ままならぬ人の心 -潜在する心へのアプローチ法さまざま

ままならぬ人の心

人間というものは思いがけない失敗をしでかしてしまったり、してはならないと知りつつやってしまったり、おろかなことを繰り返すものである。われわれは「ままならぬ」のは他人の心と思いがちであるが、自分自身の心でさえ、案外「ままならぬ」のである。(河合隼雄著 『無意識の構造』 中公新書 p.12)

今日は河合隼雄さんの文章から。ここに自分自身の心でさえ「ままならぬ」と表現されているように、ほとんどの人が「自分で考え、自分で行動している」と思っていながら、実際のところでは自分で思う自分というものの認識外、いわゆる「潜在意識」というものに無自覚に支配されて動いている。

だからこそ「自分」の統制からはずれて「思わぬ」ことをやってしまい、本人並びに周囲の人たちまで巻き込んで当惑するような問題事が人間の世の中には後を絶たない。こうしたイザコザの中でも、とりわけ余分なものを見つけだし、その処理を担うことも整体という仕事の範疇として求められる。

簡単に言えばこういうコントロール外の動きをしてしまうようなのは高潮時、エネルギーが余った時に起こる。だからこういう「人間生命の波(バイオリズム)」を読んで、その波に逆らわないように停滞したものは流してやり、破壊的になりそうなものはそこへ少し棹差して流れの向きを変えてやる。文章にするとすこぶる単純だが、これを個々人の資質や状況に合わせて行なうとなると精緻な勘を前提とした実践的訓練を要する。

心理療法において、こうした見えざる心の動きをどのように対処していくのかは知らないが、整体の場合は幸いにして「身体を読む」という技術があり、それがここでは有効に使われる。簡単に言えば、その「ままならない心」というものは体表上には筋緊張として現れるし、内面的には無為動作の偏り傾向として、すまり視覚と皮膚感覚を駆使することで捉えられる。

なんであれ、人間が一生のうちに行う大仕事といえば、やはりこの「ままならぬ自分の心」の構造を自ら解き明かすことだと言っていいだろう。つまりは意識活動の根幹、それも最下層部へのアクセスが求められるのだが、多くの人はここを素通りした「自我」を用いて、外界現象の方にしか認識の光が及ばない。

%e6%ba%80%e6%9c%88整体においては、その潜在化した意識の扉を開く鍵が身体への刺戟なのだ。筋肉を弛めることで、一旦沈潜化した意識はその拘束をとかれ、良いものも悪いものも顕在意識の領域まで浮上してくる。これを私は「感じ直し」の作業と呼んでいるが、これにより「ままならない」領域にしまわれた心のエネルギーは意識の中に統合されて、再び、あるいは初めて自我との対面を果たす。精神の健全さとは、こうした意識の内面の活動を積極的に行えている状況を指すと思っていいだろう。

整体指導者やカウンセラーの個人的力量の問題もあるので、一概にどちらがより有効であるとは言えないが、整体のようにフィジカルな領域を介在せずして癒しを行える傾聴型カウンセラーはすばらしい人間力を有していると思うのだ。

問題は手法の選出よりも個人の力量如何にかかっている。それはリードする立場の方が自分の心をどれだけ理解しているかということだろう。その理解できた領域までが他者を扱える領域ということになる。ままならぬ人の心にどのように取り組んでいくかも、個人の資質によって様々なのだ。私は職業的経験も踏まえつつ、何が人生の妙味かといったらこれ以上のものはないと確信している。

ごく平易に言えば「悩む」ということなのだが、ここで野口先生の「悩むといいことはよいことだ。これあって人間は進歩する。」という言葉が味わいを伴って思い出されるのだ。ものごとの本質をさっと捉える質であったからこその至言であることは明らかだ。そもそもが心の研究というのは個人の内で完結するものなので、「先見の明」という言い方は不適かもしれないが、やはり心理療法的観点から言えば先駆けというに相応しい。整体の真価が求められるのは、東洋の心の世界に着眼が定まる現代にあって、正に「これから」だと思う今日この頃である。