空手コンステレーション

ふり返ってみると、自分で自分の人生を歩みはじめた第一歩は高1で空手の道場に入門したときではないかと思う。

あそこから身体・心理・人生に対する態度が大きく変わった。

とはいえその当時はなにが何だかさっぱりわからない状態で生きていたけれども、今にして思えば自分にとって武道は「補償」である。

それまで大分オタクな子供だったので肉体の鍛錬でバランスを取ろうとしたのだ。

そしてフィジカルに偏り過ぎた結果精神世界に興味を持ち、さらにまたそのあとで身体性に戻ってきた。

空手も整体も理屈ではじめたわけではない。なにかその方向に惹かれたからで、いずれも自分らしい「個性化」に向かう無意識の動きに他ならない。

ところで、人生は個人の意思ではなく偶然の「めぐり合わせ」で構築されていく、というのがユングのコンステレーション理論である。

自分の中に息づく、自分のあずかり知らない無意識のエネルギーが次々と実体化していくことでその人だけの「人生(=物語)」が生まれていく。

スティーブ・ジョブズの有名なスピーチの中で人生の「点と点をつなぐ」という話があるが、この「点」が連続してつながることで形成されたのが現在の「私」である。そしてその現在の私もまた「点」なのだ。

全く光が見えずにこわごわ歩んでいた時も、結果的にはずっと何かに導かれていたことになる。

「行きたい場所」はあっても、実際に自分が「どこに行くか」はわからない。それは海流の中でボートを漕いでいるようなもので、自力で進んでいるつもりでも本当はみんな流れの中にある。

少しばかり半生が俯瞰で観えたところで現在も「流されている」ことには相違ないのだが、今はもう流されることに対する不安はない。

空手がそうであったように、今まで出会い経験してきたものたちが同じように自分を「然るべき場所」へと運んでくれると信じている。

もちろん努力を否定はしないが、自分の持てる力を一とすれば「流れ」のエネルギーは百とか千をはるかに上回る。

今となっては流れに逆らう力を養うことよりも、流れに乗れる自然な心を大切にしたい。

今という「点」の連続が一体どんな「線」を描いているのか、それはずっと後になって見なければわからないけれども、「いのち」は絶対に自分を裏切らないのである。

そういう確信が芽生えたのは、この仕事でいろいろな方とお会いしたことで得た一番の収穫だ。今日一日、目の前に何が出てきても、それはまぎれもない「私の姿」なのである。

全ての現象に畏敬の念をはらって静かに頭を垂れるとき、世界と自分の「いのち」の歯車ががっしりとはまり込んで動き出す。

少しおもむきを異にするが、孟子の説いた「大丈夫」とはこのような人間像を指したものと私には思われる。

運命のめぐり合わせを過酷にするのも安楽にするのも、自分の息の深さ次第である。

世界を整えようとする前に、ただひたすら自分の息と身体を整えればいいのだ。