自律神経失調症という思考停止ーたましいのノスタルジア

「たぶん自律神経が乱れているんだと思います‥。」

指導室でこういう自己申告をよくお聞きする。

それは確かにそうなんだけれども、乱れているというより、もっと正確に言えば乱しているのである。

本人としては勝手に自律神経が乱れてそれで病症に苦しんでいるように思っているけれども、頭から余分な指令を出さなければ末梢神経は自然と落ち着いて来るものだ。

何でもかんでも自律神経失調症と言ってしまえばそれまでで、それ以上先はブラックボックスになる。

まあ動悸とか、睡眠障害、便秘などなどよくわからない不定愁訴は「自律神経失調症」ということで片付けられてしまうから、便利なようだけれどもその実不便な呼称である。

基本的に内科では対症療法しかとれないし、精神科でカウンセリングを受けてもなかなかかんばしい結果は得られない。

私が思うに自律神経に関しては整体法の独壇場ではないかと思っている。

我々が相手にするのは、レントゲンやCT、MRI検査に映らない「何か」である。

敢えて名を呼べば「たましい」だが、こう言うとともすればいかがわしい響きをふくんでしまいそうなので臨床ではあんまり使わない。

無論「たましい」が何か悪さをするわけはなく、自分が「たましい」に背くとき身体が悲鳴をあげるのである。

すべての病症は、全身の肉体と血液が「自分よ正気に還れ」と叫ぶ聲である。

自分らしい気配が一切消えるまで病み抜くと、そこではじめて「たましい」と繋がれるのだ。

ユングはこれをヌミノース体験と呼ぶけれども、大抵はここまで到達するずっと手前で病症を中断してしまう。

その手段は日本の場合、投薬がほとんどだけれども、自然科学というのは基本的に人間を「たましい」から引き離すものだ。

これは非常に恐ろしいことだけれども、その実、科学にすがることで我々は物質的には豊かに生きていられるんだから訳がわかんない。

ただ野口整体の門を叩く多くの人は、無意識的に「たましい」への望郷に駆られている気がしてならない。

身体の訴えの奥底に「たましい」へと通じる道がある。

日に一度、意識を閉じて無意識の扉を開こう。