一つ息に生きている

今日の午後はミツコが姉弟子さんの活元会に出かけたので、太郎丸と留守番になった。ミツコを横浜駅まで見送ったあとそごうに寄った。8階をうろうろしていたらベビー用品売り場を見つけて、タロマルが生まれたばかりの時にここで粉ミルクを買ったのを思い出した。もう1年以上前の話で、乳児期などあっという間に過ぎてしまった。

その当時はいろいろな方から、「今だけよ、今の時期を大切に過してね」というアドバイスをいただいていたのに、「そうなの・・?」と思っていた。のんきにしていたら、ホントに「そう」であった。歳月人を待たずとはよく言ったもので、「今」は獲って置けない。だからいいんだけどね。

気がつくと4月1日に開花した栗田谷の桜も、新緑が芽生えていた。今日は初夏の気配を感じたのだが、二十四節気でいうと昨日から「清明」ということになるそうな。昔の人の身体感覚では一年の中に沢山の季節を体感していたし、またその変化の頭を捉えて、春だ、夏だと感じていたと思うのだ。

かつて野口先生が育てた内弟子の中に、開花直前の梅の蕾を観て「梅が咲きました」と言って卒業を許された方がいたそうである。「見えて」からでは遅いということだろうか。「感じる」ということは認識のうんと手前にある世界で、整体指導ではもっぱらそちらの方に用がある。語録にはこんな言葉がある。

感ずる者の心では、感じない者の見る死んだ石もお月さまとして映る。
太陽も花も自分も、一つ息に生きている。
道ばたの石も匂い、鳥も唱っている。
感ずることによってある世界はいつも活き活き生きている。
見えないものも見える。動けないものも動いている。
そしてみんな元気だ。空には音楽が満ちている。
(『晴風抄』より)

命の世界は感じたことが全てで、考えた時にはもう死んだ物だ。最初から「一つ」であることが判れば、いつも活き活きしている方で生きられる。タロマルを見てると、この世界がどうなっているかがよく解る。この世に一つでないものは無いのだが、人の認識が対立を生む。但しこちらが対立して視ていても、おかまいなしで「一つ」なのが救いだ。これから「なる」のではなく、いつも一つだからそこがいい。寝ぼけていても目覚めていても、みんな〔今〕という同次元の世界に、同じ「一つの息」で生きているではないか。

これでいいのだ。

葉桜2