エリアーデ

夜は禅寺に出かけた。大学生の時に手塚治虫の『ブッダ』を読んで以来、お坊さんオタクを公称している。いつまでたっても凡俗の趣味の域を脱しないのだが。若い時分に最初に通ったのが臨済宗のお寺で、今は曹洞宗の方が縁が深い。

極々個人的偏見だが、臨済系は「喝」のイメージが強い。「白なんだか黒なんだかはっきりせー!」という印象だったが、曹洞宗は「一切追わない」という黙の一字を色濃く感じる。派手さはないが、白でも黒でもない「実体」の方に生身で触れていく禅風が今はしっくりいっている。

野口先生は岩波文庫の『臨済録』を何冊もボロボロになるまで読み倒したという記録が残っている。臨済と言えば、「即今・目前・聴法底(そっこん・もくぜん・ちょうぼうてい)」という風に悟りを表現した。解り易くいうと「いま・わたしが・ここで」という話である。

昨年のことだが、「朝比奈さんは最近何か俗っぽさが消えましたね」と言われたのだが、その時ばかりは「これはマズではないか」と思ったものだ。当り前だが人の生活に「俗」もなければ、「聖」もない。俗がケガレなら聖もケガレである。じゃあその聖・俗の両方が消えたら「空」とか「無」になるんですかと言うと、そんな馬鹿げたことがあるわけない。必ずいつだって「残る」ものがある。それがさっきの「いま・わたしが・ここで」というこの三つで、これは誰もが最初っから与えられている、不滅の三宝である。

野口先生はもう亡くなられているのでいくら気張っても訊けないのだが、おそらくは「禅」も「健」も同一に観ておられたのではないかと思っている。健康と言うのはこれから「なる」ような手続きは一切いらない。いずれも絶対性を帯びたもので、人は死なない限り健康からは生涯逃れられないのだ。ところが一念そこに疑いが起こると、不滅のはずのものが瞬く間に消失してしまう。そして探すのやめるとまた見える。だから何もしない時の「自然の健康」を保持しよう、という結論に帰着されたのではないだろうか。

探すのをやめたとき見つかることはよくある話で、悟っても悟らなくても同じ阿呆ならさっさと踊った方が良いではないか。ということで今日も活元運動をやってみる。失われないものが「今」もちゃんとあるかという点検作業なのである。