゆる「人格高潔」などという理想像を掲げるつもりはない。しかし、ユングの言っている「個性化の過程」ということは参考になるだろう。まず、この世に生きてゆくために必要な強さをもつ自我をつくりあげ、その自我が自分の無意識に対して開かれており、自我と無意識との対決と相互作用を通じて、自分の意識を拡大・強化してゆく。無意識の創造性に身をゆだねつつ生きることは、相当な苦しみを伴うものであるが、それを回避せずに生きるのである。このことをクライエントに期待するのなら、治療者自身がその道を歩んでいなくては話にならない。(『心理療法序説』 岩波書店 p.282)

この先にいくと、心の成長や自己実現の実際について書かれています。長くなるのでそれはまた明日以降に引くことにして、この文脈から言えることはまず「人間は変わる(成長する)」可能性を内在させているということですね。「何をもって成長か」と考えると一言では括るのがむずかしいけれども、この場合は「自我と無意識との対決と相互作用を通じて、自分の意識を拡大・強化してゆく」過程を指す訳です。まちょっとむずかしいので分解してみます。

「自我」というのは生まれてから(あるいは受胎前から)〔今〕までに作られた、かつての環境に適合する意識のことを指します。「無意識」というのはそういう表層的な意識ではなくずっと奥に隠れたようになっていて、全き人格へと向かう要求を備えているものですね。簡単に言うと「成長したい」、とか「もっと良い人格になって存分に生きたい」という意欲の水源みたいなものでしょうか。

ただ考えてみると、人間の活動を広く見渡した時に、成長欲求とか、自己実現の要求を伴っていないものはないと思います。と言うことは、人格の変化というのは「整体指導」とか、「心理療法」とかいう限られた場所だけで行われる「特殊」なものではなくて、多くの方に日々展開されている「日常」の中で絶えず微量に繰り返されていると言っていいのかもしれません。

では「整体指導の役割って何?」というと、その「成長」を、他力を伴ってより積極的に主体性をもって行うということ、と言えるでしょう。整体のとっかかりとしては「病気」、というのが鍵になることが多いのだけど、この病気というのを西洋医療では「命を脅かす可能性をもった活動であり、人体上から速やかに排除すべきもの」としか見ない訳です(大まかに言えば)。ところが野口先生という方は「これは生命の全体性から見れば、むしろ積極的に平衡を保とうとする大切な働きである」と看破した。「病気が生命維持に貢献している」という、いわゆる「コペルニクス的転回」みたいなものですね。それも子供の直観的に、生命活動の真相を徹見した訳です。

そしてこれと同じ見方をユングもしていた。それもほぼ同時代のことです。河合さんは別の著書で「人が治るということは、本来しんどいことなんです。」と言っていますけど、つまりそれは病的な痛みとか、不快感にも広げてみることが出来る考え方です。痛いから、〔今〕治っている、ということですね。さらさらさらと横滑りで話の焦点がずれてしまったが、とにかく「人は変われる」、あるいは良くも悪くも「変わっていってしまう」、ずーっと同じなどとということはありえない、と。こういうところで一応の昨日の疑念に対する着地点までは来た気がする。ここから面白い話になるのだけど、今日は早めにパソコン閉じて休みます。つづきはまた明日。^^