むりしないほうがいい

この仕事をして、つくづく無理は禁物だと思うようになった。

いわゆる「病気」というのはみんな無理がたたったものだが、じゃあ無理ってなんだろうと考えると、その定義はなかなか多様になりそうだ。

私が思うに「自分に対する背き」、これが無理である。

本当はこうしたい、だけどそうできないのが世の中だ。

だからどうしても自分の本心良心に背いた言動が求められるのが実社会の常で、これがいわゆるタテマエ社会である。

心理学で「ペルソナ(仮面)」といわれるものはこのタテマエが複数あわさって形成されている。いわばその人が演じることを強いられている社会的な役割のことだ。このペルソナがなければ世の中は大変なことになってしまう。

たとえば警察官が誰も見ていないからと言って信号無視をしたら職務怠慢になってしまう。

あるいは医師が自分の嫌いな患者に対して治療を拒否することだって、道義的にも職業的義務の観点からゆるされない。

だからタテマエとかペルソナがしっかり働いているからこそ、社会秩序が一定に保たれているといえばそうなのだ。

こう考えていくと「無理をしない」ということは、そういうタテマエ・ペルソナを破って放縦になるということになる。

それではまずいではないか、と思われるかも知れないがこれが案外そうでもない。

それがいわゆる「趣味」とか「道楽」という枠組みの中で行なわれていれば大きな問題はないのである。

いわゆる「羽目を外す」ということもそうだが、いつも固い枠の中で生活している人が時間と場所を区切って、普段は行えない動きをすることは精神衛生上たいへん有益なのだ。

ところがペルソナの強い人というのも世の中にはいるもので、そういう人は1日24時間、1年365日、立場を離れても強固な仮面をかぶったままの生活をしている。

一般には先ほど挙げた警官のような固い職業の場合はそのような傾向になりやすい。他には教師、医師、それから宗教家など、いわゆる「善」に偏りやすい立場にある人は注意が必要である。

ガンとか肝硬変のような身体が冷たく、固くなる病気になるときは仮面のしたの素顔(本心)を忘れていることが多い。

そして病院ではレントゲンやMRIに心は写らないために、こうした心理的な多層構造はすべて無視されたまま、投薬その他の「科学的」治療が施されるのが常なのだ。

これで「治りますか?」と問われれば、理屈の上から言えば「治らない」はずなのに案外治っているところが人間の複雑性を物語っている。

これは病症体験によって自身のこれまでの生活態度や生き死にに対する価値観を更新したためである。言い変えれば病症体験を通じて「改心」される人が一定にいるからだと、私は考えている。

言ってみれば、ここまで生死のキワに追い詰められなければ変われないのが人間のかなしい性(さが)とも言えるだろう。

できれば軽度のうちに自分の本心良心に耳を傾けて、仮面のしたにも新鮮な風を入れてやることが望ましいことがわかるはずだ。

一方で、実は自分の素顔に気づくことにもリスクはともなうのだが‥。

具体的には、今まで確立してきた社会的立場を危うくしたり、家族のパワーバランスがくずれたり、といったことが多いけれども、生きている以上はこういう「ゆらぎ」が絶えず(できれば小規模に)行なわれて日々新しい自我意識を保ちつづけることが求められているのだ。

頑なな心は固定的にはなるけれども、それは安定的という状態からは遠ざかる。

岸壁は海水に削られるが、水が破壊されることはない。概して固いものは短命であり、やわらかいものには永続性がある。

よって心の中にも水のような自在な流れがあれば、喜怒哀楽を流転しながらも身体の弾力は自然に保たれる。

これは逆もまた真であり、身体を柔らかく保てば精神にもそのゆるみは波及するのだ。

これは精神身体現象、身体精神現象と呼ばれるもので、要は身心相即、不即不離なのだ。

いずれにせよ、心にも体に過剰な無理をかければ自我意識の達成感と引き換えに、「いのち」を縮めることにはなるだろう。

「いのち」を如何にすべきかはそれこそ個人の自由であるが、経験上、自分にも人にも「ムリ」はすすめられなくなった。

ペルソナを強化させるのが世の「教育者」の務めなら、ペルソナの拘束をゆるめて、からだの自然に身を任せる時間を提供するのが私の「反・社会的」役割りである。

マジメな人もそうでない人も、ときどき仮面をはずして、自分の素顔に新鮮な空気を吸わせてあげよう。