虚を活かす

最近になっていよいよ「何もしない」ことが増えてきた。

臨床の話である。

以前はどうしても「治るように、治るように」という気持ちが先だって、クライエントさんと一緒になってくたくたになっていた。

近頃はただひたすら「どうなっているのか?」という探求の心だけをふところに忍ばせて、ひたすら時間を供にするようになっている。

いや、こういう紋切り型の態度でやれるほど生きた人間の臨床は甘くはないのだが、全般に「どうにかしよう」と躍起になるようなことはなくなってきた。

野口整体というのは一言でいえば「何故そうなったのか?」なのである。

話を聴く、身体を読む、全体の様子を感じ取る、そうして今日に至ったイキサツを知ることがその全てなのだ。

あらゆる問題事は原因がわかった時点で解決したも同然である。

これを生きた人間に当てはめれば、「理解」と「治癒」は同じものなのだ。

だから何故かが解れば結果論的に「何もしないでも良くなる」ということが起こってくる。

決して治療者がすばらしいのではない。クライエント自身の情熱によって自己分析が深まった結果なのだ。

このときには人格もかつてのものより全体性に向かって変容成長し、より安定的な人間像を現すことになる。

真の治療は「有限である人間が無限の人間を理解しようとする」、そのダイナミズムの中にのみ存在する。

ヒポクラテスの時代から、いやおそらくそれ以前から医学はあったが、この核心に至った治療者はわずかと思われる。

くり返すが〈いのち〉は有限である。

その有限の〈いのち〉の中で生命の無限の神秘に迫ろうというのだから土台無理があるのだ。

しかしその無理の中で奇跡は絶えず起こり、次々と人が人を癒していくのだから見事なものである。

治療の主体は常に治癒を体現するその人であり、治療者はただ雰囲気と環境を提供する援助者でしかありえない。

だから厳密に見れば「何もしていない」とは言えないのだが、援助者が無力であればあるほどかえって治癒がはかどるというパラドックスが生じるところが臨床の醍醐味でもある。

野口晴哉先生がその辞世の謳「我は去る也」の中で「我が説きしこと 一言にいえば 虚の活かし方也 無の活動法也」という言葉を遺されている。

「虚を活かす」ということが本当のところ何を意味するのかは今後も深く吟味すべきところではあるが、一つには治療者が虚に徹することで治癒者が実になるという構図を今の私なら思い浮かべる。

老荘的に言えば「無為」という一言に帰結しそうである。この無為を真に体得するために「実」を積み重ねる、つまり技術を修めその使用を慎むというプロセスが求められるのではないだろうか。

最初から何もないものをそのまま「何もしない」では、その「虚」に力を持たせることは無理であろう。虚を活かすにはそれだけ「実」を充実させることである。

具体的には理論の習得と技術の練磨は終生必須ということである。「技はその使用を慎むために修める」という先師の言葉もつづけて思い出される。

もとより人間の探究に到達地点などはないのだから、現在地などさっさと通り過ぎて新たな景色を求めたい。無為の底知れぬ力を本当にものにするのはまだまだ先だろう。