世界の中心は

そのむかし蒋介石を相手にせずといった政治家がいたが、コロナの相手もそろそろ飽きてきた。

いやもとより相手にはしてないんだけど、世相が右往左往するもんだから何をするにも不便である。

余談になるけども、この状況に小さいころ雪の日に父の車で出かけた時のことを思い出す。その当時たまたま車が4WDだったので自分たちは雪の弊を受けないのだが、次第に前後の車が動けなくなり結局坂道で立ち往生したのであった。その時母が「ウチだけ四駆でも周りが動けなきゃしょうがないね‥」と言ったのが妙に印象に残っている。

これと同じ原理で誤った衛生観念が盤踞するかぎり、自分一人楽土を歩むことはゆるされないことを今更ながらに痛感した。

与えられた状況で困る困らないは依然自分の勝手なのだが、現実問題、周辺の施設は閉鎖するし、マスクと手洗いを無言で迫る風潮にもそろそろ飽きてきた。

見ているとこうした社会倫理に疑念と違和感を持つ人は少なくないようだ。その証拠に某夫人が外で会食をしたというだけで批難が殺到した。民間でも休日にあそこの公園に大勢人がいた、不謹慎だ病気が蔓延したらどうするのか、と直接言うならまだしも後でポータルサイトのコメント欄やSNSに匿名で告げ口をしあう始末である。

言わずもがなだがこれらは「私だって我慢しているのに」という不満の投影に他ならない。雨の日に閉じ込められた子供が、体力を持て余したあげく陰気になって「○○ちゃんが○○してたよ!」と告げ口をしあうのと同じ原理で、これはこれで健全な生理現象と見るべきである。

したがってそういう行為に走る個人をいちいち取り上げても益なく、非効率である。もう少し因果的な視点で問題の根幹に目を向けると、そもそもが人間をそんな卑小で陰惨な姿におとしめているのは何かということになる。それは取りも直さず、現代の誤った衛生知識じゃないか。

ではその衛生を生み出したものは何か。それは外界探求を根本的欲求に据える自然科学のパラダイムである。さらにその科学を生み出したのは西洋思想の源泉ともいえる、自他分離の観念、我と彼とを真っ二つに分ける二元論である。

俺が俺が、という我。その「我」の境界線をどこに引くか。それこそが大問題なのである。その線をちょっと引き間違えただけで、時に何万という人間を一瞬で死に至らしめる蛮行まで生ずる。まあこの話は少々長くなるのでまた機会をあらためるとして‥。

本来健康に生きる道というのは本人も周りも楽しく生きて、元気よく互いの生の発展を感じさせるもの、お互いが生きているということに快を感じさせるものでなければならないはずである。

ところが現状は真逆であり、ちりぢりに分断された個人が憤懣やるかたなく息を詰まらせている。そうして遠くからお互いの自由でありたい要求を監視し合い、にらみ合い、突つき合う始末である。屈辱だ。むろん全ての人がこうでないことはわかっているけれども、少なからずこういう不健康な衛生観念が巾をきかせるような行き方が本当に人間の進歩なのだろうかと問いたい。

誰も彼もが何か妙だ、おかしい、と無意識では今の衛生観念の欺瞞を看破しているのに、もう一つそこに信が持てないのだろう。もしくは他に良案が思い浮かばないので、仕方なく現状の在り方につき従っているのかもしれない。そこは「カガク的」という言葉の魔力である。

無論中には長いものには巻かれろ式、事なかれ主義もあるだろう。加えて全体の意向を尊重し和を乱さないようにする日本的美徳とも相まって、多くの人が「今」という自由性を見失っている。

そもそもが病菌なんて人類発生以前からいたるところにいる。それをマスクをした、手を洗った、換気をしたからどうなるというのか。今だって無数に体に付着し、鼻からも口からもどしどし侵入しているのが真実である。無菌状態なんてどこの自然界のどこにも存在しない。

それこそ団子を一つ、刺身を一切れ食べたってそこに何万という雑菌がいる。そう考えていくと煮炊きしないものをそのまま口に入れるのは恐ろしいことである。それなら煮沸・滅菌という観念に囚われて、饅頭を茶漬けにしないと食えなくなった医者に範を求めるべきではないか。

しかし真実はいつも事実に現れるもので、その雑菌だらけの中で生活しながらケロッと生きているのが人間の実態である。たとえ当人が頭の中で病菌よウィルスよと震え上がっていても、残念ながら体の方にその必要がなければ何ら発症しない。錐体外路系の働きによるものである。

よしんば発症したところで、人々が病気よ、病魔よと怖れるそのはたらきは何のことはない単なる人体の抵抗作用なのである。咳くしゃみに始まり、発熱から下痢にいたるまで、病症とはすなわち身体の偏りを正し、正常な状態に返ろうとする生体の安全弁であることをおのおのが自覚せねばならない。

この大宇宙の生命は須らく一蓮托生であり、それはある一つの合目的性を有している。身体に必要があるときに周辺の生命体と協力して、鬱滞したエネルギーを振作し抵抗作用を発症する。これが病気と呼ばれる現象の正体である。

このはたらきによって古くなった組織は破壊され、偏った骨格もその発熱によって暫時正される。のみならず、体内に残留する不要な老廃物は下痢、小便、発汗、鼻水といったもろもろの排泄作用によってみんな体外に出されてしまう。

言わばこの新陳代謝の作用によって生きた体は絶えず刷新され、生を全うする道もこのはたらきによってはじめて開かれるのである。たった今もそうやって内外の環境に適合する身心を創造しつづけているではないか。破壊と創造とは別々に存在する真逆の作用ではなく、健全に生きようとする生命現象の両側面に過ぎなかったのである。

ところが全体から分断された局所的知識に囚われると、病症は死を近づけるだけの破壊作用にしか見えなくなっていく。そうしてこれを駆逐することが人類が生き延びるための唯一の道と錯覚し、カガク者を旗手として人類はあらぬ方向に驀進してきたのである。

やがて人間を活かすために追い続けた医学の知識は、気づけば病気を地球の主人とし、人間を病気の機嫌を伺いながら息を殺して生活する召使いにしてしまった。そうして病気の隙間を見つけては、人間がこそこそ怯えて歩く世界に染まりつつある。

ある人は言う。「でも現実に病気で死ぬではないか」と。確かに人は病気で死ぬのかもしれない。なるほど癌も怖いかもしれない。風邪も肺炎も怖いものかもしれない。しかしその人は病気にならなかったら死ななかったのだろうか。

そもそも病気を乗り越える体力や気力がなかったとは言えないだろうか。もしかしたら、病気を怖れる余りもちまえの抵抗力が委縮し、その恐怖心のために死んだのではないだろうか。

あるいは病気を治そうと焦り、処置を誤ったがために自然の経過を乱し、死ななくていいものを人為的に死に至らしめたのではないと、どうして言い切れるだろうか。もしそうだとすれば、果たしてそれは「病気で死んだ」と言えるだろうか。

また別な視点で考えても、風邪をこじらせて重症化するような鈍った体を作ったのは一体誰か。癌を作るような冷たい体のまま放置して鈍重な生活を繰り返していたのは一体誰の責任であろうか。

本来病気を必要とする体というものは、甲の病気を避ければすぐさま乙の病気に罹るようにできている。そういう偏り鈍った身体を正すことをまず考えるべきではないだろうか。

生まれたときはみな敏感で弾力のある身体をしていたのである。それをせっせと50年かけて、癌を作るような冷たく固い身体を育ててしまうずさんな態度や文明の在り方をわずかでもいいから正して行く、そういう道を開拓することはできないだろうか。

またある人は「病気を怖れず人々の接触を再開させろ」という。その論は結構だが、理由を問うと経済を回すためだという。

これもやはり金が主人になって人間を生かしているようである。病菌に追われて生きているのも妙だが、金に人間が生かされているような考えもやはりおかしい。人間が活発に生きているからこそ金も金としての価値が生ずるのであって、人間に力がなくば金もただの紙切れと数字になってしまう。だからこの論にもやはり主格顛倒は否めない。

経済のためではなく人間が主体を取り戻し元気よく生きるために、ありもしない不安を生み出し流行らせる行為はもうやめよと言いたい。

生命はみな一つの宇宙秩序ともいえる合目的性に向かって共存共栄しているのである。この事実を一人一人が本当に覚らねばならない時代がもう既に近づきつつある。

そのために何をすべきか。それは先ずもってみんな自分のいのちに自信を持たなきゃいけない。自分のいのちとは何か。それをまさか5、6尺の肉体と、せいぜい7、80年の寿命をもって我が「いのち」と思ったら大間違いである。

「自分」とは皮膚の皮一枚で外界と分断され、孤立した生命体と思っては誤りである。実際その自分を保っていくためには体内に水も米も魚も野菜も通過させなければならない。いやオレは魚は食わん、肉を食ったら残酷だという者もいるかもしれないが、そんな者でも息をしなければ5分と命が持たない。

現実に自分の肉体以外のものと絶えず接触し、流通を続けなければ何も為すことができないのがこの個体生命というものである。

しかしいのちとは、そんな卑小なものではない。一体自分のいのちとはいつから始まったのか。オギャアと生まれ出た時か、それともへその緒を切ったときか、はたまた母の体に入ったときか、父の体内に精子ができたときか、いやその父母のそのまた両親の中にすでに自分のいのちはあったのか。それはカガク的な追及手段では永久に掴み得ないのである。自己の生命の本体は、自分で覚る以外に絶対に分からないのである。

そういう内なる教養を育む教えが今何よりも必要だ。本当に身体が整い、意識が静止したとき、そこに現前するいのち。それを悟らなければ眼前の不安が去ってもまた新たな材料を見つけては不安になる。その不安だ、不安だ、という意識をまず止めなきゃいけない。「妄止めば、寂生ず」である。

意識の活動水準を下げるためには頭で「意識を止めろ」といくら考えていたって埒が開かない。身体の筋という筋が全部緩まなければ、筋紡錘から絶えず脳へ信号が送られその働きを停止しないからである。そのために身体から余分な緊張を抜き去り、自ずから整うように誘い、その本来の働きに任せきって生きられるよう新たに訓練をする必要がある。

少し論に飛躍があったけれども、兎に角一人一人が意志をもって、自分というものがこの世界の中心であることを自覚すれば、その生命に対する信は今この瞬間から強固なものとなる。

この信を得ればいたずらに恐病の風潮に惑わされることもなく、世間に横行するあまたの世迷い事にももはや流されない、万難不屈の大丈夫に至る道もかくて開かれるのである。

答えはいつも我が身の内に在り、である。一人一人がそういう幸運に恵まれていることを自覚し、たゆまず参究すればやがて必ず流れ着く処がある。そこが世界の中心だ。

臨在は「赤肉団上に一無位の真人あり」と言い、永嘉は「絶学無為の閑道人」と言った。またトルストイは物質現象以前の存在、未来永劫に失われない内なる霊を悟り、その不滅を説いた。

どれも言葉が違うだけで意味する所は同じである。物質の世界がどう変化しようとも不滅の健全さと共にある自分、いや歪みようのない、侵されようのない自分というものが本来の自己である。

なるほど誰も彼もがひょこひょこ得られる心境ではないかもしれないが、一方では誰も彼もが今この瞬間に自覚しさえすれば、そこにそのまま現れる健康の人がある。

外の世界のあくたもくたに追われるあまり、くれぐれも掌中の珠を見逃さないでもらいたいと願う。かくいう自分もよくこれを見失うので、是非ともそのような生き方をという願心を日々新たにする今日この頃である。

そう考えれば目下の時勢も事上磨錬にちょうどいいかもしれない。今日もぼちぼち歩いて行こう。